聖書 — 口語訳 (1955)
詩篇 137
概要
詩篇137篇は、バビロンに捕らえ移されたユダの民の歌です。川のほとりに座り、シオンを思い出して泣き、征服者のために歌うことを拒みます。この詩はエルサレムへの忠実さを誓い、最後にエドムとバビロンに対する、衝撃的なほど激しい呪いの言葉で終わります。この詩篇は、捕囚の痛みを隠さずに語らせ、その痛みを自分で復讐するのではなく、神にゆだねるよう招いています。
詩篇137篇には表題がなく、作者は分かっていません。これは共同体の嘆きの歌で、呪いの祈り、つまり神の裁きを求める祈りで終わります。詩篇自身が状況を語っています。紀元前587年ごろ、ネブカデネザルの軍勢がエルサレムとその神殿を破壊したあとの、バビロン捕囚です。動詞が過去形であることから、捕囚の間か、その直後に、それを経験した人が書いたと考えられます。冒頭の数節は、ヴェルディの歌劇『ナブッコ』の奴隷たちの合唱や、『リバーズ・オブ・バビロン』という歌に着想を与えました。今日、信仰者は、死別や根こそぎにされる経験、亡命、迫害の中でこの詩篇を祈ります。衝撃的なほど激しい結びは、クリスチャンの伝統によって読み方が異なり、公の祈りではこの結びの部分を省く典礼もあります。
この章の3つの区分
1われらは バビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。
2われらはその中のやなぎにわれらの琴をかけた。
3われらをとりこにした者が、われらに歌を求めたからである。われらを苦しめる者が楽しみにしようと、「われらにシオンの歌を一つうたえ」と言った。
4われらは外国にあって、どうして主の歌をうたえようか。
5エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば、わが右の手を衰えさせてください。
6もしわたしがあなたを思い出さないならば、もしわたしがエルサレムを わが最高の喜びとしないならば、わが舌をあごにつかせてください。
7主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と 言ったことを覚えてください。
8破壊者であるバビロンの娘よ、あなたがわれらにしたことを、あなたに仕返しする人はさいわいである。
9あなたのみどりごを取って 岩になげうつ者はさいわいである。
詩篇137篇を節ごとに読む
1-2節バビロンの川のほとりで、捕囚の涙
詩篇は忘れがたい情景から始まります。「バビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した」。川とは、ユフラテ川と、平野をうるおしていた運河のことで、預言者エゼキエルが捕囚の人々の中で暮らしたケバル川もその一つです(エゼキエル書1章1節)。捕囚の民は、町も神殿も土地も、しばしば身近な人も失いました。彼らは座っています。喪に服す姿です。涙を流すのは、神殿のあったエルサレムの丘、シオンを思い出すからです。神殿は、神が民の中におられることのしるしでした。そして琴をやなぎにかけます。祝いと礼拝の楽器はもう使われず、賛美は絶えました。聖書は、涙を隠せとは求めず、まず涙に名前をつけます。喪失や根こそぎにされる経験で言葉を失っているなら、この詩篇は、神の前で泣くことを許してくれます。
3-4節異国の地で、どうして主の歌をうたえようか
征服者たちは、敗北に屈辱を重ねます。喜びを求めて、「われらにシオンの歌を一つうたえ」と言うのです。それらはエルサレムを神が守られる都としてたたえる歌で、町を滅ぼした者たちのために歌えば、信仰を笑いものにすることになります。捕囚の民は問いで答えます。「われらは外国にあって、どうして主の歌をうたえようか」。そこには痛みと拒否があります。砕かれた心は、命じられても歌えません。また主の歌は、それをあざける者に見せる見世物ではありません。奥にはもっと深い疑いもあります。神殿から遠く、ほかの神々を拝む国で、なお神をほめたたえられるのだろうか。捕囚がその答えを示します。エレミヤは、住む町の平安を求めて祈るよう書き送り(エレミヤ書29章7節)、ダニエルは捕囚の地で一日に三度、神に祈り続けました(ダニエル書6章10節)。神はエルサレムに閉じこめられておらず、民とともにバビロンまで来てくださったのです。
5-6節エルサレムよ、もし私があなたを忘れるなら:忠実さの誓い
ひとりの捕囚の民が誓います。「エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば、わが右の手を衰えさせてください」。右の手は琴をひく手、舌は歌う舌です。音楽家は、神の都を忘れるなら自分の技を失ってもよいと誓うのです。エルサレムを忘れることは、神の約束を忘れ、バビロンに根を下ろして、その神々を受け入れることです。覚えているとは、帰還の望みを持ち続けることです。詩人はエルサレムを「わが最高の喜び」とします。ヘブライ語では、あらゆる喜びの上に置くという意味です。単なる郷愁ではなく、痛みに約束を消させないという決断です。クリスチャンにとって、この誓いは新しい意味を持ちます。新約聖書は、私たちの国籍は天にあると述べ(ピリピ人への手紙3章20節)、神が涙をぬぐいとってくださる新しいエルサレムを告げます(ヨハネの黙示録21章2節から4節)。あなた自身の捕囚の中でも、神の約束を覚えていてください。
7節主よ、覚えていてください:エドムの裏切りを神にゆだねる
詩篇の最後は裁きを求める祈りで、あるがままに読むべきものです。詩人は、エドムの人々がエルサレムの日に言ったことを「覚えてください」と主に願います。エドムはヤコブの兄エサウの子孫で、イスラエルにとって兄弟のような隣人でした。それなのに陥落の日、彼らは破壊する者たちに「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と叫びました。預言者オバデヤは、彼らが兄弟の災いの日を喜び、逃れる者を敵に渡したことを責めています(オバデヤ書10節から14節)。身近な者の裏切りは、敵の暴力より深く傷つきます。しかし、詩人が語りかける相手に注目してください。彼は復讐を準備せず、神に覚えてくださいと願っています。この詩篇は記憶の詩です。民はシオンを思い出し、エルサレムを忘れないと誓い、いま、神にも受けた悪を覚えていてほしいと願います。不正を神にゆだねるとは、神が裁き主であると認めることです。
8節バビロンの娘よ:正義が行われるようにとの叫び
詩人はバビロンそのものに向かい、「破壊者であるバビロンの娘よ」と呼びかけます。バビロン崩壊のあとに書いたか、預言者たちが告げたとおり(エレミヤ書51章)すでに倒れた姿を見ているかです。バビロンは紀元前539年、ペルシャ王クロスに攻略されました。詩人は、バビロンがしたことを仕返しする人は幸いだと言います。目には目をという同害報復の原則は、聖書では、罪に見合った罰にとどめて復讐に歯止めをかけるものでした。捕囚の民が求めるのは正義であって、すべてを忘れることではありません。新約聖書もこの渇きを軽んじません。黙示録でバビロンは、諸国民を踏みにじる権力の象徴です。天からの声はそのしわざに応じて報いよと告げ、神が裁かれたことを信じる者たちは喜びます(ヨハネの黙示録18章6節、20節)。正義を求める願いは悪いものではなく、神は真剣に受けとめられます。問題は、だれがそれを行うかです。
9節最も厳しい叫びを、イエス・キリストの光に照らして
最後の節は衝撃的ですが、和らげてはなりません。「あなたのみどりごを取って岩になげうつ者はさいわいである」。包囲下のエルサレムでは、子どもたちが飢えて母の腕の中で息絶えました(哀歌2章11節から12節)。詩人は見たことを神に叫びます。この節は、聖書が検閲しない生の痛み、バビロンへの預言者たちの裁きの響き(イザヤ書13章16節)、教父アウグスティヌスのように、悪を芽のうちにキリストという岩で砕く象徴、と読まれてきましたが、どれも従うべき模範とはしません。イエスは敵を愛し、迫害する者のために祈るよう求められ(マタイによる福音書5章44節)、パウロは復讐を神の怒りに任せるよう勧め(ローマ人への手紙12章19節)、十字架の上のイエス自身も、ご自分を十字架につけた者たちのために祈られました(ルカによる福音書23章34節)。怒りを神に打ち明けましょう。赦しの道を教えてくださるのは、神だけです。
詩篇137篇の祈り方
この詩篇を祈るとき
- 祖国や大切な人たちから遠く離れて暮らし、ホームシックで胸が締めつけられるとき。
- 悲しみがあまりに重く、歌うことも神をほめたたえることもできなくなったとき。
- 家や教会、あるいは大切だった場所を失ったとき。
- 信仰をあざけられたり、うわべだけの喜びを求められたりするとき。
- 重い不正を受け、怒りや、ときには復讐したい思いに押し流されそうなとき。
- 難民や避難を強いられた人々、迫害を受けているクリスチャンのために祈るとき。
詩篇137篇に基づく祈り
主よ、私は自分のバビロンの川のほとりにすわり、泣いています。私が何を失ったか、あの場所、あの人たち、堅いと思っていたあの暮らしを、あなたはご存じです。琴をかけてしまった日もあります。歌えないまま、あなたの前でふりをしたくはありません。それでも、あなたを忘れたくありません。あなたの約束を思い出さなくなるなら、私の舌をあごにつかせてください。怒りもあなたに申し上げます。私が受けたこと、そして今この時にも、ほかの人々が受けていることを、あなたはご存じです。踏みにじられる民、引き裂かれる家族、戦争の犠牲になる子どもたち。主よ、覚えていてください。義なる裁き主として、正義を行ってください。私は自分で復讐したり、だれかの不幸を願ったりしたくありません。ご自分を十字架につけた者たちのために祈られたイエスのように、私の訴えをあなたにゆだねます。不可能に思えるときも、敵を愛することを教えてください。すべての国の子どもたちを守ってください。そして私の心を、あなたがすべての涙をぬぐいとってくださる新しいエルサレムへ向けてください。アーメン。
鍵となる聖句
われらは外国にあって、どうして主の歌をうたえようか。
この問いは、心が砕かれているときに異国の地で神をほめたたえることの難しさを語っています。まことの賛美は作り出せるものではないことを示しています。
エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば、わが右の手を衰えさせてください。 もしわたしがあなたを思い出さないならば、もしわたしがエルサレムを わが最高の喜びとしないならば、わが舌をあごにつかせてください。
捕囚の民は、エルサレムを忘れないと誓います。神とその民を覚えることは、試練の中での忠実さを表す行いです。
あなたのみどりごを取って 岩になげうつ者はさいわいである。
最後の節は、聖書の中でも最も厳しいものの一つです。不正に対する人間の怒りを表しており、まねるべき指示ではありません。クリスチャンの伝統は慎重に読み、敵を愛するようにというイエスの招きに照らして受け止めます。
詩篇137篇についてよくある質問
詩篇137篇はどんな意味ですか
詩篇137篇は、バビロン捕囚の間、またはその直後に書かれた悲しみの歌です。ユダの民は、エルサレムへの郷愁、抑圧する者のために歌うことへの拒否、そして都を忘れないという誓いを言い表します。最後は復讐の叫びで終わります。怒りが和らげられていない、数少ない詩篇の一つです。
なぜ詩篇137篇は、こんなに激しい節で終わるのですか
9節は、エルサレムの陥落で子どもたちが虐殺されるのを見た民の怒りを表しています。聖書はその感情を消し去らず、神にゆだねます。多くの注解者は、これを痛みの叫びと見なし、従うべき模範とは考えません。イエスは敵を愛するように求めておられるからです。この読み方については、クリスチャンの伝統の間でも見解が分かれます。
詩篇137篇は今日どのように祈ればよいですか
この詩篇は、試練、捕囚のような状況、悲しみの中にある人や、故郷から遠く離れていると感じる人にふさわしいものです。1節から4節を読み、無理に歌おうとせず、重くのしかかっていることを神に話しましょう。次に5節と6節で、神がしてくださったことを忘れないよう祈ります。そして、自分で復讐せず、怒りを神にゆだねます。
口語訳(1955年)— パブリックドメイン。