
はじめに
福音書の中に、ひとつの場面として重ね合わせると、ほとんど耐え難く感じられる瞬間があります。イエスはろばの子に乗ってエルサレムに入られました。過越の祭りのために全国から集まった数万の人々が、イエスを歓呼して迎えます。人々は「ホサナ。主の御名によって来られる方に、祝福があるように」と歌います。宗教指導者たちは抗議しますが、イエスは、もし彼らが黙るなら石が叫ぶだろうと答えられます。そして、この力強い賛美が響き続ける最中に、イエスは町を見つめ、泣き始められました。群衆は賛美している。イエスは泣いておられる。このパストラルメッセージは、この対比が突きつける問いへとあなたを招きます。あなたがイエスを賛美するとき、あなたが賛美しているのは、イエスが本当はどなたであるかということでしょうか、それとも、あなたが期待していた王としてのイエスでしょうか。
メッセージの概要
1.ひとつの場面であって、三つではない
- 私たちはこの箇所を、しばしば分割して読みます。群衆の賛美、宗教指導者たちとのやり取り、そしてエルサレムに対するイエスの涙です。
- しかし実際には、すべてが同時に起こっています。「ホサナ」と歌われている間に、イエスはパリサイ人たちに語りかけ、「ホサナ」と歌われている間に、イエスは町を見つめて泣いておられるのです。
- この同時性がすべてを変えます。イエスは、まさに自分自身への歓呼のただ中で泣いておられるのです。
2.彼らが期待していなかった王
- 群衆は、馬に乗り、ローマ人を討ち、イスラエルを政治的に解放しに来る王を期待していました。
- イエスはろばの子に乗って来られました。それは全く別の隷属、すなわち罪、内なる鎖、人を捕らわれの身とするあらゆるものから解放するためでした。
- 賛美は熱烈で力強いものでしたが、それはイエスが来られた目的とは異なる王に向けられたものでした。
3.「もしおまえが、この日に、平和をもたらす道を知っていたなら」
- イエスはエルサレムに言われました。「もしおまえも、この日のうちに、平和をもたらす道を知っていたなら。しかし今は、それがおまえの目から隠されている」(ルカの福音書 19:42, LSG)。
- 彼らは平和の君の前に立ち、賛美を歌っていながら、自分たちに差し出されていた平和の傍らを通り過ぎていたのです。
- 本物のイエスではなく、想像上のイエスを祝う賛美は、イエスを泣かせる賛美なのです。
ポイント
- 賛美は騒がしく、誠実で、熱烈でありながら、それでもイエスが本当はどなたであるかを見失っていることがあります。
- 私たちの祈りや賛美の多くは、イエスご自身からではなく、私たち自身から来る期待をイエスに向けています。
- イエスは私たちの計画に応えるために来られたのではなく、ご自身の計画、すなわち私たちを内なる鎖から解放するために来られました。
- イエスが本当はどなたであるかを認めることこそ、イエスを泣かせない賛美の始まりです。
- イエスに何かをしてほしいということではなく、イエスご自身に中心を置いた礼拝こそ、真の平安に至る唯一の道です。
個人的な適用
- 今週、率直にこう自分に問いかけてください。私がイエスを賛美するとき、それはイエスが本当はどなたであるかのためでしょうか、それとも私がイエスにしてほしいことのためでしょうか。
- ルカの福音書 19:28-44 をゆっくりと読み、聖霊に、あなたがイエスがろばの子に乗って来られるところに「馬に乗った王」を期待していないかどうか、示していただくよう求めてください。
- 何も求めずに、ただイエスが本当はどなたであるかだけに焦点を当てた賛美の時を持ってください。イエスの品性、真実さ、愛を声に出して言い表してください。
- あなたがイエスに対して抱いていながら、まだ満たされていない期待をひとつ見つけてください。その期待が叶うかどうかに信仰を左右させることなく、それでもイエスを礼拝することができるでしょうか。
- 今週、イエスが何かをあなたに与えても与えなくても、あなたの望むことをしてもしなくても、イエスを賛美すると決めてください。
引用聖句
よくある質問
これは、私の賛美が神に喜ばれるほど「正しく」ないという意味でしょうか?
いいえ、違います。このメッセージは、あなたの礼拝に恐れの層を上乗せするためのものではありません。イエスが泣かれるのは、賛美が技術的に完璧でないからではなく、賛美する心がまだイエスが本当はどなたであるかを認識していないからです。ここでの招きは、もっと上手に歌うことではなく、もっとイエスを知ることです。イエスがどなたであるか、すなわち謙遜で、忍耐強く、あなたを内側から自由にするために来られた方であることを知れば知るほど、あなたの賛美は自然と整えられていきます。誠実さはすでにそこにあります。成長していくのは、あなたが礼拝している方についての真理です。
イエスが本当はどなたであるかを賛美することと、イエスがしてくださることを賛美することの違いは、どう見分けたらよいでしょうか?
ひとつの良い内省的なテストがあります。もしイエスが求めているものを与えてくださらなくても、それでも賛美し続けるだろうか、というものです。もしイエスが、馬ではなくろばの子に乗って、つまり謙遜に、目立たない形で、あなたが予定していたようには問題を解決せずに、あなたの人生に入って来られたとしても、同じように礼拝するでしょうか。イエスが本当はどなたであるかを賛美するとは、あなたの状況の中でのイエスの行いに関係なく、イエスというお方だけで十分だと決めることです。それは、イエスが働かれることを否定することではありません。ただ、自分の礼拝を結果次第にすることを拒むということです。
イエスが言われた「おまえが訪れを受けている時」とは、どういう意味だったのでしょうか?
イエスは、神ご自身が目に見える形で現れ、近づきやすくなり、ご自身の平和を直接差し出しに来られる、まさにその瞬間について語っておられます。あの日のエルサレムにとって、それはメシアが町に入って来られたことでした。今日の私たちにとっては、主が私たちの人生の中に現れてくださる瞬間、しばしば私たちが期待していたのとは違う形で、私たちが想像していたよりもずっと目立たない形で、現れてくださる瞬間のことです。悲劇は、別のものを探していたために、それを見過ごしてしまうことです。訪れの時を認識するとは、イエスが来てほしいと願っていた形ではなく、実際に来られる形のままにイエスを見ることを学ぶことです。
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