御言葉の祝福の中を歩む

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御言葉の祝福の中を歩む

どんな靴にも、物語があります。私は何百足もの靴に囲まれて育ちました。父は五十年以上、靴職人をしていたのです。古いもの、新しいもの、すり減ったもの、壊れたもの、ありとあらゆる種類の靴を見てきました。そして、接着剤と革のにおいを嗅ぐたびに、その靴を履いていた人の人生の一部が、そこに刻まれているのだと分かりました。

あなたもまた、旅の途中にいます。もしかしたら、熱意と決意を持って歩いているかもしれません。あるいは反対に、疲れ果て、意気消沈し、どこへ向かえばいいのか分からず、岐路で立ち止まっているかもしれません。そういうこともあります。人生とは、そういうものでもあるのです。しかし今日、あなたがつかみ取り、携えて行くべき良い知らせがあります。神さまは、あなたをまだ諦めていません。 あなたの人生の章を閉じてはいません。あなたの前には、切り開かれた道、祝福への道があります。そして神さまの御言葉こそが、その道を歩むためにあなたに与えられた祝福なのです。

1. 御言葉は、神さまが道のためにあなたに与えてくださった祝福

私たちは、でたらめに歩いているのではありません。神さまの御言葉こそが、私たちの歩みに方向を与え、力を与え、意味を与えるものです。それはまるで、足に合った一足の靴のようなものです。それがなければ、足を痛め、道に迷い、立ち止まってしまいます。それがあれば、あなたはどこへ向かっているのか、誰が共に歩んでくれているのかを知ることができます。

御言葉の祝福の中を歩むとはどういうことか理解するために、共にマルコによる福音書5章を見てみましょう。それは、会堂司ヤイロと、長血をわずらう女性の物語です。二つの物語が交わり合い、私たちが道の途中でイエスさまに出会うとき何が起こるのかを示してくれます。

2. 「立派な人」であっても、イエスさまの足もとにひれ伏す

ヤイロは会堂司でした。役割があり、地位があり、認められた権威を持っていました。それでも、自分の娘が死にかけているとき、彼はすべてを捨てて、イエスさまの足もとにひれ伏します。もはや肩書きなど問題ではありませんでした。娘が死にかけているのです。そして、イエスさまだけが何かをしてくださると、彼は知っていたのです。

ここで学んでほしい最初のことがあります。状況があなたを超えてしまったとき、自分の役割や体面、評判の陰に隠れてはいけません。 イエスさまの足もとにひれ伏しなさい。祝福への道は、そこから始まるのです。

3. イエスさまは、たとえ気を取られているように見えても、決して遅れることはない

イエスさまがヤイロの家に向かっている途中、邪魔が入ります。十二年間長血をわずらっていた女性が、イエスさまの衣に触れ、癒やされたのです。イエスさまは立ち止まり、その女性を探し、話しかけます。その間、ヤイロは待っています。娘が死にかけている間、ずっと待っているのです。

あなたにも、同じことが起こります。あなたは祈り、待ちます。そして神さまが誰か他の人にかかりきりになっているように見えます。どこか他の場所で立ち止まっているように見えるのです。しかしイエスさまは決して気を取られてなどいません。 その歩みには、意図があります。もしすぐにあなたのところに来ず、まず他の誰かのところを通られたとしても、そこには理由があります。神さまの栄光が現れなければならないのです。私たちはいつも理解できるわけではありませんが、そのすべての判断の背後には、一つの筋道があるのです。

4. どんな助言も、あなたの道に良いとは限らない

最悪の知らせが届きます。「お嬢さんは亡くなりました。もうこれ以上、先生を煩わすことはありません」 これはヤイロの使用人たちの言葉です。彼らも善意で言っている、親しい声です。しかし、そこには落胆がもたらされています。衝撃と、そして人間的な助言です。もう諦めなさい、しつこくしないほうがいい、と。

気をつけてください。すべての意見が人を育てるわけではありません。すべての助言が、あなたが今通り過ぎている瞬間にふさわしいとは限りません。 イエスさまがラザロの家に行こうとしたとき、弟子たちでさえ、それを止めようとしました。「行かないでください、殺されてしまいます」 ヨブの妻でさえ、夫の苦しみを前にしてこう言いました。「もう終わりにしましょう」 ときに、私たちの周りにある考えや言葉、助言が、神さまの完全なご計画への妨げとなってしまうことがあるのです。

あなたの人生について誰が語り、誰が祈るのかを決めるのは、あなた自身です。自分の考えを守りましょう。疑いに場所を与えてはいけません。人の声ではなく、神さまに拠り頼みましょう。

5. まず「恐れることはない」、それから「ただ信じなさい」

「しかしイエスは、その言葉を聞き流して、会堂司に言われた。『恐れることはない。ただ信じなさい』」(マルコによる福音書5章36節

この順番に注目することが大切です。まず恐れることはない。それからただ信じなさい。イエスさまは、まず信仰を求めるのではありません。まず恐れを手放すようにと求めるのです。なぜなら、恐れは信仰を妨げるからです。恐れは人を麻痺させ、混乱をもたらし、息をすることさえできなくします。恐れがあなたの中にとどまっている限り、あなたの信仰は完全には解き放たれません。

「神さまの愛は、あらゆる恐れを締め出します」 神さまを知れば知るほど、神さまが善い方だと知れば知るほど、神さまに信頼すればするほど、状況がどうであれ、恐れは去っていきます。恐れが消え去ったとき、初めてイエスさまはあなたにこう言うことができます。ただ信じなさいと。イエスさまは、あなたに霊的なアクロバットをしなさいとは求めていません。豆の上をひざまずいて歩けとも求めていません。ただ、信じなさいと求めているのです。イエスさまに寄りかかりなさい、すべてを知ろうとしなくてよいのです、と。ときに私たちは、理由や方法を理解したいと思ってしまいます。ただ信じるということは、こういう意味です。あなたはすべてを知る必要はありません。ただ、私に寄りかかればいいのです。

6. あなたの信仰が冷めてしまっていても、イエスさまは戻って来て「信じなさい」と言われる

ヤイロは、イエスさまの足もとにひれ伏したとき、すでに一度信じていました。しかし、娘の死の知らせを前にして、その信仰は揺らぎます。そしてここに、美しいことが起こります。イエスさまは戻って来て、彼に語りかけます。戻って来て、「ただ信じなさい」と言ってくださるのです。

もし今日、あなたが以前のように信じられなくなっていたとしても、罪悪感を持たないでください。数日が過ぎ、重い状況が続いた後に、信仰が低下し、弱まり、冷めてしまうことがあります。イエスさまはあなたを見捨てません。戻って来て、こう言われます。恐れることはない、ただ信じなさいと。そして、以前よりもさらに高いレベルの信仰へと、あなたを引き上げてくださるのです。

7. あなたの霊的な環境を守りなさい

家に着くと、イエスさまは、騒がしさ、泣き声、絶望の叫びを目にします。イエスさまは言われます。「少女は死んだのではない。眠っているのだ」 すると人々は嘲笑い、彼をあざ笑います。そこでイエスさまは、全員を外に出させます。父親と母親、そしてペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちだけを連れて、子どもが横たわっている場所に入っていきます。

ここに、根本的な教訓があります。あなたは、自分の望む人と共に信仰を生きる権利があります。 あなたを励まし、あなたのために祈り、あなたと共に、神さまがなさろうとしていることを信じてくれる人たちと共にです。それ以外の声は、外に出しましょう。物理的にではなく、あなたの考えから、あなたに言わせようとする言葉から、外に出すのです。

そして、私が言っているのは人だけではありません。テレビや携帯電話で見ているものについても同じです。霊的に、あなたの心を守りなさい。 すべての声が、神さまの約束があなたの人生において成就するために決定的なものとは限りません。あなたの状況について誰が語る権利を持つかを決めるのは、あなた自身です。

8. 「タリタ、クム」、たった一つの権威ある言葉

イエスさまは少女の手を取り、こう言われます。「タリタ、クム」 これは「少女よ、起きなさい」という意味です。すると、すぐに少女は起き上がり、歩き始めます。

シンプルなしぐさです。たった一つの言葉です。アクロバットも、見せ物もありません。明確で、直接的で、権威に満ちた言葉です。これは預言的なしぐさです。イエスさまは、ご自身の死と復活を通してやって来ることを告げているのです。死にはもはや力がないことを、示しておられるのです。イエスさまが死に勝利されたことを。

「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(コリントの信徒への手紙一15章55節)。しかしこの宣言の前に、一つのしぐさがあります。死は勝利によって飲み込まれたのです。あなたが飲み込んで二度と戻ることのない唾液のように、死はイエス・キリストの十字架の上での命によって飲み込まれたのです。

9. 苦しみは存在するが、希望が勝る

気をつけてください。これは、私たちが苦しまないという意味ではありません。悲しみを経験しないという意味でもありません。苦しみは、私たちの人生の一部です。喪失は、それに必要な時間だけ経験されるものです。一か月、一年、十年、あるいは一生かかることもあります。それは正常なことです。私たちは誰かに「もう苦しむのはやめなさい、十分でしょう」と言うことはできません。

信仰は苦しみを否定しません。信仰は、希望と共に、それを担うのです。 「主の憐れみは朝ごとに新しい」(哀歌3章22-23節)。これが、今日神さまがあなたに語りたい御言葉です。もしあなたが落胆していて、何も変わらないから信仰が崩れていくと感じているなら、神さまはこう言われます。恐れることはない、ただ信じなさい。力を取り戻しなさい。命を取り戻しなさい。

覚えておきたいポイント

  • 神さまの御言葉は、あなたの道のために与えられた祝福です。 それなしで歩んではいけません。
  • 肩書きや役割、評判があったとしても、イエスさまの足もとにひれ伏しなさい。 祝福はそこから始まります。
  • まず「恐れることはない」、それから「ただ信じなさい」。 恐れは信仰を妨げるので、最初に取り除かれなければなりません。
  • すべての助言が良いとは限りません。 あなたの霊的な環境を守り、誰があなたの人生について語るかを選びなさい。
  • イエスさまは死に勝利されました。 苦しみは残りますが、最後には希望が勝つのです。

個人への適用

  1. 今日、どんな「恐れ」があなたの信仰を妨げていますか。それを信じようとする前に、イエスさまに委ねることができますか。
  2. あなたと共に信じてくれる人は誰ですか。反対に、あなたの信仰を「あざ笑う」人は誰ですか。物理的にではなく、あなたの考えから、外に出すべきものは何ですか。
  3. 信じる前に「すべてを理解したい」と思っている状況がありますか。どうすれば、ただイエスさまに「寄りかかる」ことを学べますか。
  4. あなたが毎日消費しているもの、テレビ、SNS、会話の中で、あなたの霊的な環境を弱めているものは何ですか。
  5. あなたの信仰が冷めてしまった分野はありますか。今日、イエスさまの言葉を受け取りましょう。「恐れることはない、ただ信じなさい」

引用された聖句

よくある質問

「御言葉の祝福の中を歩む」とはどういう意味ですか。

それは、旅に合った一足の靴のように、神さまの御言葉にあなたの歩みを導かせるということです。それは魔法の公式ではありません。状況がどうであれ、神さまが語られたことに自分を委ね、その約束をあなたの確かな足場とすることです。

なぜイエスさまは、「ただ信じなさい」より前に「恐れることはない」と言われるのですか。

それは、恐れが信仰を妨げるからです。恐れがあなたの中にとどまっている限り、あなたの信仰は息をすることができません。イエスさまはまず、ご自身の愛を知ることによって恐れを解決してくださり、それからすべてを理解する必要なく、ただ信じるようにと求められるのです。

もし私が苦しんでいるなら、それは信仰が足りないということですか。

いいえ。苦しみや喪失は、神さまの子どもたちにとっても人生の一部です。信仰は苦しみを否定しません。信仰は、イエスさまが死に勝利されたこと、そして神さまの憐れみが朝ごとに新しくされることという希望に支えられながら、苦しみを担うのです。

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