要約
ラザロと金持ちは、ルカ16章19-31節に記されたイエスのたとえ話の二人の登場人物で、歴史上の人物ではなく教えのための人物像です。金持ちは毎日ぜいたくに暮らし、できものだらけの貧しいラザロはその門前に横たわっています。二人が死ぬと、ラザロはアブラハムのそばで慰められ、金持ちは陰府で苦しみます。このラザロは、イエスがよみがえらせたベタニアの友人ラザロ(ヨハネ11章)とは別人です。
ラザロと金持ちという名前の意味
ラザロという名は、一般にヘブル語のエルアザル(神は助けた)と結びつけられます。貧しい人に名があり、金持ちには名がないことは注目に値します。本文はただある金持ちの人と言うだけです(ルカ16章19節)。「悪い金持ち」という呼び名は伝統から来たもので、聖書本文にはありません。
ラザロと金持ちの生涯
背景:貪欲なパリサイ人たち
ルカ16章13-15節イエスは、誰も神とマモンに仕えることはできないと教えたところでした。金銭を愛するパリサイ人たちはこれを聞いてイエスをあざ笑います。イエスは、神はあなたがたの心をご存じで、人間の間で尊ばれるものは神の前で忌み嫌われると答えられます。金持ちとラザロのたとえは、お金についてのこの警告を続けています。
同じ門前の二つの人生
ルカ16章19-21節紫の衣と上質の亜麻布を着た金持ちが、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。その門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が横たわり、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと願っていました。犬までが来てそのできものをなめました。金持ちは後で名前を呼ぶので彼を知っていますが、助けた様子はありません。
二つの死、二つの行き先
ルカ16章22-23節貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれました。金持ちも死んで葬られます。陰府で苦しみながら目を上げると、はるか遠くにアブラハムと、そのふところにいるラザロが見えました。地上での境遇は、完全に逆転しています。
大きな淵
ルカ16章24-26節金持ちはアブラハムに、ラザロを遣わして指先を水に浸し、自分の舌を冷やさせてほしいと願います。アブラハムは、おまえは生きている間に良い物を受け、ラザロは悪い物を受けたが、今は彼が慰められおまえが苦しんでいる、と思い出させます。さらに、二つの場所の間には大きな淵があり、誰も渡れないと告げます。
五人の兄弟
ルカ16章27-31節金持ちは次に、ラザロを自分の五人の兄弟のもとに遣わして警告してほしいと願います。アブラハムは、彼らにはモーセと預言者がいる、それに聞くがよい、と答えます。金持ちは、死んだ人が行けば悔い改めると食い下がりますが、最後の答えは明確です。モーセと預言者に聞かないなら、死んだ者がよみがえっても、彼らは聞き入れません。
ラザロと金持ちから学ぶこと
- お金は、自分の門前に横たわる人の苦しみに対して、人の目を見えなくすることがあります。
- 今の人生は永遠を左右します。このたとえは、死んだ後には行き先を変えられないことを示しています。
- 神は、世が顧みない貧しい人を見ておられ、その名前もご存じです。
- 神のみことばは悔い改めに導くのに十分であり、目を見張るしるしを必要としません。
- 神の前で大切なのは富や貧しさではなく、神のみことばに耳を傾ける心です。
鍵となる聖句
ラザロと金持ちについての説教
よくある質問
たとえのラザロは、ベタニアのラザロと同じ人ですか。
いいえ。ルカ16章のラザロはイエスの語ったたとえ話に出る貧しい物乞いです。ベタニアのラザロはマルタとマリヤの兄弟で、イエスがよみがえらせた歴史上の人物です(ヨハネ11章)。名前は同じですが、本文にこの二人を同一人物と見なす根拠はありません。
これはたとえ話ですか、それとも実話ですか。
ルカはこの話をたとえという言葉で始めてはいませんが、同じ章の初めの不忠実な管理人の話と同じく、ある金持ちの人で始まる形をしています(ルカ16章1節)。ですから登場人物は教えのための人物像です。それでもメッセージは真実です。イエスは死後のさばきの現実と、聖書で十分であることを教えておられます。
アブラハムのふところとは何を意味しますか。
ラザロが死後に御使いたちに連れて行かれる慰めの場所を指す表現です(ルカ16章22節)。神の民の父アブラハムのそばにいることは、彼との交わりと、正しい人の安らぎを思わせます。本文はこの場所を詳しく語らず、金持ちの苦しみとの対照を強調しています。