はじめに
すべてがうまくいっているように感じられる季節があります。神が答えてくださり、信仰は高く舞い上がり、励まされていると感じる時です。けれども、それとは違う季節もやって来ます。信仰が試練にさらされ、思いがけない知らせに心が砕かれ、神はまだ自分の状況を覚えていてくださるのだろうかと考えてしまう時です。このメッセージは、まさにそのようなあなたに届けられます。
マルコによる福音書5章に記されているヤイロの物語は、一瞬にしてすべてを失いかけた一人の男が、イエスからすべてを変える二つの言葉を受け取る物語です。「恐れることはない、ただ信じなさい」。この記事では、その場面へとあなたを導き、この同じ言葉が今日もなお、あなたを再び立ち上がらせることができることを示します。
記事の構成
1. ヤイロ、イエスの足もとにひれ伏す
ヤイロは会堂司でした。名の知れた人物であり、律法に通じ、人々の尊敬を集め、体面を保つべき立場の人でした。マルコによる福音書5章22節から23節には、娘が死にかけていたとき、この宗教指導者がイエスを見るなり足もとにひれ伏し、こう懇願したと記されています。「わたしの幼い娘が死にかけています。どうか来て、手を置いてやってください。そうすれば娘は治って、生きるでしょう」。
この行動に注目してください。会堂司が、自分の属する集団からは偽預言者とみなされていた人物の前にひれ伏したのです。イエスと宗教指導者たちの間には、良好な関係などありませんでした。それでもヤイロは、自分のプライドも、体面も、立場にふさわしい敬意も脇に置いて、娘を選びました。イエスを選んだのです。ファリサイ派の人々がどう思おうと構いません。今、何かをなし得るのはイエスだけだと、彼にはわかっていたのです。
あなたも、誰も解決できないような状況に直面するとき、自分のプライドを脇に置くように招かれています。人がどう思うかも、体面も関係ありません。大切なのは、具体的な行動をもって、イエスの前でイエスを最優先にすることです。
2. イエスはあなたの緊急事態に合わせて急いだりしない
24節で、イエスは行くことを承諾します。しかし途中で足を止めます。十二年間出血の病に苦しんできた一人の女性が、イエスの服に触れていやされたのです。イエスは彼女のために立ち止まり、その話に耳を傾け、彼女を祝福します。
ヤイロの立場になって考えてみてください。娘が死にかけている。一分一秒が重要です。それなのにイエスは、十二年間病気だった女性のために足を止めるのです。彼女にとっては一時間くらい前後してもたいして変わらないだろうと、あなたなら思うかもしれません。けれども、あなたの緊急事態は、神の緊急事態ではないのです。
イエスにとって、この女性こそが最優先でした。もし公に彼女をいやさなければ、彼女は石打ちにされていたかもしれません。汚れた状態にあった彼女は、誰にも触れることを許されていなかったからです。イエスには、ヤイロには見えない計画がありました。そして同時に、ヤイロは自分自身の奇跡の直前に、神の力が現される場面を目撃していたのです。それは彼の信仰を励ますことにもなり得ました。
同じ流れは、ヨハネによる福音書11章のラザロの物語にも見られます。イエスは友人が病気だという知らせを受けながら、なおも二日間、そのままの場所にとどまります。これは遅れではなく、タイミングです。神が遅れることは決してありません。神の栄光が現されるべき、まさにその瞬間に到着されるのです。
3. 最悪の知らせとイエスの声
イエスがいやされた女性とまだ話している間に、ヤイロの家の者たちがやって来ます(マルコによる福音書5章35節)。「あなたの娘さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わせることはありません」。二重の打撃です。死の知らせと、すべての希望を閉ざしてしまう人間的な助言。もうあきらめなさい、これ以上煩わせるな、という声です。
あなたも、そのような声を耳にすることがあるでしょう。もう遅い、祈り続けても無駄だ、神を煩わせている、あきらめるしかない、そう告げる声です。すべての助言があなたの人生にとって良いものとは限りません。すべての意見が、その時のあなたの助けになるわけではありません。あなたは、神があなたに語られることのうちに、しっかりととどまる必要があります。
そしてイエスは、力強いことを語られます。マルコによる福音書5章36節にはこうあります。「イエスはその話をそばで聞いて、会堂司に言われた。恐れることはない、ただ信じなさい」。まず恐れることはない、それからただ信じなさい。これは正しい順序でつながっているのです。
4. まず恐れず、それから、ただ信じる
恐れは信仰を妨げます。信じることと恐れることを、同時に行うことはできません。恐れは人を麻痺させ、混乱をもたらし、息をできなくさせます。だからこそイエスは、まず恐れを正しい場所に戻されます。「恐れることはない」と。そして、その後にはじめて、「ただ信じなさい」と言われるのです。
神を知れば知るほど、神が善い方であることがわかり、神があなたに敵対することなど何もなさらないとわかるほど、恐れは消えていきます。神の愛はすべての恐れを追い出します。もし今日、恐れがあなたの心を支配しているなら、何よりもまず、それを正しい場所に戻してくださるよう、主にお願いしてください。
そして次に、ただ信じることです。イエスは、あなたにすべてを知ることを求めてはいません。すべてを理解することも、霊的な曲芸のようなことも求めてはいません。ただ、ご自分のうちに憩うことを求めておられるのです。ただ信じるとは、理由を知る必要はなく、ただイエスに信頼すればよいということです。
ヤイロは、イエスの足もとにひれ伏した時点で、すでに一度信じていました。それでもイエスは、あらためて「ただ信じなさい」と語られます。もし今日、あなたの信仰が弱くなっていて、もう信じる力がないと感じて、ほとんど罪悪感さえ覚えているなら、よく聞いてください。イエスは今もう一度、同じ言葉をあなたに語られます。それはあなたを責めるためではなく、以前よりもさらに高いレベルの信頼へと、あなたを引き上げるためなのです。
5. 少女よ、起きなさい
イエスはヤイロの家に到着します。そこには混乱と泣き声があり、少女は死んだのではなく眠っているのだとイエスが言うと、人々はイエスをあざ笑います。イエスは、父と母、そして三人の弟子以外の全員を外に出させます。そして少女の手を取り、アラム語でこう言われました。「タリタ、クム」。これは「少女よ、起きなさい」という意味です。すると少女はすぐに起き上がり、歩き出しました(マルコによる福音書5章41節から42節)。
シンプルな行動でした。権威に満ちたただ一言でした。曲芸も、宗教的な演出も一切ありません。ただ、死んでしまった状況に対するイエスの声があっただけです。
これは預言的なしるしであり、これから起こることの前味です。イエスは、ご自分の死と復活によって成し遂げられることを、ここで前もって示しておられるのです。死がもはや最後の言葉ではないことを、イエスは証明されます。それはまさに、コリントの信徒への手紙一15章54節から55節にある叫びそのものです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。死は今も存在しており、それを軽く見てはなりませんが、イエス・キリストにあっては、死はもはや意味を持たず、力を持たないのです。
覚えておきたいポイント
- 状況があまりに大きいと感じるとき、自分のプライドと体面を脇に置きましょう。会堂司であったヤイロは、イエスの足もとにひれ伏しました。その行動が大切なのです。
- あなたの緊急事態は、神の緊急事態ではありません。神が立ち止まられることは遅れではなく、完璧なタイミングなのです。
- 試練のときに受ける助言のすべてが、あなたの助けになるわけではありません。あきらめるように告げる声と、神の声とを見分けましょう。
- そこには順序があります。まず「恐れることはない」、それから「ただ信じなさい」。信仰が息をできるようになるためには、恐れが正しい場所に戻される必要があるのです。
- 信仰は苦しみを否定するものではありません。悲しみには必要なだけの時間が必要ですが、それはイエスがすでにすべてに勝利されたという希望のうちで経験されるものです。
自分への適用
- 今日、あなたの人生における「死にかけている娘」とは何でしょうか。ある状況、ある関係、消えかけている夢かもしれません。それを本当にイエスの足もとに携えて行きましたか。それとも、まだ自分の体面を守ろうとしていますか。
- あなたは神の時をどのように捉えていますか。イエスが急いで駆けつけるのではなく「立ち止まられる」とき、あなたはイエスに信頼することができていますか。
- あなたの周りで、「これ以上、先生を煩わせることはない」と告げる声はどのようなものでしょうか。あなたはどの声に耳を傾けていますか。
- 今この瞬間、あなたの心のどこに恐れがありますか。もっと信じようと努力する前に、まずその恐れを正しい場所に戻してくださるよう、イエスにお願いする備えができていますか。
- もし「ただ信じなさい」と語られるイエスに、たった一言で答えるとしたら、あなたはどんな言葉を書きますか。
引用された聖句
- マルコによる福音書5章22〜24節:ヤイロがイエスの足もとにひれ伏す場面。
- マルコによる福音書5章35〜36節:「恐れることはない、ただ信じなさい」。
- マルコによる福音書5章41〜42節:「タリタ、クム。少女よ、起きなさい」。
- コリントの信徒への手紙一15章54〜55節:「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」。
- ヨハネによる福音書11章:イエスとラザロの死。
よくある質問
マルコによる福音書5章36節の「ただ信じなさい」とは、具体的にどういう意味ですか。
それは、すべてを知る必要なく、イエスのうちに憩うことを意味します。これは意志の力による努力ではありません。状況がそれと反対のことを示しているように見えても、イエスがすべてを掌握しておられると信頼することです。それは、恐れが正しい場所に戻された後に立ち続ける信仰です。
なぜイエスは、まず「恐れることはない」と言い、その後にはじめて「ただ信じなさい」と言われるのですか。
それは、恐れと信仰が同じ心の中に共存できないからです。恐れは人を麻痺させ、混乱させ、息をできなくします。恐れが主導権を握っている限り、信仰が成長する余地はありません。イエスはまず恐れを整え、その後で信仰への扉を開かれるのです。
イエスを信じれば、もう苦しむことはないと約束されているのですか。
いいえ、そうではありません。信仰は苦しみを否定するものではありません。悲しみ、病、待つことは、今もクリスチャンの人生の一部です。変わるのは希望です。イエスがすでに死に打ち勝たれたこと、そして神の憐れみが毎朝新しくされることを、私たちは知っています。苦しみにはそれぞれの時がありますが、それはもはや最後の言葉ではないのです。
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