聖書の人物 オバデヤ

生涯、名前の意味、人生の教訓

要約

オバデヤは、旧約聖書で最も短い、彼の名を冠した書を残したとされる預言者です。聖書は彼の生涯についてほとんど何も語りません。そのメッセージは、エサウの子孫であるエドムが、高ぶりと兄弟ヤコブへの暴力のゆえに裁かれると告げます。書はシオンの山に救いがあり、王国は主のものとなるという約束で終わります。

オバデヤという名前の意味

オバデヤという名は、一般に、主のしもべ、という意味に解されますが、聖書はその由来を説明していません。この書は父親も出身地も生年も記さず、ただ、オバデヤの幻、という言葉で始まります(オバデヤ書1章1節)。

オバデヤの時代背景

オバデヤ書は旧約聖書で最も短い書で、一章二十一節だけからなります。年代も王の名も預言者の出身地も記されず、ただオバデヤの幻とだけ告げられます(オバデヤ書1章1節)。このメッセージを理解するには、エドムを知る必要があります。エドムは、ヤコブの双子の兄エサウ(創世記25章25〜30節)と、その民に与えられた名です。二人が生まれる前から、神はリベカに、二つの国民があなたの胎内にあると告げておられました(創世記25章23節)。のちにイスラエルがエドムの地を通ろうとしたとき、モーセはあなたの兄弟イスラエルの名で頼みましたが、エドムの王は通行を拒み、大勢の民を率いて強い手で出て来ました(民数記20章14〜21節)。書は、異国人がユダの軍勢を捕らえ移し、その門に入り、エルサレムをくじ引きにした日について語ります(オバデヤ書1章11節)。読者は一般にこれをバビロンによるエルサレム陥落と結びつけますが、本文はそう述べておらず、書の年代は今も議論されています。はっきりしているのは状況です。岩の中に身を置いた兄弟の民が、傍観し、ユダの災いを喜びました。それに神が答えられるのです。

オバデヤの生涯

  1. エドムに対する幻

    オバデヤ書1章1〜4節

    書は、主なる神がエドムについて語られることばで始まります。使者が国々の間に遣わされ、立て、エドムに立ち向かって戦おうと呼びかけます。神はエドムに、わたしはおまえを諸国民の中で小さくすると告げます。非難の中心は高ぶりです。エドムは岩の裂け目に住み、高いところに座して、だれが私を地に引き降ろすかと心の中で言っていました。主は答えます。たとえ鷲のように高く巣を作り、星の間に置いても、そこから引き降ろす、と。自然の高さは、神に逆らう高ぶりを守ってはくれません。

  2. 底まで荒らされた国

    オバデヤ書1章5〜9節

    神はエドムの運命を、盗人や、ぶどうを摘む者が入った家にたとえます。しかし盗人は欲しいだけを取り、ぶどうを摘む者は落ち穂を残しますが、エドムは隅々まで探られます。ああ、エサウは探り出され、その隠し財産は見つけ出されると言われます。同盟者たちはエドムを国境まで追い出し、友はだまし、パンを食べた者たちが罠を仕掛けます。神はエドムの知恵ある者たちと、エサウの山の悟りを消し去り、テマンの勇士たちは恐れおののきます。人間の頼みはエドムを支えられません。

  3. ヤコブの災いの日

    オバデヤ書1章10〜11節

    非難は具体的になります。神はエドムに言います。兄弟ヤコブへの暴虐のゆえに、おまえは恥に覆われ、永遠に断たれると。神は、エドムがユダの向かい側に立っていた日のことを描きます。異国人がユダの軍勢を捕らえ移し、その門に入り、エルサレムをくじ引きにした日です。エドムの罪は、最初から自分が侵略者として動いたことではなく、兄弟を打つ者たちの側に立っていたことでした。おまえもその一人のようだったと言われます。兄弟の苦難を前にした無関心は、こうして共犯の一つの形になるのです。

  4. エドムがしてはならなかったこと

    オバデヤ書1章12〜14節

    ユダが災いに遭った日に、エドムがしてはならなかったことが、禁止の形で次々と挙げられます。兄弟の日、その災難の日を、見て喜んではならない。ユダの子らのことで喜んではならず、苦難の日に大口をたたいてはならず、神の民の門に入ってはならず、その財産に手を伸ばしてはならない。逃げる者を断つために十字路に立ってもならず、生き残った者を引き渡してもならない。この一覧は、心の中の喜びから積極的な加担まで続き、道のりの一歩一歩を断罪しています。

  5. 主の日

    オバデヤ書1章15〜16節

    メッセージはすべての国々へと広がります。主の日はすべての国々に近いと告げられます。神は公正の原則を宣言します。おまえがしたように、おまえにもされる、おまえの行いは、おまえの頭上に返る、と。次に杯が語られます。おまえたちが私の聖なる山で飲んだように、すべての国々も絶えず飲む。ユダの崩壊で得をした者たちも、いずれ裁きの杯を飲み、いなかった者のようになります。エドムへの裁きは例外ではなく、神がすべての暴力と高ぶりに対して行われる裁きの予告なのです。

  6. 火と炎とわら

    オバデヤ書1章17〜18節

    裁きのあとに約束が来ます。しかしシオンの山には、のがれる者があり、そこは聖となり、ヤコブの家は自分の所有地を取り戻す、と。敗北を知ったばかりの民にとって、この対比は強烈です。次に火の比喩が続きます。ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となる。エサウの家はわらとなり、彼らがこれに火をつけて焼き尽くす。エサウの家には何も残りません。文は、主が語られたからと、この確信の根拠で結ばれます。預言者の信頼は神のことばにあります。

  7. シオンの山の救い主たち

    オバデヤ書1章19〜21節

    書は回復の幻で終わります。ネゲブの人々はエサウの山を所有し、低地の人々はペリシテ人の地を所有し、イスラエルはエフライムとサマリアの野を取り戻します。ベニヤミンはギルアデを所有します。イスラエル人の捕囚の軍勢はサレプタまでのカナン人の地を所有し、セファラデにいるエルサレムの捕囚の人々はネゲブの町々を所有します。そして結びのことばが来ます。救う者たちがシオンの山に上って、エサウの山をさばき、王国は主のものとなる、と。最後の文は神の王権を宣言しています。

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オバデヤから学ぶこと

  • 高ぶりは人を欺きます。エドムは高い所で安全だと思っていましたが、主は彼を引き下ろすと言われます。
  • 兄弟の不幸を喜んではなりません。神は、苦しむ人に対する無関心と加担を裁かれます。
  • 自分のしたことは自分に返ってきます。あなたがしたようにあなたにもされる、という言葉のとおりです。
  • 裁きが最後の言葉ではありません。神は救いを告げ、王国が主のものであることを示されます。

鍵となる聖句

オバデヤ書1章3-4節

エドムは心の高ぶりに惑わされていました。鷲のように高く巣を作っても、主はそこから引き下ろすと言われます。どんな高さも神の裁きから身を守りません。

オバデヤ書1章12節

主はエドムに、兄弟の災難の日、不幸の日を眺めて喜ぶことを禁じます。他人の破滅を喜ぶ悪意のある喜びを、この箇所は退けています。

オバデヤ書1章21節

救う者たちがシオンの山に上ってエサウの山をさばき、王国は主のものとなります。書は神の主権を告げて終わります。

オバデヤについての説教

よくある質問

聖書のオバデヤとはどんな人ですか。

オバデヤは、彼の名を冠した書を残したとされる預言者です。聖書は彼の生涯についてほとんど語りません。エドムに向けたメッセージは、その高ぶりと、ヤコブへの暴力に対する裁きを告げ、そしてシオンの山の救いを告げます。

オバデヤという名前にはどんな意味がありますか。

オバデヤは一般に、主のしもべ、という意味に解されます。書はこの名の由来を説明せず、預言者の出身についても何も述べません。ただ、オバデヤの幻、という言葉で始まります(オバデヤ書1章1節)。

オバデヤのメッセージは聖書のどこにありますか。

オバデヤ書にあり、一章二十一節からなる短い書で、旧約聖書の小預言書の中、アモス書とヨナ書の間に置かれています。ヤコブの兄弟エサウの子孫であるエドムに向けて語られています。

エドム人とはだれですか。

エドム人は、ヤコブの兄エサウの子孫です。エドムという名は、エサウがヤコブに長子の権利を売る前に求めた赤い煮物にちなんで彼に与えられました(創世記25章29〜34節)。神はリベカに、二つの国民があなたの胎内にあると告げておられました(創世記25章23節)。出エジプトの時代、モーセがエドムの王にイスラエルの通過を頼むと、王は拒み、剣を持って民に立ち向かい、イスラエルは引き返しました(民数記20章14〜21節)。オバデヤ書は、岩の多い高地に住むこの民に向けて語り、その高ぶりが低くされると告げます(オバデヤ書1章2〜4節)。

なぜエドムはヤコブの兄弟と呼ばれるのですか。

エサウとヤコブは双子で、エサウが先に生まれ、そのかかとをヤコブの手がつかんで続いて生まれました(創世記25章24〜26節)。二つの民の血のつながりは、聖書の中でずっと意識されています。モーセはエドムの王に、あなたの兄弟イスラエルはこう言いますと書き送りました(民数記20章14節)。オバデヤ書もその語を用います。兄弟ヤコブへの暴虐のゆえに(オバデヤ書1章10節)、そしてさらに、あなたの兄弟の日(1章12節)と。それがエドムの罪をいっそう重くしています。見知らぬ者を助けなかっただけでなく、実の兄弟の災いを喜んだのです。

オバデヤはいつの時代の人ですか。

聖書はそれを語っていません。書はオバデヤの幻という言葉で始まり、王の治世も時代も示していません(オバデヤ書1章1節)。本文は、異国人がユダの軍勢を捕らえ移し、エルサレムをくじ引きにした日について語ります(1章11節)。多くの読者はこれをバビロンによるエルサレム陥落と見ますが、もっと前の出来事を考える人もおり、研究者の間では今も議論が続いています。メッセージは正確な年代に依存しません。それは、兄弟に対するエドムの行い、神の裁き、シオンにおける救いの約束を扱っており、これらはあらゆる時代に当てはまります。

オバデヤ書の「主の日」とは何を意味しますか。

オバデヤは、主の日はすべての国々に近いと書きます(オバデヤ書1章15節)。それは神が正義を行うために介入される日を指します。本文はその原則を示します。おまえがしたように、おまえにもされる、おまえの行いはおまえの頭上に返る(1章15節)。また、すべての国々もこの裁きの杯を飲むことになると付け加えます(1章16節)。しかしこの日は断罪だけでは終わりません。シオンの山にある救いと、主の王権へと開かれていきます(1章17、21節)。同じ「主の日」が、高ぶる者への裁きと、神の民の救出の両方を含んでいるのです。

エドムを裏切った同盟者や友とはだれですか。

本文は一般的な言い方をします。おまえと同盟を結んだ者たちがみな、おまえを国境まで追い出し、おまえの友はおまえをだまして打ち負かし、おまえのパンを食べた者がおまえに罠を仕掛けたが、おまえはそれに気づかない(オバデヤ書1章7節)。特定の民の名は挙げられていません。ですから聖書からは、これらの同盟者を確実に特定することはできません。語られていることで十分です。エドムが同盟と高地に見いだしていた安全は幻想であり、身近な者たちが敵に回ったのです。預言者は、それに気づかなかったエドムの盲目を強調しています。

シオンの山に上る救い主たちとはだれですか。

最後の節はこう告げます。救う者たちがシオンの山に上って、エサウの山をさばく。王国は主のものとなる(オバデヤ書1章21節)。本文はこの救い主たちの名を挙げません。ただ、彼らがエサウの山をさばき、王権が主に属することだけを述べます。キリスト者はここに、イエス・キリストにおいて表される神の支配の告知を見ることが多いのですが、このつながりは本文の主張というより、信仰による読み方に属します。預言者が確かに語る中心は、最後の言葉がこの世の権力ではなく、神にあるということです。

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