聖書は十分の一献金について何と言っていますか?

十分の一献金についての重要な聖句と聖書の答え。

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旧約聖書において、十分の一献金とは収入の十分の一を神にささげることを意味します。アブラハムは戦いの勝利の後、メルキゼデクに十分の一をささげた最初の例です(創世記14章20節)。ヤコブも、神から与えられるものすべての十分の一をささげると誓いました(創世記28章22節)。その後モーセの律法は、この習慣を制度として定め、農作物や家畜の十分の一は主のものであり、レビ人と神殿での礼拝を支えるために用いられました(レビ記27章30節)。

預言者マラキは、十分の一を差し控えて神のものを盗んではならないと民に訴え、忠実にささげる者には豊かな祝福を約束しました(マラキ書3章10節)。しかしイエス様はこの習慣を捉え直されました。パリサイ人が庭の香辛料にまで十分の一をささげながら、正義とあわれみと誠実を軽んじていたことを戒め、片方だけでなく両方を行うべきだと教えられたのです(マタイによる福音書23章23節、ルカによる福音書11章42節)。十分の一献金は、心が伴って初めて意味を持ちます。

新約の教会には、十分の一という割合を明確に命じる箇所はありません。強調点は、強制や後悔からではなく、各自が心に決めたとおりに、自由で喜びに満ちた、惜しみない献金へと移っていきます(コリント人への第二の手紙9章7節)。ヘブル人への手紙は、メルキゼデクの出来事を通して、キリストの祭司職が古い契約にまさることを示しています(ヘブル人への手紙7章2節)。十分の一献金は忠実さを学ぶための賢明で具体的な目安ですが、恵みはひとつの数字をさらに超えていくのです。

十分の一献金に関する聖書の言葉

  • « 願わくはあなたの敵をあなたの手に渡された いと高き神があがめられるように」。アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った。 »

    創世記 14章20節

  • « またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。 »

    創世記 28章22節

  • « 地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。 »

    レビ記 27章30節

  • « わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。 »

    マラキ書 3章10節

  • « 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。 »

    マタイによる福音書 23章23節

  • « しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである。はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておりながら、義と神に対する愛とをなおざりにしている。それもなおざりにはできないが、これは行わねばならない。 »

    ルカによる福音書 11章42節

  • « 各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。 »

    コリント人への第二の手紙 9章7節

  • « それに対して、アブラハムは彼にすべての物の十分の一を分け与えたのである。その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。 »

    ヘブル人への手紙 7章2節

十分の一献金についての説教

十分の一献金に関するよくある質問

十分の一献金は今のクリスチャンにも義務ですか。

十分の一献金はモーセの律法に基づくものであり、新約聖書で正式な命令として繰り返されているわけではありません。新約聖書は、心で決めた自由で継続的な、惜しみない献金について語っています(コリント人への第二の手紙9章7節)。多くの教会は、十分の一を救いの条件としてではなく、有益な目安として大切にしています。

十分の一は税引き前と税引き後のどちらの収入から計算しますか。

聖書はこの技術的な問いに明確な答えを示していません。大切なのは正確な割合の計算よりも、心からの気前よさと変わらぬ忠実さです(コリント人への第二の手紙9章7節)。それぞれが神に知恵を求め、感謝を正直に表す方法を選ぶことができます。

十分の一献金をしないとどうなりますか。

マラキ書は、神のものを差し控えて「盗んでいる」民について語っています(マラキ書3章10節)。しかし新約聖書には、十分の一をささげなかった者への罰を告げる箇所はありません。ささげないことで失うのは、主に、気前よい心に約束されている喜びと祝福です。

十分の一献金と献金(ささげもの)はどう違いますか。

旧約聖書では、十分の一は神に定められた一定の割合であり、献金はその十分の一を超えて自由にささげる追加の贈り物でした。今日ではこの二つの言葉はほぼ同じ意味で使われ、どちらも神への感謝から出る自発的な贈り物を指します(コリント人への第二の手紙9章7節)。

十分の一献金はどこに納めればよいですか。

旧約聖書では、十分の一はレビ人と神殿での礼拝を支えるために用いられました(レビ記27章30節)。今日では多くの場合、地域の教会とその働きを支えるために用いられ、みことばが宣べ伝えられ、教会員や貧しい人々の必要が満たされるために役立てられています。

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