聖書 — 口語訳 (1955)
イザヤ書 64
概要
イザヤ書64章は、捕囚の後に神の民がささげる長い祈りの続きです。信じる者たちは、かつての大いなるわざのときのように、天を裂いて下ってくださいと神に願います。ご自分を待ち望む者のために、このように働かれる神は他にいないと思い起こし、そして自分たちの状態を告白します。私たちの正しい行いは汚れた衣のようで、神によりすがろうと奮い立つ者もいません。祈りは父であり陶器師である方へと向かい、シオンの荒れ果てた姿を前に黙っていないでくださいと願います。
この章の3つの区分
1どうか、あなたが天を裂いて下り、あなたの前に山々が震い動くように。
2火が柴木を燃やし、火が水を沸かすときのごとく下られるように。そして、み名をあなたのあだにあらわし、もろもろの国をあなたの前に 震えおののかせられるように。
3あなたは、われわれが期待しなかった恐るべき事を なされた時に下られたので、山々は震い動いた。
4いにしえからこのかた、あなたのほか神を待ち望む者に、このような事を行われた神を聞いたことはなく、耳に入れたこともなく、目に見たこともない。
5あなたは喜んで義を行い、あなたの道にあって、あなたを記念する者を迎えられる。見よ、あなたは怒られた、われわれは罪を犯した。われわれは久しく罪のうちにあった。われわれは救われるであろうか。
6われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。
7あなたの名を呼ぶ者はなく、みずから励んで、あなたによりすがる者はない。あなたはみ顔を隠して、われわれを顧みられず、われわれをおのれの不義の手に渡された。
8されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。
9主よ、ひどくお怒りにならぬように、いつまでも不義をみこころにとめられぬように。どうぞ、われわれを顧みてください。われわれはみな、あなたの民です。
10あなたの聖なる町々は荒野となり、シオンは荒野となり、エルサレムは荒れすたれた。
11われわれの先祖があなたをほめたたえた 聖なる麗しいわれわれの宮は火で焼かれ、われわれが慕った所はことごとく荒れはてた。
12主よ、これらの事があっても なお、あなたはみずからをおさえ、黙して、われわれをいたく苦しめられるのですか。
鍵となる聖句
どうか、あなたが天を裂いて下り、あなたの前に山々が震い動くように。
民の叫びは、神が目に見える形で介入し、天と地の隔たりを破ってくださるよう求めています。新約聖書は、イエスのバプテスマのときに天が開かれたことで、これに答えています。
いにしえからこのかた、あなたのほか神を待ち望む者に、このような事を行われた神を聞いたことはなく、耳に入れたこともなく、目に見たこともない。
神を待ち望む者のために、このように働く神は他にいません。パウロはコリント人への第一の手紙2章9節でこの節を引き、神が備えておられる、目がまだ見たことのないものについて語ります。
あなたは喜んで義を行い、あなたの道にあって、あなたを記念する者を迎えられる。見よ、あなたは怒られた、われわれは罪を犯した。われわれは久しく罪のうちにあった。われわれは救われるであろうか。 われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。
民は、最善のわざでさえ神の前では汚れていると認めます。この箇所は、救いが功績ではなく恵みによることを思い起こさせるために、よく引用されます。
されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。
神は父であり、同時に陶器師です。いのちを与える方であり、形づくる方です。粘土は自分で形になるのではなく、形づくられるままになります。このたとえは、神の忍耐強いわざへの信頼を支えます。
説教が語っていること
イザヤ書64章についてよくある質問
イザヤ書64章1節の「どうか、あなたが天を裂いて下り」とはどういう意味ですか
これは、神が目に見える形で介入してくださるよう願う民の祈りです。シナイで山々が震えたときのようにです。信じる者たちは、捕囚の後に神から遠く離れたように感じ、神の臨在が現れることを望んでいます。多くのクリスチャンは、そこにイエスのバプテスマで天が開かれたことの響きを見ています。
「われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである」とはどういう意味ですか
この箇所は、私たちが良いと思う行いでさえ、神の聖さの前には十分ではないと認めています。善を軽んじているのではなく、自分で自分を救えるという考えを退けているのです。クリスチャンは、そこに、自分の功績ではなく神の恵みに頼る理由を見いだします。
イザヤ書64章8節の粘土と陶器師のたとえは何を意味しますか
神は父として、また陶器師として示されます。民は神の手で形づくられた作品です。このたとえはあわれみへの訴えでもあります。陶器師は、形づくったものを永遠に壊したりしないからです。また、ひとりひとりが信頼して神に形づくられるよう招いています。
イザヤ書 64を引用している記事
口語訳(1955年)— パブリックドメイン。