信仰も不信仰も、どちらも育っていく

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信仰も不信仰も、どちらも育っていく

ヨハネ4:43-54に基づく説教・モメンタム教会(東京)

はじめに

ヨハネの福音書4章の後半で、イエスは一つのシンプルな真実を私たちの目の前に示されます。あなたの信仰は決して静止したままではないということです。それは育つか、衰えるかのどちらかです。そしてあなたの不信仰も、じっと片隅で大人しくしてはいません。それもまた育っていきます。中立地帯はありません。引き分けもなければ、五分五分もありません。神のことばを聞くたびに、あなたの中では何かが、どちらかの方向へと動いているのです。

ヨハネ4:43-54の箇所は、同じ一人の人物、イエスに対する正反対の二つの反応を語っています。ナザレでは、イエスが育つのを見てきた人々が、イエスの行われたことを聞いていたにもかかわらず、イエスを信じることを拒みます。カペナウムでは、何も見ていない一人の役人が、息子が生きると告げられた言葉だけを信じます。二つの方向。二つの軌道。二つの人生が、それぞれの分岐点を迎えます。

箇所の構成

1. イエス、サマリアからガリラヤへ戻られる

4章で、イエスはサマリアのスカルという町で、井戸端の女性とともに二日間を過ごされたばかりでした。一つの町全体が、彼女のあかしによって信じるに至ります。その後、イエスはガリラヤへと戻られます。ヨハネは、イエスご自身が「預言者は自分の郷里では敬われない」(ヨハネ4:44)と語られたことを書き添えています。この一言が、次に来る対比を用意しています。サマリア人たちはイエスを迎え入れたのに、イエスの郷里の人々は本当の意味では彼を敬っていないのです。

ガリラヤの人々はイエスを受け入れます。しかしそれは、祭りの間にイエスがエルサレムで行われたことを見たからにすぎません(ヨハネ4:45)。彼らが引き寄せられているのは見世物であって、イエスご自身ではありません。これは正確には信仰とは言えません。むしろ好奇心なのです。

2. カペナウムの役人

王に仕える一人の役人が、イエスがガリラヤに戻られたことを耳にします。彼の息子は病気で、死にかけていました。彼はカペナウムからカナまで下って行き、息子が死なないうちに来て癒やしてくださるよう、イエスに懇願します。

イエスの答えは、一見すると厳しいものでした。「あなたがたは、しるしと不思議を見なければ、決して信じない」(ヨハネ4:48)。これはこの人一人に向けられた言葉ではなく、一つの世代全体への診断です。あなたがたは見たものしか信じない。信頼する前に証拠を求めている、というのです。

役人はなおも食い下がります。「主よ、私の子が死なないうちに、下って来てください」(49節)。彼はイエスの厳しさに反論しません。ただ自分の必要を差し出すだけです。

3. しるしなしに、ただ言葉だけを

イエスは答えられます。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(50節)。それだけです。身振りもなく、移動もなく、証明もありません。

そしてこの物語の決定的な一行が続きます。「その人は、イエスが自分に言われたことばを信じて、帰って行った。」

彼は何も見ていません。何の証拠もありません。彼が持っているのは、出会ったばかりの一人の人物の言葉だけです。そしてほぼ一日がかりの道のりを、その言葉だけを頼りに帰って行きます。これこそ、神に喜ばれる信仰です。先に願いをかなえてもらうことを求めず、ただ言葉を聞いて信じることです。

4. しるしは後から確証を与える

道の途中で、彼のしもべたちが迎えに来て、息子が良くなったことを知らせます。彼は容態が良くなったのが何時だったかを尋ねます。それは第七の時、まさにイエスが「あなたの息子は生きる」と言われたその時刻でした。

そして本文はこう告げます。「彼自身も、彼の家族もみな信じた」(53節)。すでに道の途中で芽生えていた彼の信仰は、この経験を通してさらに育ちます。彼は新しい仕方で信じるのです。そしてこの信仰は広がっていきます。妻も、子どもたちも、しもべたちも、その信仰に入っていきます。

5. 二つの町、二つの方向

ナザレを思い出してほしいのです。スカルのサマリア人たちを思い出してほしいのです。そして今、カペナウムの役人の家族を思い出してほしいのです。

ナザレは聞き、見て、そして拒みます。スカルは一人の女性の言葉を聞き、確かめに行き、そして信じます。役人はイエスの言葉を聞き、確かめる前に信じ、家族全体がそれに続きます。イエスに出会ったすべての心は、より信じる者となるか、より信じない者となるか、そのどちらかになって去っていきます。誰も中立のままでは去りません。

覚えておきたいこと

  • 信仰は状態ではなく、動きである。ことばを聞き、それに従って行動するとき、信仰は育つ。見てから信じようと待つとき、信仰は衰える。
  • 信じるとは、結果を見る前に、神が語られたことに信頼を置くことである。役人はたった一つの言葉だけを頼りに、一日がかりで歩いた。それが信仰である。
  • 不信仰もまた育つ。ナザレの人々は一瞬でかたくなになったのではない。彼らは何度も何度も拒み続け、ついにはイエスが目の前で奇跡を行われても、何も認められなくなってしまった。
  • 中間はない。同じ領域において、五十パーセント信じ、五十パーセント信じないということはできない。最終的にはどちらか一方が勝る。
  • 信仰は伝わっていく。一つの心が本当に信じるとき、その家族もその影響を受ける。あなたの周りの人々は、あなたの信仰によって恵みを受けるか、あなたの不信仰によって苦しむかのどちらかである。

個人への適用

  1. 最近、神はどのような具体的な事柄についてあなたに語られただろうか。それでもあなたは「見る」まで動こうとしていないのではないだろうか。
  2. あなたの人生にその結果が現れる前に、今日、あなたが信じる備えのできている聖書のことばは何だろうか。
  3. ここ数か月で、あなたの不信仰が育ってしまったと感じるのはどこだろうか。どの領域で信頼することをやめてしまっただろうか。
  4. あなたの信仰は今、あなたの家族や親しい人々、あなたの周りの環境に良い影響を与えているだろうか。それとも、あなたの疑いがそれらに広がっているだろうか。
  5. すでに知っているみことばに基づいて、今週イエスがあなたに期待しておられる具体的な従順の次の一歩は何だろうか。

引用された聖句

FAQ

信じる前に見たいと思うのは悪いことなのでしょうか。

しるしを望むこと自体は罪ではありません。しかしイエスは、同時代の人々がそれを条件にしてしまっていることを咎めておられます。聖書的な信仰は、まずことばを聞いて信頼することから始まり、しるしはしばしばその後で確証として与えられます。もしあなたの信仰が見えるものだけに頼っているなら、何も見えなくなった瞬間にそれは崩れ去ってしまうでしょう。

自分の信仰が育っているのか、衰えているのか、どうすれば分かるのでしょうか。

神が与えてくださることばに対して、自分が何をしているかを見つめてください。それを聞いて動き出すなら、あなたの信仰は育ちます。それを聞きながら「証拠」を待って脇に置くなら、あなたの不信仰は気づかぬうちに育っていきます。現状維持というものはありません。あなたの信仰の歩みは、聞くたびに動いているのです。

なぜイエスは、はじめこの役人にあれほど厳しく答えられたのでしょうか。

「あなたがたは、しるしを見なければ……」ということばは拒絶ではなく、診断です。イエスは見世物を追い求める世代を指摘しておられるのです。そのうえで、イエスはこの役人に、その期待を超える機会を与えられます。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」役人はこのことばをしっかりと受け止め、その信仰は彼の家族全体にとって模範となりました。

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