神の御心を求め続けなさい

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はじめに

民数記の終盤の章は、一見すると、心を奮い立たせるようなものにはまったく見えません。ミディアンとの戦争、容赦のない軍事命令、莫大な戦利品、そしてヨルダン川を渡ることをためらう二つの部族。それでも、民数記31章と32章を読み進めていくと、両方の章を貫く一つの同じ招きが見えてきます。最後まで、最後の一歩まで、神の御心を求め続けなさい、という招きです。

民は約束の地の入り口に立っています。まだそこに入ってはいません。そしてまさにその境界線上で、忠実さが試されるのです。これらの箇所は、今日のあなたの人生に語りかけます。罪との戦いの中で、神へのささげ方の中で、家族と霊的な将来のために下す選択の中で。

記事の構成

1. 民数記31章:ミディアンに対する神のさばき

31章は困難な命令から始まります。「イスラエルの子らのために、ミディアン人に復讐せよ」(民数記31:2)。各部族から千人ずつ、合計一万二千人が戦いに送り出されます。この背景は民数記25章にさかのぼります。バラムの策略に動かされたミディアンの女たちが、イスラエルを性的な不品行と偶像礼拝へと引き込んだのです。イスラエルの民はその代償を払いました。神のさばきによって二万四千人が死んだのです(民数記25:9)。

つまり、これは特別扱いではありません。神は公正な方であり、二重基準はありません。後にイスラエルもまた捕囚されることになります。北王国はアッシリアによって、南王国はバビロンによって。ある民が神から離れるとき、その民自身もさばきの対象となるのです。ここで覚えておくべきことは、神は決して不公平ではないということです。

2. なぜこのさばきなのか:創世記15章の背景

これを理解するには、創世記15章13〜16節でアブラムと結ばれた契約にさかのぼる必要があります。神は、アブラムの子孫が四百年間、異邦の地で奴隷となったのちにカナンに戻ってくると告げます。「アモリ人の咎がまだ満ちていないからである」というのがその理由です。つまり、神は約束の地の諸民族に、まことの神に立ち返るための四百年という猶予を与えられたのです。神はさばくことを急がれません。待たれるのです。猶予を与えられるのです。

しかし、この猶予は永遠には続きません。量が満ちるとき、さばきが下り、神はある民を剣のように用いることがあります。これは聖書の歴史の中でも例外的な出来事であり、あらゆる戦争に当てはめることはできません。新しい契約のもとでは、いかなる集団も個人も自分を「神の剣」と称することはできません。キリストは「主の恵みの年」を宣べ伝えるために来られました(ルカ4:19)。今日のあなたの応答は、侮辱を受け入れ、赦し、仕え、愛し、復讐は神のものであるとして神にゆだねることです(ローマ12:19)。

3. ピネハスと聖なる器:これは神の戦いである

モーセは戦士たちと共に、祭司エルアザルの子ピネハスを送り出しますが、彼が携えたのは剣ではなく、聖なる器と聖所のラッパでした(民数記31:6)。ピネハスは職業軍人ではありません。彼の存在は一つのことを思い起こさせます。神がこの戦いのただ中におられ、指揮を執っておられるということです。ラッパは音楽を奏でるためではなく、合図を送るために用いられます。

あなたもまた戦いを経験しています。問題はまず、あなたの力ではなく、あなたが神に導いていただいているかどうかです。一万二千人の戦士は象徴的な数です。各部族から千人ずつが送られ、誰も「これは私たちの勝利だ」と言えないようにされています。これは神の勝利なのです。

4. ミディアンの王たちと共に殺されたバラム

殺された者たちの一覧の中に、ミディアンの五人の王と「ベオルの子バラム」が含まれています(民数記31:8)。バラムはバラクから財を受け取っていましたが、その富は彼を救いませんでした。彼はイスラエルが祝福されているのを見て、自らこう言っていました。「正しい者の死を、私も死にたいものだ」(民数記23:10)。この願いは実現しませんでした。神から遠ざかるとき、たとえかつてそう望んだことがあったとしても、正しい者として死ぬことはできません。生き方の一貫性が問われるのです。

5. 宿営に戻る前に、身を清める

戦士たちは身を清めるために、七日間宿営の外にとどまらなければなりません(民数記31:19〜24)。彼らは死に触れました。血によって汚れた者となったのです。「任務を果たした」からといって消えることのない、聖さへの要求があります。あなたのクリスチャン生活においても、勝ち取った戦いでさえ、主の前で洗われる必要のある痕跡を残すのです。

6. モーセの怒り:罠と徹底的に断ち切る

戦士たちがミディアンの女たちを生かしておいたのを見て、モーセは怒ります(民数記31:14〜16)。この女たちこそ、イスラエルをバアル・ペオルの偶像礼拝へと引き込んだ張本人でした。彼女たちを生かしておくことは、宿営に誘惑を再び招き入れることでした。

この原則を自分に当てはめてみましょう。もしあなたが自分の弱さを知っているなら、「主よ、抵抗する力を与えてください」と祈るだけでは十分ではありません。誘惑の源から遠ざかることも必要です。ヨセフはポティファルの妻に「ノー」と言う力を求めたのではなく、走って逃げました(創世記39:12)。もしアルコールがあなたの弱点なら、バーに座らないことです。もしスマートフォンがあなたをつまずかせるなら、電源を切るか、別の部屋に置いておくことです。しばしば、罪との間にはたった一つのクリックしか隔てていないと言われます。徹底的に距離を取ってください。

これは聖霊の助けなしにはできません。自分の意志の力で肉を制御しようとすることは、いつも最終的には失敗に終わります。抑え込み続けた末に、一気に屈してしまうのです。こう祈ってください。「主よ、助けてください。すべての悪から私を救い出してください」。

7. 金のささげ物:金額より先に心

隊長たちが人数を数えると、一人も欠けていないことが分かります(民数記31:49)。この守りに心を打たれた彼らは、主の前で自分たちのために「贖いをする」ための感謝のささげ物として、約190キログラムに相当する一万六千七百五十シェケルの金を持ってきます(民数記31:50)。現在の金の価値に換算すると、これは莫大な金額に相当します。

しかし、大切なのは金額ではなく、ささげる喜びです。彼らは自ら進んでそれを持ってきました。神が自分たちのために戦ってくださったことを認めていたからです。神へのあなたのささげ物も、同じ動機から生まれるべきです。喜び、感謝、自由な心からです。もし嫌々ながらささげるのなら、ささげない方がましです。それには意味がありません。まず、神があなたにどれほど良くしてくださったかを知ろうとしてください。そうすれば、あなたも何かをお返ししたいと思うようになるはずです。

8. 民数記32章:ルベンとガド、あるいは「もう十分だ」という罠

32章では、多くの家畜を持つルベン族とガド族が、ヨルダン川の東側にあるヤゼルとギルアデの地が牧畜にとても適していることに気づきます。彼らはこう求めます。「私たちにヨルダン川を渡らせないでください」(民数記32:5)。彼らが見ているものは確かに良いものです。しかし、川の向こう側で神が備えておられるものは、それよりもさらに良いものなのです。

これは「次善の策」の原則です。本物ではあっても、神の第一の御心ではない良いものに満足してしまうことです。あなたもこう思うかもしれません。「私は赦された。教会に通っている。祈っている。聖書を読んでいる。もう十分だ」と。それは確かにそうかもしれません。しかし、もしあなたが岸にとどまるのではなく、ヨルダン川を渡ることを受け入れるなら、神はあなたのためにさらなる一歩、より深い喜び、より大きな使命を備えておられるかもしれません。

9. 「あなたがたは兄弟たちの心をくじいている」

モーセは強く反応します。「あなたがたの兄弟たちが戦いに行くのに、あなたがたはここにとどまるつもりなのか。なぜあなたがたはイスラエルの子らの心をくじこうとするのか……」(民数記32:6〜7)。モーセはカデシュ・バルネアの偵察者たちの出来事を思い起こさせます。十人の否定的な報告が民全体の信仰を揺るがし、四十年間の荒野生活を引き起こしたのです(民数記32:8〜13)。

あなたのことば、あなたの態度は、隣にいる兄弟の心をくじくことがあります。「まあ、無理だろうね」とか「私たちはしょせん人間だから、これ以上はできない」といった、深く考えずに口にしたことばが、まさに神と共にもっと先へ進もうとしていた人の勢いを折ってしまうことがあります。あなたのことばが他者にどのような影響を与えるか、よく注意していてください。

10. その後:歴代誌第一5章、東側の部族の悲劇

ルベン族、ガド族、そしてマナセの半部族は、兄弟たちと共に戦いに行くことを約束したのち、最終的に東側の土地を得ることになります(民数記32:16〜32)。神はそれを許されましたが、それはやはり次善の選択でした。その結果は歴代誌第一5:25〜26に記されています。これらの部族は近隣の諸民族にさらされすぎたために神から離れ去り、アッシリアによって最初に捕囚として連れて行かれた者たちとなりました。神が望んでおられたのは、民全体がヨルダン川を渡り、その川によって守られ、外からの影響から保護されることでした。東側の岸にとどまったことが、彼らを弱くしてしまったのです。

覚えておきたいポイント

  • 神は忍耐深いが、公正な方です。悔い改めのための猶予を与えられますが(アモリ人には四百年)、そのさばきは最終的には下ります。それはご自分の民が離れ去った場合も同じです。
  • 罪との戦いには、徹底的な断絶が必要です。抵抗するために祈るだけで満足しないでください。あなたをつまずかせるものから物理的に離れてください。ポティファルの妻から逃げたヨセフのように。
  • 神へのささげ物は金額ではなく心によって量られます。それは自由で、喜びに満ち、自発的なものでなければなりません。喜びのないささげ物には価値がありません。
  • 「もう十分だ」ということばに気をつけてください。うわべの良いものに満足することが、神があなたのために備えておられるより良い御心を逃す原因になりかねません。
  • あなたのことばと態度は他者に影響を与えます。それは兄弟の信仰を励ますことも、くじくこともあります。

個人的な適用

  1. 今日、私の人生から遠ざけるべき「ミディアンの女」とは何でしょうか。私が十分な距離を保てていない誘惑の源はどこにあるでしょうか。
  2. 私は神に(時間、お金、奉仕を)喜びをもってささげているでしょうか、それとも重圧や義務感からささげているでしょうか。私の心は、神の私への良さについての理解について、何を明らかにしているでしょうか。
  3. 神が私にヨルダン川を渡らせようとしておられたのに、私が「もう十分です、主よ、ここで止まります」と言ってしまった場面はどこにあるでしょうか。
  4. 最近の私のことばは、神と共に前進しようとしている人々を励ましたでしょうか、それともくじいたでしょうか。
  5. 今週、私は神の前に立ち、「あなたは私に何をしてほしいのですか」と尋ねる時間を取ったでしょうか。大きな決断のためだけでなく、日々、神の御心を求めたでしょうか。

引用された聖句

FAQ

なぜ神は民数記31章でこれほど厳しいことを命じられたのでしょうか。

ミディアンに対するさばきは、聖書の歴史の中でも特異な文脈に位置づけられます。これらの民は、まことの神に立ち返るための四百年という猶予を受けていました(創世記15:16)。これはまた、民数記25章でミディアンがイスラエルに対して行った霊的な攻撃への応答でもあります。この事例は今日には当てはめられません。新しい契約のもとでは、復讐は神おひとりのものであり、あなたの応答は赦しと愛です。

教会に決まった金額をささげる必要があるのでしょうか。

民数記31章のメッセージは明確です。大切なのは金額ではなく心です。義務感からなされ、喜びも感謝もないささげ物は、神の前では価値がありません。神があなたのために何をしてくださったかを実感する時間を取り、そのうえで、祈りの中で自由に、何をお返ししたいかを決めてください。

自分が「次善の策」で満足してしまっているかどうかを、どう見分ければよいでしょうか。

心の中で「もう十分だ、これ以上神と共に先へ進む必要はない」とつぶやいているとき、それはしばしば一つのサインです。祈りの時間を取って、こう尋ねてください。「主よ、私にまだ踏み出してほしい一歩がありますか」。神の御心を求め続けることは、一度きりのチェック項目ではなく、日々の働きなのです。

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