あなたが本当にイエスを愛するとき、変わる三つのこと
2026年7月19日の礼拝説教に基づくメッセージ。シオン横浜キリスト教会と沼津教会、ピリピ2:17〜30より。日本語からの翻訳。
はじめに:キリストに捕らえられた人生の三つのしるし
神が私たちの物語の糸を握っておられることを、ほとんど肌で感じ取れるような礼拝があります。この日曜日、私たちは沼津と横浜に集まり、クラブ・シオンの青年グループも、取手、蒲田、茅ヶ崎の兄弟姉妹たちも、そしてロンドンから接続してきた一人の方さえも、ともにいました。六つのシオン教会が、同じ賛美の息吹の中で一つに結ばれていたのです。
三十三年以上にわたり沼津の牧師を務めてきた説教者は、こんな話をしてくれました。もともと沼津とは何のつながりもなかった茅ヶ崎の一人の少年が、青年グループの夏季キャンプがそこで行われたことがきっかけで、ある日この教会にたどり着いたのです。それから十年後、その少年はこの教会の牧師になりました。「神は一人ひとりを、個人的に見ておられます。そして、あなたが思い描ける最良の道よりもさらに良い道へと、導いてくださるのです。」
この気づきから、三つのシンプルな確信が浮かび上がってきました。それは、ピリピ2:17〜30の朗読によって照らし出されるものです。あなたの生き方が変わること、感謝と喜びがあなたを満たすこと、そして、この救いの喜びが人から人へと広がっていくことです。
1. イエスに恋するとき、あなたの生き方が変わる
イエスを愛するとは、まず歯を食いしばって「もっと良くしよう」とすることではありません。それは、イエスに愛されるままに自分を委ねること、そして、私たちがイエスに差し出す愛の三十倍、六十倍、百倍もの大きさの愛を、イエスが返してくださることに気づくことです。
「わたしのイエスへの愛は、小さく、貧しいものでした」と説教者は語ります。「わたしはイエスに背を向けてしまうこともありました。それでも神は、惜しみない愛を注いでくださいました。神はわたしを見捨てられなかったのです。」
その愛の証拠が、十字架です。ピリピ2:5〜11で、パウロは、神の御姿であられたキリストが、その地位に固執することなく、死にまで、それも十字架の死にまでご自分を低くされたと描いています。礼拝堂の正面にそびえる十字架は、単なる象徴ではありません。それは、あなたのために殺されることを受け入れた愛の痕跡なのです。
あなたが良い人間になったから救われるのではありません。神のために何か大きなことを成し遂げたから、その報いとして救いが与えられるのでもありません。むしろ逆です。イザヤ43:4で、神はこう宣言されます。「あなたは、わたしの目には尊く、重んじられ、わたしはあなたを愛している……」。あなたが弱いままのあなたであるにもかかわらず、神があなたを愛しておられるからこそ、神はご自分のひとり子を、あなたに代わって十字架へと送られたのです。
信仰の姿をまとった仕組みに気をつけなさい
説教者は、大学や社会に出て行く若い人たちに向けて、少し時間を取って注意を促しました。カルトとは、単なる宗教運動のことだけではありません。それは、あなたの時間、お金、考え方、選択をコントロールしようとする、あらゆる集団(企業、クラブ、学校)のことなのです。
本物のキリスト教の礼拝は、あなたの自由の上に築かれています。あなたが来るのは、みことばを聞きたいから、祈りたいから、友人たちに会いたいからです。イエスは決して人の意志を強制されません。イエスは、私たちが自ら進んでささげるもの、すなわち私たちの賛美、私たちの出席、私たちのささげ物を喜んでくださるのです。
「もしある教えが、『これこれの犠牲を払わなければ、あなたは救われない』と言うなら、それはカルトです。このことをしっかり覚えておいてください。信仰は強制されるものではありません。それは、神の愛と十字架の輝きとの出会いから湧き上がってくるものです。そしてそうなると、人は信じずに、祈らずに、賛美せずにはいられなくなるのです。」
2. 感謝と喜びが、不平不満に取って代わる
神が本当にあなたを愛しておられると理解するとき、あなたのあり方が変わります。それは魔法のようにではありません(イエスを信じたからといって、一夜にしてオリンピック選手のような泳ぎ手になれるわけではありません)。しかし、あなたの心が変わり、その新しい心が、あなたがずっと避けてきたものに立ち向かわせてくれるのです。
説教者は、中学一年生の頃のプールでの出来事を語ってくれました。海のすぐ近くにある茅ヶ崎で、彼は泳ぐことができませんでした。クラスメートたちと教師は、ある種のいじめのような形で、彼を全校の前で行われる50メートル自由形リレーに出場させたのです。当日、みんなが飛び込みました。彼は、歩いたのです。水の中を五十メートル、全校生徒の目の前で。
プールから上がった彼は、なぜだか分からないまま、こう祈りました。「イエス様、来年こそは、泳げるようにしてください。」翌年の夏、六月に市民プールが再オープンするとすぐに、彼はこっそりと、毎日そこに通いました。中学校の最初の水泳の授業で、彼は水に浮かび、進むことができたのです。一年前、彼が水の中を歩く姿を見ていた小学校時代の同級生たちは、あっけにとられて彼を見つめていました。
「人生には、つらいこと、悲しいこと、屈辱的なことがたくさんあります。しかし、それを神の前に携えて行き、何かをしてくださいと願うとき、神は知恵を、力を与えてくださり、道を開いてくださいます。勉強もせずに一晩で英語が話せるようになるわけではありません。けれども神は、あなたにやる気を与え、あなたの道に良い人々を置き、あなたには見えなかった扉を開いてくださるのです。」
今日、ここに置いていくべき言葉があります。「どうせ、わたしなんて何者でもない。」この言葉を、下ろしてください。すでに信じているかどうかにかかわらず、あなたを傷つけるものや喜ばせるものに出会ったとき、ただ十字架につけられたイエスの御名によって祈ってみてください。神がどのように道を開いてくださるかを見てください。証しとは、ただ聞くものではありません。生きられるものなのです。
3. 救いの喜びは、人から人へと伝わっていく
この章の後半で、パウロは二人の人物、テモテとエパフロディトについて語っています。ピリピ2:19〜30です。
テモテは、パウロにとって霊的な子どもであり、息子が父に仕えるようにパウロとともに仕えた者でした。一方エパフロディトは、ピリピの教会の出身で、不当に投獄されていたパウロを支えるために、ピリピの人々によってローマまで遣わされていました。そこでエパフロディトは、死ぬほどの重い病にかかってしまいます。神は彼を哀れんでくださり、また、これ以上の悲しみを負うことになったであろうパウロをも哀れんでくださいました。パウロは、兄弟たちが再会を喜べるように、彼をピリピに送り返します。
その流れを見てください。パウロはエパフロディトがそばにいることを喜び、ピリピの人々は彼と再会することを喜び、エパフロディト自身も、パウロについての知らせを自分の教会に持ち帰ることを喜んでいます。三つの喜びの源が、一つの同じ流れを作っているのです。ピリピ人への手紙の中で、「喜び」という言葉は十六回、あるいは十七回も登場します。それは偶然ではありません。
教会とは、まさにそのようなものです。イエスとの出会いの喜びが分かち合われる場所です。それはパフォーマンスではありませんし、人集めの努力でもありません。磁石のようなものです。私たちが、それぞれの場所で(若くても年を重ねていても、子どもでも大人でも)本当に福音を生きるとき、生きておられる神は、同じ喜びを求めている他の心を、私たちの周りに集めてくださるのです。
時にはこんな声を耳にします。「日本の教会は高齢化していて、牧師も足りず、すべてがうまくいっていない。」しかし聖書は、どこにおいても、力ずくで人を集めるようにとは求めていません。聖書が求めているのは、私たち自身のイエスとの出会いを喜び、賛美し、祈り、すでにそこにいる人々を大切にすることです。あとのことは、神がなしてくださいます。
覚えておきたいポイント
- 救いは、あなたの実績への報いではありません。それは、十字架において証明された、神の先立つ愛から生まれるものです(ピリピ2:5〜11、イザヤ43:4)。
- キリスト教の信仰は、あなたの自由を尊重する点で、カルトとは区別されます。それは、要求される犠牲の量で測られるものではありません。
- あなたの心は、状況よりも先に変わります。神は、あなたがずっと避けてきたものに立ち向かう勇気を与えてくださいます。
- 喜びは、独り占めするものではありません。パウロ、テモテ、エパフロディト、そしてピリピの教会の間を巡り、それを受け取るすべての心の間を、今もなお巡っているのです。
- 教会は、強制によってではなく、引き寄せる力によって成長します。教会は輝きを放ち、神は求めている人々をそこへと導いてくださいます。
個人への適用
- 今日、あなたの人生のどの部分で、あなたはまだ神の愛を「勝ち取ろう」としていますか。すでに与えられた贈り物として、それを受け取るなら、何が変わるでしょうか。
- 「どうせ、わたしなんて何者でもない」というような言葉を、心の中で繰り返してはいませんか。今日、それをイエスの前に下ろすことができますか。
- 何らかの集団、契約、人間関係が、あなたの時間、お金、考え方をコントロールしようとしていませんか。キリストが与えてくださる自由へと、どう立ち返ることができるでしょうか。
- あなたが今抱えていて、まだ一度もイエスに祈りの中でゆだねていない試練は何ですか。今すぐ五分間、時間を取ってみましょう。
- 今週、たとえ小さくても、神があなたに与えてくださった喜びを、誰と分かち合うことができるでしょうか。
引用聖句
- ピリピ2:17〜30・中心となる朗読箇所
- ピリピ2:5〜11・へりくだり、高く上げられたキリストへの賛歌
- イザヤ43:4・「あなたはわたしの目に尊く、わたしはあなたを愛している」
FAQ
ある宗教団体がカルトになっているかどうかは、どうすれば見分けられますか。
ある団体は、あなたの時間、お金、考え方、決定をコントロールしようとし、その教えが、自分たちが要求する特定の行いに救いを条件づけるとき、カルト化していると言えます。一方キリスト教の信仰は、すでに与えられた愛への自由な応答の上に築かれています。
なぜパウロは、ピリピ人への手紙の中で、これほどまでに喜びを強調しているのですか。
それは、パウロが不当に投獄された獄中からこの手紙を書いており、クリスチャンの喜びが状況に左右されるものではないことを示したかったからです。その喜びは、よみがえられたキリストの臨在に基づいています。この手紙の中で、「喜び」という言葉は十六回以上も登場します。
神が自分の祈りに答えてくださっていないように感じるとき、どうすればよいですか。
あなたの状況を、神の前に携え続けてください。神は即座に解決すると約束してはおられませんが、知恵と力を与え、試練とともに脱出の道を開いてくださいます。神の答えは多くの場合、誰かとの出会いを通して、内面の変化を通して、あるいはあなたが気づいていなかった扉を通してもたらされます。
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