ヨハネ15章:キリストとの一致、あなたに必要なすべて

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はじめに

すべてが一夜にして変わってしまうように思えるとき、Michael Dente(マイケル・デンテ)は、心を落ち着かせる言葉、つまり「変わらない何か」が必要だと感じています。祈りの中で、神の真実さと、私たちがキリストにあって持っている一致について語るよう導かれたそうです。

キリストとの一致は「まさに中心となる」教理であり、ほかの多くのことがらを含んでいる、と彼は言います。すべてはこの現実につながっています。キリストは私たちのうちにおられ、私たちはキリストのうちにいるのです。これこそが、「これほど均衡を失った世界」の中で私たちを落ち着かせ、支えるものです。

これを語るために、彼はヨハネ15章1〜17節を開きます。イエスご自身がこの一致を説明された箇所です。彼の確信は一言で言えます。イエスは私たちに必要なすべてであり、弟子たちには、イエスにとどまるという大きな特権があります。祈ること、愛すること、喜びのうちに生きること、そして神に喜ばれる生き方でイエスに従うことを学びながらです。

メッセージの流れ

1. 十字架の前の最後の夜

  • イエスは弟子たちと共に集まっておられます。どこから来てどこへ行くかを知っておられるイエスは、上着を脱ぎ、しもべの姿になって、ひとりひとりの足を洗われます。
  • イエスは食事に新しい意味を与えて分かち合い、そして不思議なことを告げます。「わたしは去って行く。」しかしそれは彼らのためです。助け主を与えるからです。
  • 弟子たちにとって、その日は決戦の日です。翌日、彼らの人生は永遠に変わってしまい、イエスは歴史を永遠にわたって変えようとしておられます。
  • 部屋を出てキデロンへ下り、丘のぶどうの木に囲まれながら、祈りに向かうオリーブの木々のもとへ行く途中で、イエスは言われます。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父はぶどう作りである。」

2. 「わたしはある」:神ご自身が語りかけておられる

  • ヨハネによる福音書は、ほかの福音書とは少し違った書き方をされています。旧約聖書への言及が、「川のように」次々と流れ込んでいます。
  • 「わたしはある」は、単なる文法のように見えます。しかしこれは、出エジプト記3章のギリシャ語聖書から直接取られた、「エゴー・エイミ」という二つのギリシャ語です。
  • モーセは荒野で燃える柴を見ます。燃える柴がどうなるかは、「今年の夏に私たちが悲しいほど思い知ったように」、山火事です。しかしこの柴は燃え尽きません。主はそこでご自身を現され、モーセが御名を尋ねると、こう答えられます。「わたしは、有って有る者」(出エジプト記3章14節)。
  • イエスが「わたしはある」と言われるたびに、その場面がヨハネの福音書の中に運ばれてくるかのようです。「わたしは命のパンである」「わたしはよみがえりであり、命である」。そして私たちは神の御前に立たされます。
  • 「わたしはまことのぶどうの木」は、福音書の中でイエスがこの言葉を口にされる最後の場面です。

3. まことのぶどうの木:イエスはイスラエルを成就される

  • 旧約聖書で、ぶどうの木は神ではなくイスラエルを指しています。そしてそれは決して好意的な意味ではありません。イザヤ書5章1〜4節では、愛する者がぶどう畑のためにできることをすべてしたのに、良いぶどうを期待していたところ、悪いぶどうができてしまいました。詩篇80篇でも、「このぶどうの木にはいつも問題がある」のです。
  • イエスが「わたしはまことのぶどうの木」と言われたとき、それは弟子たちにとって革命でした。イエスはイスラエルと自らを重ね合わせています。律法を成就し、預言者たちの語ったことを成就し、諸国民の光となられるのです。
  • 父はぶどう作りです。弟子は父なる神と直接の関係にありながら、子なる神につながり続けています。父は、子につながっている者たちを手入れされるのです。
  • みことばはきよめます。「あなたがたは、わたしの語った言葉によって既にきよくされている」(3節)。説教者は証しします。今でもときどき、聖書を読んで、自分が歩んでいた道が正しくなかったと気づかされることがあるそうです。このみことばによって、変わらなければならないと分かります。これがイエスの語るきよめの働きです。

4. 弟子は受け身ではない

  • 「弟子」はあまり一般的な言葉ではありません。Michael Denteは、クリスチャンではない友人たちの口からこの言葉を聞いたことがありません。その意味は、生徒、見習い、研修生ということです。私たちは生涯の終わりまで、偉大な師の弟子なのです。
  • 主の愛は「良い肥料のように」私たちを成長させ、限りない力は、ぶどうの木につながる私たちを支えてくださいます。
  • 農業のたとえにもかかわらず、これは受け身の関係ではありません。クリスチャンは何もせずに祈っているだけだと非難されることがありますが、説教者は、主が導こうとしておられるのに私たちが何もしないでいることがあると認めています。しかし、祈ることと行動することは矛盾しません。
  • イエスは「安心しなさい、あなたがたは何もしなくてよい」とは言われません。「とどまりなさい」は命令形です。わざわざそう言わなければならないのは、それが自然なことではないからです。イエスは、ご自身に栄光を帰す実り豊かな人生を望んでおられます。「わたしを離れては、あなたがたは何一つできないからである」(5節)。
  • この唯一の目標、つまりイエスにつながり続けることから私たちの気をそらそうとするものが、あまりにも多くあります。この結びつきは、主の恵みの豊かさゆえに私たちを養い、そこに、主が私たちに望んでおられる人生を送るために必要なすべてがあります。

5. キリストと共に死に、共に生きる

  • パウロも同じ一致を、ガラテヤ書2章20節で語っています。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。もはや、わたし自身が生きているのではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」
  • キリストとの一致は死から始まります。主は私たちの罪を負われ、私たちは霊的に主と共に死にます。しかしそれで終わりではありません。主はよみがえられ、私たちも主と共に天の所によみがえらされています。主のいのちが、今や私たちのうちに生きています。
  • 説教者のたとえです。ディーゼル車が大好きな人が、電気自動車に乗り換えたいと思っています。車体は捨てずに、エンジンを替えます。ディーゼルに関わるものはすべて取り外し、電気モーターを載せるのです。「車はディーゼルとしては死に、電気自動車として生まれ変わる。」キリストと一つにされているなら、あなたもそうなのです。
  • この一致は祈りを変えます。主のみことばが少しずつ私たちを変えはじめ、私たちは別のことを願うようになります。同じ信仰のゆえに苦しんでいる、世界の反対側の見知らぬ人々のために祈るほどになります。
  • 「あなたがたがわたしにとどまっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっておるならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」(7節)。これは白紙の小切手ではありません。あなたが大きく変えられて、主が祈られるように祈り、主が望まれることを望むようになるのです。
  • イエスは「来て、クリスチャンになりなさい」とは一度も言われませんでした。「わたしに従って来なさい」と言われたのです。説教者はジョン・マーク・カマー(John Mark Comer)を引用します。それはクリスチャンになることへの招きではなく、「積極的で献身的な生き方への招き」なのだと。

6. 弟子のしるし:愛と喜び

  • 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した。わたしの愛のうちにおりなさい」(9節)。父と子の間の愛は、世界の基が据えられる前から存在しています。その愛は非常に強く、イエスは父のみこころに従い、罪を除いてあらゆる限界を伴う私たちの人間性を身にまとい、私たちを自由にするために命までささげられました。
  • この愛は、弟子としての生き方が一貫性を見いだす模範です。ほかの人より上手に愛していると見せるための愛でも、チェックを入れるための項目でもありません。「この地域を、誰も愛したことがないほど愛してみせる」というのは、「栄光は私に」と言っているのと同じです。
  • 矛盾した生き方のたとえです。実はミシュランの星を持つシェフで、ビーガンで共産主義者でもある人が、毎日ファストフード店に来てそこで調理をしているファストフード店員のようなものです。見せるために生きることは、これと同じ矛盾に陥ることです。
  • 弟子の生き方は悲しいものではありません。誰にでもあるように、苦しみも試練もあります。しかしイエスは言われます。「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにもり、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」(11節)。
  • この喜びはあなたから出るものではありません。自分で作り出す必要も、娯楽の中に探す必要もありません。それはあなたのうちにある、主の喜びです。そして、どんな人生にも制約はあります。制約などないかのように生きる人は、最後にはその結果を刈り取ることになります。
  • 弟子は、道の途中で涙をぬぐってくださる方と共に歩みます。そして終わりの日には、顔と顔を合わせて、私たちの目からすべての涙をぬぐってくださいます。

7. イエスの友、実を結ぶために選ばれた者

  • 「わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを、みな、あなたがたに知らせたからである」(15節)。
  • イエスは二千年前の、特定の十一人に語っておられたのだ、と反論する人もいるでしょう(ユダはすでに出て行っていました)。しかし、私たちは彼らと何が違うのでしょうか。私たちも愛されているのではないでしょうか。私たちもイエスに従っているのではないでしょうか。私たちも聖書を通して主のみこころを知っているのではないでしょうか。
  • 旧約聖書で神の友と呼ばれている人は二人います。アブラハムとモーセです。二人には試練もありましたが、神と共に素晴らしい人生を送ったのではないでしょうか。そこで問いが生まれます。あなたにとって「素晴らしい人生」とは何でしょうか。
  • 私たちの罪のために死に、私たちにいのちを与えるためによみがえられたイエスは、ご自身のすべての約束が真実であることの保証として、ご自身を示されます。
  • 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実を結び」(16節)。神があなたを救われたのは、平凡な人生のためではなく、永遠に根ざした、「この世にとって革命的な」人生のためです。
  • すべてが回心の瞬間に完成するわけではありません。二人の高齢の方を思い浮かべてください。一人は愛と優しさに満ち、もう一人は苦々しさを抱えています。前者は、内におられる聖霊によって、ますますキリストに似た者となりました。三十年間キリストと共に過ごし、キリストにたましいを取り扱っていただいたのです。後者は同じ三十年間、自分の夢を追い求め、その結果を刈り取っています。
  • 最後の呼びかけはシンプルです。もしキリストと一つになっていないなら、すべてはキリストを認めることから始まります。赦しを求め、告白してください。神には何も隠せません。そして、長い間キリストにつながってきたのに、右へ左へとそれがちな人は、説教者の祈りがあなたの祈りでもあります。「主よ、私たちをもう一度つなぎ直してください。」

心に留めたいポイント

  • イエスが「わたしはある」と言われるとき、モーセに示された御名を語っておられます。神ご自身が、まことのぶどうの木として現れておられるのです。
  • イスラエルのぶどうの木が期待を裏切ったところで、イエスはまことのぶどうの木です。私たちに必要なものはすべて主のうちにあります。
  • 「とどまりなさい」は命令です。キリストとの一致は受け身ではなく、父の栄光のために実を結びます。
  • キリストと一つにされた私たちは、主と共に死に、主と共に生きます。祈りが変わり、主が望まれることを望みはじめます。
  • 弟子は父の愛とイエスの喜びによって生き、イエスの友と呼ばれています。

個人的な振り返り

  1. キリストにつながり続けるというこの唯一の目標から、今のあなたの気をそらしているものは何ですか。
  2. 最近、聖書の箇所を通して、自分の歩んでいた道が正しくなかったと気づかされたのはいつですか。
  3. あなたの祈りは、主に「これがほしい、あれがほしい」というものが多いですか。それとも、イエスが望まれることを映しはじめていますか。
  4. どの分野で、神への愛からではなく、人に見られるために愛そうとしていますか。
  5. これからの三十年を見つめたとき、どんな高齢の方のようになりたいですか。そのために、今この時からキリストに取り扱っていただくべきことは何ですか。

引用された聖書箇所

よくある質問

ヨハネの福音書の「わたしはある」とはどういう意味ですか。

Michael Denteは、この言葉はギリシャ語の「エゴー・エイミ」を訳したものだと説明します。これは、主が燃える柴の前出エジプト記3章14節のギリシャ語聖書の表現です。イエスが「わたしはある」と言われるたびに、ヨハネはその場面を福音書の中に運んできます。私たちは神の御前に立たされるのです。ヨハネ15章は、イエスがこの言葉を口にされる最後の場面です。

キリストにとどまることは、受け身の生き方ですか。

いいえ。説教者は、農業のたとえにもかかわらず、「とどまりなさい」は命令形だと強調します。イエスがわざわざそう言わなければならないのは、それが自然なことではないからです。イエスは、父に栄光を帰す実り豊かな人生を望んでおられます。弟子とはイエスの見習いであり、生涯の研修生であり、積極的で献身的な生き方へと招かれた者です。

なぜイエスは弟子たちを友と呼ばれるのですか。

ヨハネ15章15節で、イエスはもう彼らをしもべとは呼ばないと言われます。父から聞いたことをすべて彼らに知らせたからです。Michael Denteによれば、これは十一人だけのものではありません。私たちも愛されており、イエスに従い、聖書を通して主のみこころを知っています。アブラハムやモーセのように、私たちも神との友情に入るのです。

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