もし今日があなたの地上での最後の日だとしたら。あなたはどう反応するでしょうか。恐れを感じるかもしれませんし、主のもとに行ける喜びを感じるかもしれません。でも何より大切なのは、あなたの本当の優先順位は何なのかということです。ユーグ・ヴェッセルは詩篇90篇についてのメッセージの冒頭で、この問いをあなたに投げかけています。短いけれども、私たちの優先順位、愛することへの切迫感、福音を語ることへの切迫感、そのすべてを見つめ直させてくれる問いです。
この詩篇は、モーセが書いた唯一の詩篇で、紀元前1440年頃のものとされています。それでも古びることがありません。私たちの社会が避けたがるテーマ、すなわち死に正面から向き合っているのです。あなたを怖がらせるためではなく、本当の慰めがどこにあるのかを示すためです。
1. 世々に移ろう世代の避け所である神
詩篇はこう始まります。「主よ、あなたは代々にわたって私たちの住まいでした」(詩篇90篇1節)。ヘブライ語で「住まい」と訳されるこの言葉は、文字通り「宿るところ」を意味します。荒野を旅する遊牧の民イスラエルにとって、これは計り知れない意味を持っていました。神こそが彼らの家だったのです。
今日も同じ約束が生きています。イエスはヨハネ14章で、イエスを愛し御言葉を守る者のところに、父と子が来て住むと語っています。あなたは何を自分の避け所としているでしょうか。配偶者、家族、友人、お金、家でしょうか。いつの日か、あなたはこの地上のものすべてを置いていかなければなりません。詩篇46篇1節には、ぜひ心に刻んでほしい言葉があります。「神は私たちの避け所、私たちの力。苦難のときにいと近くにいまして助けてくださる方」
2. 神の永遠と私たちの日々のはかなさの対比
モーセはこう書いています。「山々が生まれる前から、あなたが地と世界を生み出す前から、とこしえからとこしえまで、あなたは神です」(2節)。当時、山々は動かないゆえに永遠に思えました。モーセはこう答えます。山々よりも永遠なるお方がいる、それが永遠なる神ご自身だと。
現代の科学もこの直感を裏づけています。ビッグバンが発見される前、無神論の科学者たちは、宇宙は永遠だと信じていたため、聖書の最初の一節を笑っていました。しかし今では、宇宙は138億年、地球は45.4億年とされています。神は、そのすべてより前から存在しておられたのです。
神にとって「千年もあなたの目には昨日のように」(4節)過ぎ去ります。使徒ペテロはペテロの手紙第二3章でこの言葉を取り上げ、イエスの再臨を忍耐して待つようにあなたを励ましています。あなたには長く感じられることも、神にとっては一瞬の息にすぎないのです。
3. あなたはちりに帰る:死は友ではない
詩篇はここで陰りを帯びます。「あなたは人をちりに帰らせて」(3節)言われます。死は神の最初のご計画に含まれていたのでしょうか。いいえ、違います。聖書は死を「恐怖の王」、私たちの敵と呼びます。私たちの社会は時に死を美化し、一つの出口であるかのように扱います。しかし聖書は、死をスキャンダルとして描いているのです。
モーセが3節でアダムに触れているのは偶然ではありません。私たちがアダムの子だからこそ、私たちは死ぬのです。国家元首の誤った決断が国全体に影響を及ぼすように、アダムは地球規模の誤った決断を下しました。自分ならもっとうまくやれたはずだ、とは考えないでください。むしろもっと悪くしていたかもしれません。
数字を見ると眩暈がします。人類が誕生してから今までに、およそ1080億人が亡くなったと推定されています。今日でも、毎秒一人から二人、一日およそ15万人、一年で5900万人が亡くなっています。モーセは自らの経験からそれを知っていました。荒野で彼は、イスラエル人2万4000人が不従順のゆえに、たった一日で滅びるのを目にしたのです。
新約聖書(ヘブル人への手紙2章14節)は、死の力を持つのは悪魔であると教えていますが、それでもすべての死において主権を握っておられるのは神です。「人は自分の息を治める力を持たない」と伝道者の書は思い起こさせます。あなたはその日も時も知りません。しかし、あなたが死を迎えるとき、それはある意味であなたにとって世界の終わりなのです。
4. 私たちの人生は夢のように、花のように過ぎ去る
モーセは私たちの存在を二つのはかないイメージにたとえます。一晩しか続かない夢、そして朝に咲いて夕べにはしおれる花です。「花を見るたびに、私たちは自分自身を振り返るべきだ」とブレーズ・パスカルは書きました。私たちの暮らす先進国では、科学の進歩によって、自分の日々がいかにはかないものかという現実を、つい忘れてしまいがちです。
続いてモーセは神の怒りと激しい憤りについて語ります(7節)。今日では人気のあるイメージではありません。しかし、神の怒りは決して気まぐれなものではありません。それは義なる、聖なる怒りであり、悪に向けられたものです。なぜなら「神の目は清くて悪を見ることができない」からです。
キリストにあるあなたにとって、この怒りはあなたを脅かす理由にはなりません。イエスが十字架でその怒りをご自身の身に引き受けてくださったからです。イエスはあなたの避雷針です。しかし神を軽んじてはいけません。新しい契約のもとでも、神はアナニアとサッピラ(使徒の働き5章)のように、ご自分のさばきを行われました。
5. 神には何も隠せない:今のうちに知っておくほうがよい
「あなたは私たちの咎をご自分の前に置き、私たちの隠れた罪をあなたの御顔の光の中に置かれました」(8節)。あなたは他人に嘘をつくことができます。自分自身にさえ嘘をつくことができるかもしれません。しかし神には何一つ隠すことができません。神はスキャナーのようにあなたの心を見通しておられます。
ダビデ王は詩篇19篇で、自分が気づいていない過ちさえも赦してくださるよう主に求めました。詩篇139篇では、自分の心の奥にある動機を調べてくださるよう神に願っています。
良い知らせがここにあります。「悔い改めてイエスとその犠牲を信じる者の罪を、神はもはや思い出されない」(ヘブル人への手紙)のです。ダビデにならって、今のうちに自分の罪を示してくださいと神に求めるほうがよいでしょう。イエスご自身がこう言われます。「わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためです」(ヨハネ12章47節)。もしこの地上でイエスを救い主として受け入れないなら、あなたは向こう側で、イエスをさばき主として再び目にすることになります。
6. 70年、80年:それでもなお慰めがある
「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年」(10節)。興味深いことに、2024年時点での世界の平均寿命は男性71歳、女性75歳です。モーセの記述は驚くほど正確でした。
老いはときに辛いものです。シャルル・ド・ゴール将軍はこう言いました。「老いとは難破のようなものだ」そうです、神のいない老いは難破です。しかし神とともにあるなら、そこには約束があります。イザヤ書46章4節にはこうあります。「あなたがたが年老いるまで、わたしは変わらない。あなたがたが白髪になるまで、わたしはあなたがたを背負う。わたしはすでにそうしてきたように、これからもあなたがたを担い、背負い、救い出す」
そして本当の慰めがついに訪れます。イエスはヨハネ11章25、26節でこう言われます。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きます。生きていてわたしを信じる者は、だれも決して死ぬことがありません」クリスチャンにとって、死はもはや死として経験されるものではありません。それは神とともにある永遠へと渡っていく通り道なのです。
覚えておきたいポイント
- 死は私たちの優先順位を正しい位置に戻してくれます。最後の日に、こう生きていたかったと思えるように、今日を生きましょう。
- 神だけが揺るがない避け所です。財産も、大切な人も、健康も、それ以外のすべてはいずれ過ぎ去ります。
- 私たちの人生は短いものです。夢のように、しおれていく花のように。幻想に酔いしれてはいけません。
- 神はすべてをご覧になっています。後回しにせず、今、自分の罪を示してくださいと神に願いましょう。
- イエスにあって、死は通り道になります。「わたしを信じる者は生きます」(ヨハネ11章25節)
実践への問いかけ
- もし今日があなたの最後の日だとしたら、誰に福音を語りたい、あるいは語り直したいと思いますか。
- ここ数か月、あなたは本当は何を自分の避け所としてきましたか。銀行口座でしょうか、大切な人たちでしょうか、それとも神でしょうか。
- 神の真実さについてのどの約束を、今週から心に刻み始めることができますか。
- あなたが目をそらしたいと思っている隠れた罪はありませんか。神にそれを示してくださいと願う準備はできていますか。
- もし今夜神と会うことになるとしたら、あなたはその出会いへの備えができていますか。
引用された聖句
- 詩篇90篇(口語訳) - 神の人モーセの祈り
- 詩篇46篇1節 - 神は私たちの避け所
- ヨハネ14章23節 - わたしたちはその人のところに来て、住まいを作る
- ペテロの手紙第二3章8、9節 - 千年は一日のよう
- ヘブル人への手紙2章14節 - 死の力を持つ者
- 伝道者の書8章8節 - 人は自分の息を治める力を持たない
- アモス書4章12節 - あなたの神と会う備えをせよ
- イザヤ書46章4節 - あなたがたが年老いるまで、わたしは変わらない
- ヨハネ11章25、26節 - わたしはよみがえりです、いのちです
- ヨハネ12章47節 - わたしが来たのは世をさばくためではない
よくある質問
なぜモーセは死というテーマに一篇まるごとを捧げたのですか。
多くの注解者によれば、詩篇90篇は、20歳以上のイスラエル人が約束の地に入ることなく荒野で死ぬという神の宣告の後に書かれたとされています。モーセは自分の民のためにとりなし、聖なる神を前にした人間の存在の重さを深く思い巡らしているのです。
死は神の最初のご計画に含まれていたのですか。
いいえ、違います。聖書は死を敵、「恐怖の王」として描いています。死はアダムの罪によってこの世界に入り込みました。神はあなたの心に永遠を思う心を置かれました。だからこそ、死はいつまでもあなたにとって不自然なものに感じられるのです。
死を前にして、クリスチャンはどのような慰めを見いだすのですか。
イエスは「よみがえりです、いのちです」(ヨハネ11章25、26節)。イエスを信じる者は、死さえも本当の意味では経験しません。それは神の御前にある永遠へと渡っていく通り道になるのです。逃避ではありません。十字架で勝ち取られた勝利なのです。
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