イエス、世の光(2)

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序論

先週から私たちはヨハネ8.12〜20に立ち止まり、「わたしは世の光です」と宣言された方を見つめています。この言葉は決して軽いものではありません。イスラエルにとって光とは、荒野で民に伴われた神の臨在、その守り、その導き、そして約束されたメシアへの待望を表すものでした。自らをこの光であると宣言することで、イエスはご自分の民と共に住むために来られたまことの神として、また待ち望まれていた救い主として、ご自身を示されたのです。

今日は、その場面の続きを見ていきます。イエスは仮庵の祭りの最中、神殿の中心で、大勢の群衆に囲まれながら、ご自分が光であることを宣言されたばかりでした。それを聞いたパリサイ人たちは、イエスの主張を正確に理解しながらも、それを受け入れることを拒みます。ヨハネ8.21〜30で、救い主は自分の心を光に閉ざす者たちに対して、率直に警告されます。イエスを拒み続ける者を待ち受けている、三つの重い現実があります。しかし同じ息の中で、イエスはご自分を軽んじるその同じ人々に、救いの手を差し伸べておられます。

少し立ち止まってみてください。今朝、あなたはどこに立っていますか。イエスをあなたの人生の光として受け入れていますか、それとも距離を置き続けていますか。この問いは机上の空論ではありません。あなたの永遠を決定するものです。

メッセージの構成

1.自分の罪の中で死ぬこと

  • イエスはご自分の離別を告げられます。イエスは父のもとへ帰って行かれますが、イエスに従うことを拒む者は、イエスの行く所に行くことができません(21節)。
  • ユダヤ人たちは、イエスが自ら命を絶つことを話していると考えます。彼らの伝統では、自殺した者は死者の国の最も暗い部分に落ちるとされていたからです。
  • 彼らはあざけります。「自殺でもするつもりなのか」(22節)。自分たちは天国に行く運命にあると確信している彼らは、そこに至る唯一の道を退けてしまいます。
  • しかし、イエスは絶望からではなく、罪人に代わって罪を負うために、ご自分の意志で十字架に命を渡されます(ヨハネ10.18)。この捧げ物を拒む者は、慰めもなく、父から遠く離れたまま、自分の罪の中で死ぬことになります。

2.神から永遠に引き離されること

  • 「あなたがたは下のものですが、わたしは上のものです。あなたがたはこの世のものですが、わたしはこの世のものではありません」(23節)。二つの出所、二つの相容れない所属です。
  • 「世」という言葉は、単に地上を指すのではありません。それは神に反逆し、悪に支配されている体制を意味します(第一ヨハネ5.19、ヤコブ4.4)。
  • 罪のうちに生まれた私たちは、生まれながらにみなこの世に属しています。イザヤ59.2が思い起こさせるように、私たちの咎は神と私たちの間に隔ての壁を築きます。人間のどんな努力も、その壁を越えることはできません。
  • イエスはニコデモにこう言われました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3.3)。唯一の出口は、上から来られた方を信じることです。「もしわたしがそのものであることを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬことになります」(24節)。

3.ますますかたくなになっていく心

  • 「あなたはいったい誰なのですか」(25節)。この問いは誠実な探求ではなく、軽蔑の表れです。彼らは、いのちを差し出してくださる方をあざ笑っているのです。
  • イエスは忍耐強く答えられます。ご自分からは何も語らず、父が与えてくださったことをそのまま伝えておられます(26〜28節)。その言葉は初めから一貫しています。
  • 問題は情報の不足でも、奇跡の不足でもありません。問題は高慢です。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをお与えになる」(第一ペテロ5.5)。
  • 高慢は神を忘れさせ(申命記8.14)、神の前で自分を何者かであるかのように思わせます。それは救い主から遠ざけ、罪の中に閉じ込めてしまいます。
  • それでもイエスは、十字架そのものがご自分が誰であるかを明らかにすると告げられます。「あなたがたが人の子を上げてしまってから、わたしがそのものであることが、あなたがたにわかります」(28節)。ローマの百人隊長はこう告白することになります。「まことにこの人は神の子であった」(マルコ15.39)。

心に留めたいポイント

  • イエスは死を強いられたのではありません。あなたを罪から救うために、ご自分の意志でいのちを渡されました。
  • どれほど宗教的な人であっても、自分の努力によって神のもとへ上ることはできません。救いは上から来ます。
  • イエスを信じるとは、その神的な「わたしはある」を認め、あなたを新しく生まれさせることができる唯一の方の前でへりくだることです。
  • 高慢は最も危険な毒です。それはあなたに神を忘れさせ、その光に対してあなたの心をかたくなにします。
  • キリストを信じる者はもはや「この世のもの」ではありません。彼らの国籍は天にあり、闇から救い出してくださった救い主と共にあります。

自分への適用

  1. 私はすでに神の前で、自分を救うことのできない罪人であることを認めているでしょうか。
  2. 私の信頼は、自分の道徳や、自分の宗教や、自分の育ちに置かれているでしょうか、それともイエス・キリストというお方に置かれているでしょうか。
  3. 私の人生のどこに、いまだに高慢が入り込み、救い主の声を聞くのを妨げているでしょうか。
  4. 私の国籍が天にあるのなら、私の時間の使い方や、願い、選択は、その現実をどのように映し出しているでしょうか。
  5. 私の周りで、まだ闇の中を歩んでいる人は誰でしょうか。今週、その人に上から来られた救い主について語るために、私に何ができるでしょうか。

引用聖句

よくある質問

イエスが上から来たと宣言されるのは、どういう意味でしょうか

イエスは、ご自分の起源がこの世にはないことを宣言しておられます。イエスは父のもとから、天から、約束された救い主として来られました。イエスの言葉を聞く人々は下から来た者であり、罪に覆われています。しかしイエスは上から来られた聖なる方であり、罪人を滅びから救い出すために神から遣わされたのです。

パリサイ人たちは聖書を知っていながら、なぜイエスを拒むのでしょうか

彼らの問題は情報の不足ではありません。イエスがご自分を神として示しておられることを彼らは理解しています。しかし彼らの高慢が、へりくだることを拒むのです。自分たちは正しいと確信している彼らは、救い主を必要としていることを認めようとせず、真理を前にしてその心はさらにかたくなになっていきます。

自分の罪の中で死ぬとは、どういうことでしょうか

それは、イエス・キリストにあって差し出されている赦しを受けることなく、この人生を去ることです。ヨハネ8.24によれば、イエスを信じない者は神から引き離されたままとなり、慰めも平安もなく、父の御前から遠く離れた永遠へと向かって行きます。十字架こそが、この現実からの唯一の出口です。

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