神に仕えること、神を利用しないこと

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はじめに

私たちに与えられた人生はただ一度きりです。それをしっかりと満たしていかなければなりません。マレシャル牧師は、2020年5月のある木曜日の夜、ナントの福音教会での礼拝再開を数日後に控えたこの日、この単純な一言から説教を始めます。彼が選んだのは、使徒の働きの中でもあまり目立たない箇所です。バルナバはアンテオケを離れ、タルソまで上ってサウロを探しに行き、彼を見つけ、連れ帰り、そして二人はまる一年間、ともに教えます。この時、この場所で初めて、弟子たちは「クリスチャン」と呼ばれるようになりました(使徒11:25-26)。一つの奉仕がもう一つの奉仕を助けに来たのです。それは個人的な野心のためではなく、神ご自身が召し、遣わされたゆえに果たされた奉仕でした。マレシャル牧師が今夜あなたに伝えたいのはこのことです。神への奉仕は、人から人へと受け渡せるものではありません。それは天から降って来るのです。そして天からの召命が欠けているとき、教会は苦しむのです。

メッセージの構成

1. ある奉仕がもう一つの奉仕を助けに来る

  • バルナバはすでにアンテオケにいます。彼は、迫害によって散らされたエルサレムのクリスチャンたちから生まれた教会が成長していくのを目にします。
  • 自分一人に頼るのではなく、彼はタルソまで上って、ダマスコ途上での回心から十年近くそこにいたサウロを探しに行きます。
  • 「そして彼を見つけて、アンテオケに連れて来た。二人はまる一年、教会の集会に加わり、多くの人々を教えた」(使徒11:26)。
  • この謙遜な協力の中から、アンテオケはヨーロッパへ、そして世界へと福音が送り出される、偉大な宣教の拠点となっていきます。神は男女を一つの共通の務めのうちに結び合わせられます。

2. 神への奉仕は天から降って来るもので、人から人へと受け渡されるものではない

  • パウロは三つのことをはっきりと自覚しています。主が彼に現れて彼を奉仕者として立てられたこと、神が彼を福音の奉仕者として選ばれたこと、そして神が彼を教会の奉仕者とされたことです。
  • 「神は聖なる召しをもって私たちを召してくださった」(テモテ第二1:9)。召しは上から、栄光の天から来るものであり、地上の歩みの最後まで、パウロはそのことを覚え続けます。
  • 神に仕えることは、神を利用することではありません。奉仕者は自分自身を立てるのではなく、また、他の人間の意志によって立てられるのでもありません。召すのは神であり、遣わすのも神です。
  • 教会はキリストのものです。「わたしはわたしの教会を建てる。よみの門もこれに打ち勝つことはない」(マタイ16:18)。教会はキリストの所有であり、キリスト自身の血によって買い取られたものです。

3. 神の民の中にある苦しい状況

  • 召されているのに応答しない人々がいるとき、苦しい状況が生まれます。教会はそのことで苦しみます。
  • また、召されていないのに、召された人々の場所を占めてしまう人々がいるときも、苦しい状況が生まれます。謙遜さの欠如、ねたみ、うらやみによってです。
  • これは肉の召しです。聖霊の御業がそこにないにもかかわらず、自分は何かできると思い込んでしまう人間の姿です。これは主の御業に大きな困難をもたらします。
  • 答えは、私たちの不満の中にはありません。教会のかしらである方の主権の中にこそあります。「その御名があがめられますように。」

4. 「わたしは彼らを遣わさなかった」:偽預言者たちの悲劇

  • エレミヤは、主が彼に語られたことをそのまま預言していました。その傍らで、他の者たちは「私は夢を見た、幻を見た、主が私にこう言われた」と自称していました。それらの夢は偽りであり、それらの幻も偽りでした。
  • そして神ははっきりと言われます。「わたしは彼らを遣わさなかった。わたしは彼らに命じなかった。わたしは彼らに語らなかった」(エレミヤ14:14)。
  • マレシャル牧師はこう語ります。「私は電車の中でエレミヤ書を読んでいて、まさにこの箇所にたどり着きました。神が『あなたがたは、わたしが言ったと言っているが、わたしは何も言っていない』と言われる箇所です。私は思わず笑ってしまいました。周りの乗客が私を見ていました。自分が言ってもいない言葉を、誰かに勝手に語られたことにされて喜ぶ人がいるでしょうか。それなのに、私たちは神に対してそれをしてしまうのです。」
  • 預言者エゼキエルも同じことを糾弾しています。「自分の霊に従い、何も見ていないのに預言する愚かな預言者たちに、災いあれ」(エゼキエル13:3)。彼らの幻はむなしく、彼らの託宣は偽りであるのに、それでも彼らは「主が言われた」と語るのです。

5. カインの道、バラムの道、コラの反逆

  • ユダの手紙は、終わりの日に、「カインの道に走り、利益のためにバラムの迷いに身を任せ、コラの反逆によって滅びる」者たちがいると警告しています(ユダ11)。
  • カインの道とは、自分の考えに従った礼拝であり、行いによる救いであり、兄弟を殺すまでに至るねたみです。
  • バラムの道とは、利得の道、宣伝の道、名誉の道、金銭の道です。与えられる報酬に応じて預言することです。
  • コラの反逆とは、自分自身を立て、モーセやアロンのように神が立てられた奉仕者たちを倒そうとする人間の姿です。
  • それとは対照的に、イエスはペテロに、490回赦すことを教えられます(マタイ18:22)。これは、創世記4:24でレメクが77倍の復讐を主張したことへの応答です。この深さの赦しは、神の助けなしに人間にできるものではありません。

6. 収穫の主に祈りなさい

  • イエスは群衆をご覧になり、深く憐れまれます。傷つき、疲れ果て、羊飼いのいない人々、あるいは、彼らを食い物にする羊飼いしかいない人々をご覧になるのです。
  • 「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、その収穫のために働き手を送ってくださるよう祈りなさい」(マタイ9:37-38)。
  • 祈ることは任意のことではありません。私たちが祈らなければ、主は働き手を送られません。そして収穫の主に遣わされることは、自分で名乗る肩書きではなく、大いなる使命なのです。

覚えておきたいポイント

  • 神への奉仕は人から人へと受け渡されるものではありません。それは天から降って来て、神ご自身から個人的にあなたに与えられるものです。
  • 神に仕えることは、福音に仕え、教会に仕えることでもあります。この三つはつながっており、どれか一つだけを切り離すことはできません。
  • 教会の多くの苦しみは、二つの両極端から生まれます。召されているのに拒む人々と、召されていないのに居座る人々です。
  • 神が言われていないことを、神の口に入れてはいけません。作り出された夢、幻、預言は、民を真理から遠ざけます。
  • 収穫の主に祈りなさい。祈りなくして遣わすことはなく、遣わすことなくして、傷ついた群衆のための働き手はいません。

個人への適用

  1. あなたは今、神があなた個人に何を召しておられるかを知っていますか。その確信をどのように受け取り、それをどうしてきましたか。
  2. もしあなたが召されているのにためらっているなら、あなたを引き止めているのは何ですか。恐れですか、高ぶりですか、過去の傷ですか、人と比べることですか。
  3. あなたの奉仕、あるいはあなたの教会の中に、神に遣わされたからではなく、個人的な野心によって占めている場所がありますか。それを神にお返しする備えがありますか。
  4. 今週、バルナバがサウロを探しに行ったように、あなたが助けに行ける相手は誰ですか。疲れ果てた、あるいは孤立した兄弟姉妹、奉仕者はいませんか。
  5. 収穫のための祈りは、あなたの一週間の中でどれほどの場所を占めていますか。働き手を送ってくださいと、あなたはどれだけの時間、神に求めていますか。

引用された聖句

よくある質問

「神に仕えること、神を利用しないこと」とは、具体的にどういう意味ですか。

それは、召しが下からではなく、上から来ることを認めることです。人は自分自身を奉仕者として立てるのではありませんし、他の一人の人間の決定だけによって立てられるのでもありません。神に仕えるとは、自分をはるかに超えた召しに応えることであり、そこには名誉も報酬も地位も求めません。逆に神を利用するとは、神の御名、みことば、教会を用いて、自分自身のために何かを築き上げることです。ユダの手紙が「バラムの迷い」と呼んでいる道です。

なぜマレシャル牧師は、教会の中の「苦しい状況」について語るのですか。

彼は、神の民を傷つける二つの現実を指し示しています。一方には、神に召されていながら応えることを拒み、空白を残す人々がいます。もう一方には、神に召されていないのに、ねたみ、高ぶり、うらやみによってその場所を占める人々がいます。どちらの場合も、聖霊の御業が妨げられ、教会は苦しみます。解決は反逆にあるのではなく、キリストがなおもご自分の教会のかしらであられることを覚え、収穫の主に真の働き手を送ってくださるよう祈ることにあります。

本物の召しと肉の召しをどう見分ければよいですか。

マレシャル牧師はエレミヤ14章とエゼキエル13章を指し示します。本物の召しは、神がみことばの中で実際に語られたことへの忠実さ、バルナバがサウロにしたような、経験を積んだ他の奉仕者たちとの伴走、そして、その人自身ではなく教会を建て上げる実によって見分けられます。一方、肉の召しは、自分で自分を名乗り、目立つことや名誉を求め、神が語られていないことを作り出し、やがて時とともにキリストのからだを弱らせていきます。へりくだって祈ること、みことばと信仰の先輩たちによって正されることを受け入れることが、第一の見分け方であり続けます。

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