妥協のない従順に歩む

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はじめに

「イヤイヤ期」という言葉をご存じでしょうか。二歳、三歳ぐらいの子どもに訪れる、あの「イヤイヤ」の時期です。誰に何を言われたわけでもないのに、子どもは突然、何にでも「イヤ」と言い始めます。ただ、素直に従いたくないからです。私たちは思わず笑ってしまいますが、それは自分自身の姿をそこに見るからでしょう。この抵抗する心は、大人になったからといって消えてなくなるわけではありません。心の奥に潜んだまま、誰か(交通整理をする係員、同僚、信仰の兄弟姉妹、そして神ご自身)が「止まりなさい」「譲りなさい」「ついて来なさい」と語りかけるとき、再び頭をもたげてくるのです。東京キリスト教会で語られたこの説教は、申命記シリーズの第三回として、まさにこの緊張の核心に迫るものです。タイトルはシンプルです。妥協のない従順に歩むこと。そして申命記は、ある明確な問いに答えます。乏しいときに神はあなたを何に招いておられるのか、豊かなときに神はあなたを何に招いておられるのか、という問いです。

このメッセージの構成

1. 十分ではない二つの動機

なぜ神に従うのでしょうか。無理やり従わされているからでも、罰を恐れているからでもありません。もし従う唯一の理由が「従わなかったらどうなるかという恐れ」であるなら、その従順は長く続きません。神が求めておられるのは、そのような動機ではないのです。

2. 本当の動機:神を愛すること

「もしあなたがたがわたしを愛するなら、わたしの戒めを守るはずです」(ヨハネ14:15)。申命記において、神を愛することと神に従うことは、常に一体となっています。従うとは、先にあなたを愛してくださった方に「あなたを愛しています」と具体的な形で伝える方法なのです。これこそ、時代や状況を超えて続く唯一の動機です。なぜならそれは、あなたの置かれた状況ではなく、あなたが受けた愛に根ざしているからです。

3. 従順の結果:いのち

「あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩みなさい。そうすれば、あなたがたは生き、幸いを得、あなたがたが所有する地で長く生きることができる」(申命記5:33)。神が命じられるのは、祝福したいと願っておられるからです。律法は鎖ではなく、道なのです。イスラエルの民にとって本当の霊的な戦いは、これからカナンで出会う諸国民を排除することではなく、そこに住み着いた後、偶像や誤った教えに囲まれた日常の中で、どう生きるかということでした。唯一可能な砦、それが妥協のない従順に歩むことだったのです。

4. 神が本当に求めておられる従順

得になるから従う、それは簡単です。強制されるから従う、それも簡単です。罰があるから従う、それも簡単です。しかし、そのような従順はすべて自分中心のものです。神が求めておられる従順とは、目に見える見返りが何もないとき、状況が悪化していくとき、従わなくても罰を受けないようなときにも保たれる従順です。そこにこそ、あなたが本当に神に信頼しているかどうかが現れるのです。

5. 第一の場:乏しさの中での従順

「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたその全過程を思い起こしなさい。それはあなたを苦しめ、試みて、あなたの心のうちにあるもの……を知るためであった……主はあなたを苦しめ、飢えさせ、そしてマナを食べさせられた……それは、人がパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8:2-3)。

神は意図的にご自分の民を欠乏の場所へと導かれました。乏しさは偶然ではありません。それは一つの学校なのです。乏しさは、あなたが本当に何に頼っているのかを浮かび上がらせます。イスラエルは必要が満たされなくなるとすぐに不平を言いました。彼らの本当の信頼が、神にではなくパンに置かれていたからです。あなたもまた、乏しさの中で自分自身を発見します。そしてしばしば、自分を満たすために神ではない何かに向かっていることに気づかされるのです。

6. イエス、乏しさの中で完全に従われた方

イエスは荒野で四十日間断食されました。空腹の極限で、サタンは言いました。「これらの石がパンになるように命じなさい」。イエスは拒まれました。不従順という道を通って自分の必要を満たすことをなさらなかったのです。イエスはまさにこの申命記のみことばを引用されました。「人はパンだけで生きるのではない」。イエスはご自身の体をもって、みことばへの忠実さが、即座に満たされることよりも価値があることを示されたのです。

7. あなたにとっての「不従順なパン」とは何でしょうか

あなたが乏しさを覚えるとき(物質的に、感情的に、霊的に)、あなたは本当は何に向かっているでしょうか。ある人にとってそれは、社会的な成功によって自分の価値を証明することです。別の人にとっては、孤独や空虚、人から愛されていないという感覚を、人間関係で埋めることです。また別の人にとっては、貧しくなった霊的生活を、活動や奉仕を増やすことで埋め合わせることです。あるいは、お金が乏しいときに、神に返すべきものを自分のために取っておくことです。あるいは、漠然とした欠乏感を、娯楽やテレビ、SNS、度を超した行為で紛らわせることです。これらはすべてパンです。それらは一晩だけあなたを満たしますが、翌日にはまた飢えさせるのです。

8. ある弱さの証し

説教者は自分自身の歩みを分かち合います。彼の妻は、山中湖での牧師会の間に倒れ、疲労困憊のため救急車で病院に運ばれました。それから三年、二人の幼い息子と共に、彼は自分が本当に頼りにしていたのが神ではなく、自分自身の力、努力、そして「いつも立派でいなければ」という誇りであったことに気づかされてきました。ある夜、彼は神の前で泣きました。「もう無理です」。そしてまさにその告白の中で、神はこう答えられました。「あなたがもう語れなくなったとき、わたしがあなたを通して語るのだ」。乏しさの中での従順は、神が祝福を望んでおられる方であるという信頼から始まります。それは神の前での正直さを通して深められていくのです。

9. 第二の場:豊かさの中での従順

「あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、牛や羊の群れが増え、銀や金が増し、あなたの持ち物がみな増し加わるとき、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れることのないように気をつけなさい……あなたの神、主を覚えていなさい。それらを得る力を与えてくださるのは主だからである」(申命記8:12-18)。

これは第一の場と正反対であり、さらにやっかいなものです。食事の前に祈り、満腹した後にも感謝のためにもう一度祈るクリスチャンがいると聞きます。とても聖書的なことです。しかし、二週間試してみてください。満腹が感謝をどれほど早く忘れさせるかが分かるはずです。

10. 罠のしくみ

まず繁栄がやって来ます。次に幻想が生まれます。「これは全部自分の力で築いたのだ。神は必要ない」。次に忘却です。神に解放される前、自分がどれほど奴隷だったかを忘れてしまいます。次に高慢です。「自分が持っているものは自分にふさわしいのだ」。そして、神が空っぽになったその心には、別のものが住み着きます。物質主義、社会的成功、お金、時には自分自身という偶像です。そして少しずつ、神との歩みはぬるくなっていきます。「まあ、最低限のことはやっているから、それで十分だろう」。いいえ、それでは十分ではありません。

11. 抱え込むのではなく、差し出す心

説教者は二つの話を紹介します。結婚し、幼い子どもがいて、良い仕事に就いている一人の青年が、長年憧れていた水曜夜の祈祷会にようやく参加するようになりました。彼の霊的な状態がどれほどその時間を必要としていたかを見ていた妻が、彼を後押ししたのです。もう一組は、ほとんど自由な時間のない夫婦です。彼らは土曜の夜、孤独な兄弟を家に招いて食事と映画をふるまい、日曜には自分たちのホームグループを迎え入れ、そして祝日の月曜には、まもなく海外へ戻る姉妹と一緒に富士山への日帰り旅行をしました。「疲れませんか」と尋ねられた彼らは、笑いながらこう答えました。「これが私たちの喜びなんです。若いころ、私たちも同じように迎え入れてもらいました。今度は私たちが与える番なんです」。これは、もっと頑張れという呼びかけではありません。豊かさの中で、まず受け取ったものを差し出す心への招きなのです。

12. 最後の約束

「もし私があなたがたに命じるこれらすべての命令を守り行い、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道を歩み、主にすがるなら、主はこれらすべての国民をあなたがたの前から追い払われる……あなたがたは自分よりも大きくて強い国々を占領するようになる」(申命記11:22-23)。これが、神が求めておられることの要約です。愛すること、歩むこと、すがること。そしてここに約束があります。あなたがそのように歩むとき、神はあなたにとって手に負えないほど大きな敵に対して、勝利を与えてくださるのです。あなたは時に失敗するでしょう。それでも構いません。大切なのは、倒れるたびに、誰のもとに立ち返るかということなのです。

覚えておきたいポイント

  • 従うことは、愛することです。それは神の愛に具体的に応える方法です。それ以外の動機は、いずれ尽きてしまいます。
  • 乏しさは、あなたの本当のよりどころを明らかにします。頼りにしていたものが欠けたとき、あなたを本当に支えていたものが何かが見えてきます。多くの場合、それは神ではありませんでした。
  • 人はパンだけで生きるのではありません。あなたを空っぽにしてしまう不従順なパンではなく、みことばに向かうことで乏しさを満たしましょう。
  • 豊かさは、あなたに忘れさせるとき、罠となります。繁栄、高慢、忘却、偶像。この仕組みは古くから存在し、今も変わらず働き続けています。
  • あなたの心は、あなたが差し出すものに現れます。時間、お金、家、受けた賜物をどう使うかが、あなたが神について本当はどう思っているかを物語ります。
  • 歩むこと、愛すること、すがること。申命記が示す三つの動詞です。その先には勝利の約束があります。あなたが強いからではなく、神が強い方だからです。

あなた自身への適用

この記事を閉じる前に、少し時間を取ってみてください。以下の問いは、急いで答えるためのものではなく、正直に向き合うためのものです。

  1. 今日、私が神に従う本当の動機は何でしょうか。恐れでしょうか、習慣でしょうか、それとも神から受けた愛でしょうか。
  2. 今、私が乏しさを感じている領域はどこでしょうか。物質面、感情面、人間関係、霊的な面のどれでしょうか。それを満たすために、私は本当は何に向かっているでしょうか。
  3. 私の人生の中に、はっきりとした「不従順なパン」はないでしょうか。神を迂回して自分を満たすやり方です。それを神の前で言い表す備えができているでしょうか。
  4. 満ち足りて、心穏やかなとき、私は神を覚えているでしょうか。それとも、乏しいときよりも早く神を忘れてしまっているでしょうか。
  5. 神が私に与えてくださったもの(時間、お金、家、賜物、人間関係)を、私は神のために用いているでしょうか。それとも、自分の満足のためだけに抱え込んでいるでしょうか。

引用された聖句

よくある質問

なぜ申命記はこれほどまでに従順を強調しているのですか。
モーセが語りかけているのは、これからすべてが与えられる地に入ろうとしている民だからです。建てられた家、植えられたぶどう畑、肥沃な土地。危険は前方にあるのではなく、内側にあります。本当の戦いはカナンを征服することではなく、そこにとどまり続けて忠実であることです。従順とは束縛ではなく、物事がうまくいっているときに神との関係を守るための道なのです。

神は本当に、私を試すために乏しさを送られるのですか。
申命記8章は、神がご自分の民の心のうちにあるものを明らかにするために、彼らを苦しめられたとはっきり述べています。それは意地悪さではなく、教育です。乏しさが常に神から直接送られるわけではありませんが、神はそれをお用いになります。あなたが本当は何に頼っていたかを示し、神だけで十分であることを改めて教えるために、それをお用いになるのです。

豊かさは悪いことなのですか。
いいえ。神は祝福してくださる方であり、あなたがその祝福を喜ぶことを望んでおられます。悪いのは豊かさそのものではなく、そこにしばしば伴う忘却です。「これは自分でやったのだから、もう神は必要ない」という思いです。豊かさは、乏しさと同じくらい、時にはそれ以上に厳しい試練です。なぜなら、豊かさは叫ばせるのではなく、眠らせてしまうからです。

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