はじめに
エジプトを出て約束の地に入るまでの間、イスラエルの民は荒野を旅します。それは単なる地理的な通過点ではなく、訓練の季節です。神はみことばによってご自分の民を立ち直らせるために時間をかけられます。それは、民が一歩一歩、神が約束された安息に至るまで、神に信頼することを学ぶためです。
民数記7章から10章は、この荒野の学び舎を描いています。そこには、部族の長たちがささげ物を持って来る場面、レビ人が聖別される場面、第二の過越が制定される場面、雲が宿営を導く場面、そして二本の銀のラッパが行進のリズムを刻む場面が記されています。それぞれの場面は、みことばがどのようにして、神に信頼できる民を形作っていくのかを示しています。
私たちも同じ季節を生きています。語り手は冒頭でこう思い起こさせます。救われた後、私たちは自分自身の荒野の旅に入るのです。道のりは長く、戦いは数多くありますが、行き着く先は安息です。神がイスラエルのために望まれたことを、神はあなたのためにも望んでおられます。それは、みことばによって立ち直り、神に信頼することを学ぶことです。
説教の構成
1. 人と比べず、忠実にささげる(民数記7章)
7章は、詩篇119篇に次いで聖書の中で二番目に長い章です。モーセが幕屋を聖別するとき、十二部族の長たちがささげ物を持って来る様子が描かれています。六台の車と十二頭の牛が持って来られ、それがゲルションの子ら(車二台、牛四頭)とメラリの子ら(車四台、牛八頭)に分けられます。ケハテの子らには何も与えられません。彼らは最も聖なる器具を自分の肩に担ぐからです。このことを、ダビデはのちにウザの死という出来事によって痛い思いをしながら学ぶことになります。
原則は明確です。それぞれが、自分に委ねられた奉仕に応じて受け取るということです。奉仕同士を比べることには意味がありません。目に見える奉仕も、隠れた奉仕も、同じように必要なのです。神が見ておられるのは、その務めの大きさではなく、それを成し遂げる人の忠実さです。
同じ原則が、部族の長たちのささげ物にも貫かれています。十二日間、一日一人ずつ、それぞれの部族がまったく同じものを持って来ます。誰一人として、目立とうとして動物を一頭余分に加える者はいません。神は「イスラエル全体」からの一括りのささげ物として受け取られるのではありません。神は一つひとつのささげ物を個人的に受け取り、わざわざそれを書き記してくださるのです。神のためになされたひとつひとつの行いを、たとえそれが御名によって与えられた一杯の水であっても、神は覚えていてくださいます。
89節では、モーセが主に語りかけるために入って行くと、二つのケルビムの間、贖いのふたの上から語られる声を聞きます。教訓はシンプルです。今日、神があなたに委ねられたことに忠実に応えるとき、神は次の段階のために語ってくださるのです。小さなことにおける忠実さが、その先へと続く扉を開くのです。
2. みことばによって照らされ、聖別される(民数記8章)
8章は燭台から始まります。アロンは七つのともしびを、燭台の前を照らすように置かなければなりません。窓のない幕屋の中で、このともしびだけが唯一の光です。もしそれが消えてしまえば、すべてが闇に包まれてしまいます。
詩篇119篇は、私たちのともしびが何であるかを二度語っています。「あなたのみことばは、私の足のともしび」(105節)、そして「あなたのみことばの戸が開くと、光が差し込み、無知な者に悟りを与えます」(130節)。荒野を歩む私たちにとって、唯一の光は神のみことばです。デボーション本も、イエスの生涯を描いた映画も、様々な教えも助けにはなりますが、みことばに代わるものは何もありません。聖書を読む量を減らすための近道を探すことは、神が備えてくださった光とは別の光をともすことにほかなりません。
この章の続きは、レビ人の聖別について描いています。水による清め、いけにえ、按手です。過越以来、神はイスラエルのすべての初子に対して権利を持っておられ、幕屋の奉仕のためにレビ人をその代わりとして取られます。イエス・キリストにあって、ペテロは私たちが「王である祭司」であると宣言し(ペテロ第一2:9)、パウロは私たちのからだはもはや自分自身のものではなく、代価を払って買い取られたものであると思い起こさせ(コリント第一6章)、イエスご自身もこう言われます。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び」(ヨハネ15:16)。神に用いられるということは、自己実現とはまったく関係がありません。それは、神の御手にすべてを委ねて、神のやり方で実を結ぶということなのです。
この章は年齢に関する規定で締めくくられます。二十五歳から三十歳までは見習いの期間、三十歳から五十歳までは実際の奉仕、五十歳を過ぎると重荷を担うことはなくなりますが、兄弟たちを助ける役割を担います。どの段階も無駄ではありません。もはや担ぐ力がない者も、なお執り成し、励まし、伝えることができます。それぞれの段階に、それぞれの奉仕があるのです。
3. 救い出されたことを覚え、信頼して歩む(民数記9章)
荒野での第二の過越は、エジプトを出てから一年後に祝われます。ある問題が生じます。ある人々が死体に触れて汚れてしまい、過越に参加することができないのです。彼らはモーセのもとにやって来ます。モーセの答えは、シンプルさゆえに美しいものです。「待ちなさい。あなたがたについて主が命じられることを聞いてこよう。」モーセは自分の判断で決めることをしません。
神は、参加できなかった人々のために、第二の月の十四日に第二の過越を定めることで応えられます。しかし、正当な理由もなく過越を怠る者は、その民から断ち切られます。過越は選択肢ではないのです。なぜでしょうか。荒野のどの段階に進む前にも、覚えておかなければならないことがあるからです。それは、神が私を救い出してくださったということです。私たちは、単なる努力や律法主義、あるいは罰への恐れによって従順に歩むのではありません。私たちを救ってくださった方のあわれみと真実さを思い起こすからこそ、従順に歩むのです。
続いて、雲についての記述が続きます。昼は雲が幕屋を覆い、夜は火のように見えます。雲が上ると、民は出発します。雲がとどまると、民は宿営を続けます。二日でも、一か月でも、一年でも、イスラエルは主の命令によってのみ進みます。それは急ぐことでも、動かなくなることでもありません。その時の経験に心が高ぶって突っ走ることでもなく、恐れのあまり縮こまることでもありません。荒野の掟とは、神が定められた時がどれほど長くても短くても、神の御声に従うことなのです。
4. 適切なときに神を呼び求める(民数記10章)
10章では、二本の銀のラッパが登場します。それは四つの場面で吹き鳴らされます。会衆を集めるとき、宿営を出発させるとき、戦いに出るとき、そして祭りやささげ物の日です。後の二つの場合について、本文はこう明記しています。「あなたがたの神、主の前に覚えられるためである。」
ラッパを吹き鳴らすことは、神に対してご自身の存在を思い出させるためではありません。それは、民の意識を神へと向けるためです。「主よ、あなたの番です。これはあなたの戦いであり、あなたの礼拝であり、あなたの導く出発です」と言うことなのです。民が神を呼び求めることを覚えているところには、秩序が確立します。それを忘れるところでは、それぞれが自分の感情のままに動き、混乱が生じます。神は混乱の神ではありません。意識を神へと向け直すとき、平安と秩序がそのあとに続くのです。
続いて、シナイの荒野からパランの荒野への出発の様子が、神が定められた順序に従って部族ごとに描かれます。そして心温まる一場面が続きます。モーセは、ミデヤン人である義兄弟ホバブに、イスラエルと共に歩むように招くのです。確かに雲が導きますが、ホバブは荒野をよく知っており、どこに宿営すればよいか、どこで水や薪を見つけられるかを知っています。神が導かれると同時に、それぞれの人が仕えるのです。一方が他方に取って代わることはありません。
この章は、契約の箱が出発するたび、また止まるたびに唱えられたモーセの祈りで締めくくられます。「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされますように」、そして「主よ、帰って来てください。イスラエルの幾万の民のもとへ」。一日を祈りで挟むこと、朝には十字架を思い起こし、夜には神にすべてを委ねること、それが契約の箱のリズムに合わせて歩むということなのです。
覚えておきたいポイント
- あなたの忠実さは、奉仕の大きさよりも重要です。神は務めに応じて割り当てられ、一つひとつのささげ物を個人的に覚えておられます。
- 神のみことばは、あなたの唯一のともしびです。本も、動画も、宗教的な習慣も、それに代わることはできません。
- 救い出されたことを覚えることが、従順を育みます。過越、私たちにとっては十字架が、歩みに先立つのです。
- 雲のリズムに合わせて歩んでください。神が出発せよと言われるときに出発し、とどまれと言われるときにとどまる。急ぐことも、固まることもありません。
- 神を呼び求めることが、秩序をもたらします。あなたの意識が神に向くところで、混乱は退いていきます。
自分自身への適用
- 神が今日あなたに委ねられた奉仕は何でしょうか。それを、他人のものと比べることなく、忠実に果たしていますか。
- みことばは、あなたの一週間の中で実際にどれほどの位置を占めていますか。それはあなたのともしびになっていますか。それとも、他の読み物がその場所を奪ってしまっていますか。
- 何かを求める前に、神があなたのためになしてくださったことを思い起こすために、定期的に十字架に立ち返っていますか。
- 雲を待たずに進もうとしたり、すでに雲が上っているのに動けずにいたりする決断は、どのようなものでしょうか。
- どの分野で「ラッパを吹き鳴らす」必要があるでしょうか。つまり、意識的に神へと注意を向け、秩序が戻ってくるようにする必要がある分野はどこですか。
引用された聖句
FAQ
なぜ部族の長たちは皆、まったく同じささげ物を持って来るのですか。
神の前では、どの部族も他の部族より上に立とうとしないからです。民数記7章の繰り返しのリストは、たとえ同じものであっても、神が一つひとつのささげ物を個人的に覚えておられること、そして贈り物の価値を、その量ではなく、それをささげる人の忠実さによって測っておられることを示しています。
「みことばによって立ち直る」とは、具体的に何を意味するのでしょうか。
それは、ともしびが幕屋を照らしていたように、聖書に私たちの決断を照らしてもらうことです。そのためには、聖書を定期的に読み、神が私たちに語りたいと願っておられることに耳を傾け、自分自身のやり方に頼るのではなく、御霊にそのみことばを私たちの反応や選択や人間関係の中に刻んでいただくことが必要です。
自分の人生のある具体的な選択について、雲がすでに上ったかどうかを、どうすれば知ることができますか。
本文は、目に見えるしるしを約束してはいません。それが招いているのは、神との交わりの中にとどまり続けること、迷ったときには祈ること、そして神のみことばや内なる平安が明確な方向を示したなら、すぐに従うことです。信頼は、神との日々の対話を重ねる中で育っていきます。
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