イエス・キリストが与えてくださる永遠のいのち

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これは、12創世記1章1節から始まり、現在ヨハネの福音書にまで進んできた聖書通読説教シリーズの一環として語られた、ヨハネの福音書3章1〜21節に関する説教です。前週の第2章に続き、この日曜日は第3章から始まります。この箇所は非常に密度が濃く、三度でも四度でも、それ以上でも語ることができるほどです。ここでは、ヨハネ3章1〜21節全体を一つの流れとして取り上げます。

はじめに

ニコデモは夜、イエス様のもとを訪れます。彼はパリサイ人の一人でした。パリサイ人とは、日々黙々と律法を細部に至るまで守り抜こうとし、自分の努力によって神様の前に正しくなれると信じていた人々です。彼はまた「ユダヤ人の指導者」でもありました(ヨハネ3:1)。地位があり、人々からの信頼があり、権威がありました。宗教的で、真面目で、尊敬される人物だったのです。

それにもかかわらず、彼が口を開いたのは、教え諭すためではありませんでした。イエス様にこう言うためでした。「ラビ、私たちは、あなたが神から遣わされた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているようなしるしを行うことは、だれにもできないからです。」それに対してイエス様は、前置きもなくこう答えられました。「まことに、まことに、あなたに言います。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。」

ここで取り上げるのは、この箇所です。テーマは永遠のいのちです。それは遠い抽象的な概念としてではなく、新しく生まれるすべての人にイエス・キリストが与えてくださるいのちとして語られます。

説教の流れ

1. ニコデモ、イエス様と向き合う宗教的な人物(ヨハネ3:1〜2)

ニコデモはパリサイ人でした。パリサイ人とは、自分自身の律法遵守によって、自分が正しい道を歩んでいることを証明しようとする宗教家たちです。彼は同時にユダヤ人の指導者でもありました。彼は福音書の中でもう一度、ヨハネの福音書20章で、アリマタヤのヨセフとともにイエス様の遺体を丁重に扱う場面に登場します。つまり彼は正面切った反対者ではありません。まず密かに、理解しようとした人物なのです。

彼がイエス様に語った言葉は、彼の口から出たにしては非常に大きな意味を持つものでした。イエス様が行われるしるしゆえに、イエス様が神から来られたことを公に認めているのです。しかしイエス様は、その賛辞で終わらせません。もっと深いところに目を向けられます。あなたを救うのは、私について知っていることではなく、新しく生まれることなのだ、と。

2. 「人は新しく生まれなければ…」(ヨハネ3:3〜8)

「神の国を見る」とは、神様が支配しておられる領域を見ることです。この御国は、あなたの人間関係、家庭、住んでいる地域、職場にまで広がりうるものです。しかしこの御国を見るためには、新しく生まれなければなりません。ニコデモは、それを文字通りに受け取ってこう言います。「人は老いていて、どうして生まれることができるでしょうか。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」

イエス様は、二つの誕生の違いを強調してお答えになります。「肉によって生まれた者は肉であり、御霊によって生まれた者は霊です」(6節)。イエス様は聖霊の働きを風にたとえられます。風がどこから来てどこへ行くのかはわからないが、その音は聞こえる。御霊によって生まれた者もみな、そのようなのです(8節)。

この新しい誕生こそが、クリスチャンである人とそうでない人とを分ける境界線です。あなたを救うのは、イエス様についての知的な理解ではありません。毎週の礼拝出席でもありません。教会での奉仕でもありません。これらのことは良いことであり、それぞれの場所を持っていますが、いのちと死を分ける境界線にはなりません。唯一の問いは、あなたは新しく生まれているか、ということです。

3. 新しい誕生:あなたの心の中にある聖霊(ヨハネ3:5〜8、ローマ5:5、8:15)

新しく生まれた人の中で聖霊がなさることは、神様の愛を絶えずその人の心に注ぎ続けることです。ローマ人への手紙5章5節にはこうあります。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」御霊は、あなたの知性だけでは到達できないレベルで、神様がどれほどあなたを愛しておられるかを教えてくださるのです。

「アバ、父よ」と叫ばせてくださるのは、この御霊です(ローマ8:15、ガラテヤ4:6)。もはや遠くから眺めるだけの遠い神様ではありません。子どものような信頼をもって語りかけることのできる父親なのです。だからこそ、この教会では祈りがしばしば「私たちの父よ」という言葉から始まります。それは形式的な決まり文句ではなく、その関係が本物だからです。父は迎え入れ、御子はとりなし、御霊はこの現実をあなたの内に生き生きとしたものにしてくださるのです。

4. 掲げられた蛇と十字架(ヨハネ3:14〜15、民数記21章)

「そして、モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、彼にあって永遠のいのちを持つためです」(14〜15節)。イエス様はここで民数記21章を引用しておられます。荒野で民がつぶやいたとき、神様は燃える蛇を送られ、死がその民を襲いました。神様の命令によって、モーセは青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に掲げました。蛇にかまれた者は、この掲げられた蛇を見上げれば生きることができたのです。

この対比は明白です。十字架の上で、イエス様は「上げられ」ました。イエス様は、罪人を殺すはずだったものを、その人に代わって負われたのです。コリント人への手紙第二5章21節にはこうあります。「神は、罪を知らない方を、私たちのために罪とされました。それは、私たちが、この方にあって神の義となるためです。」上げられたイエス様を見上げるとは、イエス様があなたの過ちを負ってくださったことを認め、あなたの死の代わりに、その方のいのちを受け取ることです。それが、信じるということです。

5. 「神は実に世を愛して…」(ヨハネ3:16〜17)

ここに、聖書の中で最もよく知られた聖句が登場します。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(16節)。すべての出発点は、あなたの宗教的な努力ではありません。神様の愛なのです。

「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためです」(17節)。御子は救うために来られました。さばきについては、この後の箇所で見るように、それはすでに今、あなたがこの光をどう受け止め、あるいは拒むかという中で起こっていることなのです。

6. 光と闇(ヨハネ3:18〜21)

「御子を信じる者はさばかれません。信じない者はすでにさばかれています。神のひとり子の名を信じなかったからです」(18節)。そしてイエス様はこう続けられます。人々は光よりも闇を愛した、なぜなら彼らの行いが悪かったからだ(19節)。

なぜ人々は正しいものから逃げるのでしょうか。なぜ真剣な人をあざけるのでしょうか。まるで真剣に受け止めることが「あまりに堅苦しい」ことであるかのように。それは、光のもとでは隠していたものが暴かれてしまうからです。人々が光から逃げるのは、光が悪いからではなく、最も重要な情報を知らないからです。その情報とは、赦しがあるということです。

心が闇を好む根本的な理由は、赦しの知らせを知らないからです。あなたが赦されうることを知るとき、あなたは光の中に出ていくことができます。「赦してください」と言うことができます。ひとたび赦されれば、その過ちはもはや重荷ではなくなり、あなたは光の中を歩むようになります。「しかし、真理を行う者は光のほうに来ます。自分の行いが神にあってなされたことが明らかにされるためです」(21節)。

7. それでもなお、もがいているとしたら?(ローマ7:24〜25)

最後に、牧会的な一言です。もしあなたが自分の人生を振り返り、望むようにはキリストに従えていないと感じるなら、自分の弱さに苦しんでいるなら、それは良い知らせです。それはあなたが新しく生まれた証拠だからです。新しく生まれていない人は、そのようなことで自分を責めたりしません。あなたの心が目覚め、罪があなたを悩ませるのは、あなたが新しく生まれているからこそなのです。

自分を責めないでください。それは、パウロがローマ人への手紙7章で描いていることです。「私は、なんとみじめな人間なのでしょう。だれが、この死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか」、そしてすぐにこう続きます。「私たちの主イエス・キリストによって、神に感謝します」(ローマ7:24〜25)。イエス様に従うとは、もはや何も求める必要のない完璧なクリスチャンになることではありません。毎日、十字架に立ち返り、赦しを受け取り、父の御前に立って、「大丈夫、私は愛されている」と言うことを学び続けることなのです。

覚えておきたいポイント

  • いのちと死を分ける境界線は、新しい誕生です。イエス様についての知識でも、礼拝への出席でも、奉仕でもありません。「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができません」(ヨハネ3:3)。
  • 新しく生まれるとは、聖霊を受け取ることです。神様の愛をあなたの心に注いでくださり(ローマ5:5)、「アバ、父よ」と叫ばせてくださるのは御霊です(ローマ8:15)。
  • 十字架は、掲げられたあの蛇です。イエス様はあなたの罪を負ってくださいました(コリント人への手紙第二5:21)。イエス様を見上げることが、生きることなのです。
  • ヨハネ3:16は、すべてが神様の愛から始まると告げています。救いを引き起こすのはあなたの努力ではなく、御子が与えられたことです。
  • 人が光から逃げるのは、赦しを知らないからです。あなたが赦されうることを知るとき、あなたは光の中に出ていくことができます。
  • あなたの内なる戦いは、いのちのしるしです。あなたの罪があなたを悩ませるなら、それはあなたの心が生きている証拠です。十字架に立ち返り、自分を責めないでください。

個人的な適用

  1. あなたは今日、自分が新しく生まれていると言えますか。それとも、知っていること、行っていること、献げているものに頼っていますか。この新しい誕生という問いについて、あなたは本当のところどうですか。
  2. 今週のどの時間に、あなたは形式的な言葉としてではなく、生き生きとした思いで神様を「父」と呼んでいますか。あなたの心の中に、まだそのような信頼をもって祈ることができない場所がありますか。
  3. さばかれることを恐れて、あなたが隠し続けている「闇」は何ですか。赦しがすでにあなたに手を差し伸べているのに。もしあなたが本当に、光はあなたを滅ぼすのではなく自由にするのだと信じられたなら、あなたはどうしますか。
  4. 繰り返し起こる罪でつまずくとき、あなたはどう反応していますか。自分を責めることによってですか、それとも十字架に立ち返ることによってですか。イエス様のもとに立ち返るその方法を、どのように変えたいと思いますか。
  5. あなたの周りに、「ニコデモ」のような人(宗教的で、真面目で、尊敬されている身近な人)はいますか。その人にとって新しい誕生が現実のものとなるようにと、あなたは祈ることができますか。

引用された聖句

よくある質問

ヨハネ3章の「新しく生まれる」とはどういう意味ですか。

新しく生まれるとは、自分の人生を改善したり、宗教的な努力を倍増させたりすることではありません。それは、あなたが持っていなかったいのちを受け取ることです。神様は御霊によって、あなたを神様との生きた関係の中に導き入れてくださいます。そこであなたは愛され、赦され、神様を「父」と呼ぶことができるのです。この新しい誕生がなければ、神の国を見ることも、そこに入ることもできません。

教会に行き、奉仕をすれば、それだけで天国に行けるのでしょうか。

いいえ。イエス様は、宗教的で、真面目で、尊敬されていたニコデモに対してさえ、そのことをはっきりと語られました。教会に行くこと、聖書を知っていること、奉仕をすること。これらのどれも、いのちと死を分ける境界線にはなりません。唯一の問いは、あなたは新しく生まれているか、イエス・キリストを信じることによって死からいのちへと移されているか、ということです。

なぜクリスチャンは罪と戦い続けるのでしょうか。

新しい誕生は、以前は気にならなかったものに目を開かせるからです。自分の罪が見えて、それに苦しんでいるなら、それはあなたが救われていない証拠ではなく、むしろ新しく生まれている証拠なのです。パウロ自身も、ローマ人への手紙7章でそれを経験しています。解決策は自分を責めることではなく、絶えずイエス様の十字架に立ち返ることです。

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