はじめに
少し想像してみてください。あなたが家を建てようとしているとします。まず最初にすることは、設計図を確認することですね。建築家に頼んで、基礎や壁、屋根の図面を描いてもらいます。この設計図はとても大切なものです。でも、設計図の中に住むことはできるでしょうか。雨が降ったとき、一枚の紙の下で雨宿りができるでしょうか。もちろんできません。設計図は家を予告し、家を定義しますが、設計図そのものは家ではないのです。
これから読むマタイの箇所で、イエス様はまさにこの違いについて語っておられます。設計図と現実の違い、宗教的な規則と本当のいのちの違いです。私たちは今、山上の説教の中心にいます。イエス様は今、何かを築いておられます。まず「これをしなさい」というリストを与えるのではありません。あなたを、イエス様との生きた結びつきから生まれる、根本的な義へと招いておられるのです。
2026年2月8日の日曜日、Efficient Churchでは、ヒュー・ウェッセル師が山上の説教のシリーズを続けました。八福の教えと、その結果(地の塩・世の光)を経て、今日はあなたを、律法学者やパリサイ人にまさる義へのイエス様の招きへと導きます。マタイ 5:17-20。
説教の構成
1. イエス様は律法を廃止するのではなく、成就される
「わたしが律法や預言者を廃止するために来た、と思ってはならない。廃止するためではなく、成就するために、わたしは来たのである」(マタイ 5:17)。イエス様の言葉を聞いて、ついに厳しい規則から解放される、と期待した人もいたかもしれません。しかしイエス様はすぐにそれを止めます。神のみことばは変わりません。すべてが実現するまで、一点一画たりとも消え去ることはないのです。
だとすれば、イエス様は単により厳しい方であって、さらに達成しにくい高い理想、より高い律法を与えに来られたのだろうか、と考えたくなるかもしれません。しかし、そうではありません。イエス様は、生き方を示すだけの方ではないのです。イエス様は、キリストとの結びつきによって、神様が今や私たちを別の目で見てくださる、その方ご自身なのです。
2. 「成就する」:すべてを変えるギリシャ語
「成就する」とはどういう意味でしょうか。マタイが用いたギリシャ語は、満たす、完成へと導く、十分な意味を与える、という意味を持っています。冒頭のたとえに戻りましょう。旧約聖書、律法、儀式、いけにえ、これらすべては建築家の設計図でした。それは真実であり、神から与えられたものでした。しかし、それはこれから来るものの姿だったのです。
イエス様が来られたとき、その方は設計図を破り捨てたりはしません。家を建てるのです。設計図が予告していたすべてのことを、現実にしてくださるのです。
- 律法は、罪の赦しのために傷のない、汚れのない小羊を求めていました。イエス様は神の小羊です。
- 律法は、神と出会うための神殿を求めていました。イエス様は、神の臨在を私たちの間にもたらすその神殿です。
- 律法は、完全な従順を求めていました。イエス様は、心を尽くし、たましいを尽くし、生涯を尽くして神を愛し、一度も失敗することのなかった、ただひとりの方です。
接ぎ木のたとえを考えてみましょう。ありふれたリンゴの木が、上質な枝に接ぎ木されるとします。それは単なる見せかけではありません。幹と根は、その上質な実の味わいや性質を、今や自分のものとして受け取るのです。同じように、キリストとの結びつきとは、あなたの古い心の上に宗教というニスを塗ることではありません。それは、あなたの中に新しい実を結ばせる接ぎ木なのです。
イエス様は、あなたが到達しやすいようにと、神の聖さの基準を下げるために来られたのではありません。その聖さを体現するために来られたのです。イエス様はあなたにこう言われます。「わたしこそ、聖書の歴史全体が放ってきた矢の的である」と。
3. パリサイ人にまさる義
ここでイエス様は、群衆のただ中に爆弾のような言葉を投げ込まれます。「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」(マタイ 5:20)。
今のあなたにとって、「パリサイ人」というのは悪口のような言葉かもしれません。私たちは偽善者のことを「パリサイ人のようだ」と言ったりします。でもイエス様の時代、パリサイ人は神の民にとって信仰の英雄でした。彼らは真剣で、聖書に精通し、規則を知り、それを実践していました。もし冬季オリンピックの霊性版があったなら、彼らはあらゆる種目で金メダルを取るオリンピック選手だったでしょう。一日三回の祈り、週二回の断食、聖書の暗唱、惜しみない献げ物。
そしてイエス様は、それを誰に語っておられるのでしょうか。漁師たちに、農夫たちに、ごく普通の人々にです。あなたはその落胆を想像できるでしょう。「主よ、それは不可能です。時間もありません、疲れています、自制心もありません、知識もありません。パリサイ人よりもまさるですって?」
4. パリサイ人の義:目に見えるパフォーマンス
イエス様が求めておられることを理解するには、まずパリサイ人の義がどのようなものだったかを理解する必要があります。それは、管理された、測定可能な義でした。「私は決められた歩数を歩いた、決められた祈りをした、十分の一献金を払った」というものです。外側から見える義。ひと言で言えば、パフォーマンスです。
ある機械が故障したとします。壊れた部品を交換する代わりに、間に合わせの修理をします。機械は一見また動くように見えます。しかし、それは危険です。修理が表面的なものだからです。この表面的な取り繕いは、本物によく似ています。見た目は機能しているようで、実は危険なほど不十分なのです。
実際、イエス様はマタイ23章で、恐ろしいたとえを用いています。パリサイ人は杯の外側はきよめるが、内側は汚れでいっぱいだ、というものです。パリサイ人の義とは、廃墟のような家の外壁だけを塗り直すことです。洗っていない体に香水をかけるようなものです。社会的には受け入れられ、宗教的には立派に見えます。しかし、心をご覧になる神様にとっては、不十分なのです。
5. イエス様の義:量ではなく質
では、どうすればあなたの義が彼らの義にまさることができるのでしょうか。イエス様はあなたにもっと多くすることを求めておられるのではありません。本物であることを求めておられるのです。これは、まったく別の性質の義への招きなのです。
続く節で、イエス様はこれを六回にわたって示されます。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人々はこう言われた……しかし、わたしはあなたがたに言います」。二つの例を見てみましょう。
- 殺人。パリサイ人の義はこう言います。「今週、誰のお腹にもナイフを突き刺していないから、私は正しい」。基準は、目に見える行為に置かれています。しかしイエス様はこう問われます。「あなたは兄弟に対して憎しみを抱いていないか。恨みや、苦々しい思いを持っていないか。心の中でひそかに、相手を愚か者呼ばわりしていないか」。イエス様は、その根っこをご覧になっているのです。
- 姦淫。パリサイ人はこう言うでしょう。「私は隣人の妻と寝たことはない、だから問題ない」。しかしイエス様はこう問われます。「あなたは自分の目で何を見てきたか。あなたの想像の中で、心の秘密の場所で、何を育ててきたか」。
律法学者やパリサイ人の義は、行動を管理するための方法でした。御国の義は、あなたの内にある最も深い願望そのものを変えていきます。人間の義は、目に見える行為で止まります。神の義は、心の奥底にまで届くのです。
もう一つのたとえです。出血を隠すための包帯を考えてみてください。包帯だけでは、感染を防ぐことはできません。傷口を洗い、手当てをし、その根本から癒し、そのうえで初めて保護する必要があります。イエス様は包帯ではありません。イエス様は、症状を隠すのではなく、根っこに届こうとしておられるのです。
6. 二つの間違った応答:律法主義と反律法主義
この要求を前にして、あなたは戸惑いを感じるかもしれません。こう言いたくなるでしょう。「もしそうだとしたら、いったい誰が救われるのでしょうか。私は自分の手や行動を制御できます、無理にでも微笑むこともできます。でも、自分の心の動きを制御することはできません。妬みや怒りを抑えることも、汚れた思いを自分の意志の力だけで抑え込むこともできません」。
まさにそこへ、イエス様はあなたを導こうとしておられます。人類は歴史を通して、この事実に対して二つの誤った応答をしてきました。
- 律法主義。自分自身の力で頑張ろうとするものです。歯を食いしばり、仮面をかぶり、自分にも他人にも厳しくなっていきます。最終的には、パリサイ人のように、演技をするようになります。
- 反律法主義。あらゆる規則を拒否するものです。「不可能なのだから、もういい。神は愛だから、赦してくださるだろう。何もする必要はない」。恵みが、変わらないための言い訳になってしまうのです。
この二つの応答はどちらも行き詰まりです。旧約聖書は神の聖さを私たちに示してくれますが、それに到達する力までは与えてくれません。律法は鏡のようなものです。鏡はあなたの顔が汚れていること、髪が乱れていることを見せてくれますが、あなた自身を洗ったり、髪を整えたりすることはできません。一方、聖霊は、あなたを本当にきよめてくださる水のような方です。
7. 新しい心の約束
イエス様は、ただ難しい命令を与えるためだけに来られたのではありません。新しい契約を開くために来られたのです。預言者エゼキエルによる約束を思い出してください。「わたしはあなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたの肉から石の心を除き、肉の心を与える」(エゼキエル 36:26)。
あなたが御国に入れるかどうかは、あなたが生み出すものにではなく、キリストとその成し遂げてくださった御業にかかっています。心の貧しさと神の義への飢え渇きをあなたに与えてくださったのは、聖霊の働きです。あなたの聖化のうちに実を結ばせてくださるのも、聖霊の働きです。パリサイ人にまさるこの義は、自分で作り出す義ではなく、受け取る義なのです。
あなたがキリストのうちにあるとき、あなたの好み、願い、反応が変わり始めます。信仰生活の長い人たちは、時が経つにつれてそれを実感しています。自分の願いがもはや以前と同じではないことに気づくのです。それは彼らが選び取ったことではなく、聖霊の働きです。最初は外からの強制であったものが、少しずつ内側からのいのちへと変わっていきます。あなたはもはや「赦さなければならない」から赦すのではなく、あなたの内におられるキリストのいのちが、あなたを恵みへと押し出してくださるから赦すのです。あなたはもはや罰を恐れて汚れから逃げるのではなく、あなたの新しい心が、きよさそのものを愛し始めるから、汚れから離れるのです。
まとめのポイント
- イエス様は律法を廃止するのではなく、成就されます。イエス様こそ、律法という設計図が指し示していた本物の家です。
- 御国の義は、量の問題(もっと多くする)ではなく、質の問題(心の奥まで本物であること)です。
- 律法を前にした二つの行き詰まりは、律法主義(歯を食いしばる)と反律法主義(あらゆる規則を拒否する)です。
- 律法は汚れを映し出す鏡です。きよめることができるのは聖霊おひとりだけです。
- あなたを御国に入れる義は、キリストにあって受け取る義であり、あなた自身の努力で作り出す義ではありません。
個人への適用
- 私は自分の信仰を、目に見えるパフォーマンスとして生きているだろうか、それとも内側の接ぎ木として生きているだろうか。
- 受け入れられる行動の陰に隠れている、どの根っこを、今週、聖霊は私の心の中で扱おうとしておられるだろうか。
- 私は律法主義(歯を食いしばる)と反律法主義(神の聖さを軽んじる)のどちらに傾きやすいだろうか。
- 私はクリスチャンらしく見えることを求めているだろうか、それともキリストによって変えられることを求めているだろうか。
- 主の食卓に近づくとき、私は正しくなるための力を求めているのだろうか、それとも、すでにキリストと結ばれていることを喜び祝っているのだろうか。
引用された聖句
- マタイ 5:17-20 — イエス様、律法、そして御国の義
- マタイ 5:17 — 廃止するためではなく、成就するために
- マタイ 5:20 — パリサイ人にまさる義
- マタイ 23:25-26 — 杯の外側と内側
- エゼキエル 36:26 — 新しい心と新しい霊
よくある質問
イエス様が律法を「成就する」と言われたのは、どういう意味ですか。
「成就する」と訳されるギリシャ語の動詞は、満たす、完成へと導く、十分な意味を与える、という意味を持っています。イエス様は律法を取り除くのでも、弱めるのでもありません。律法と預言者が予告していたことを、現実にしてくださるのです。律法は建築家の設計図でした。イエス様がその家を建てられるのです。傷のない小羊、神殿、完全な従順。そのすべてが、イエス様のうちに具体的な形を取ります。
パリサイ人がすでに「霊的なアスリート」だったとしたら、どうすれば私の義が彼らの義にまさることができるのでしょうか。
イエス様は、彼らの実績にさらに実績を積み重ねるようにと求めておられるのではありません。土俵そのものを完全に変えてしまわれるのです。彼らの義は、外側の行動を目に見える形で管理するものでした。イエス様が求める義は、願望と心の内側の変革です。それは自分で作り出すものではなく、キリストとの結びつきによって受け取るものです。「もっと多く」ではなく、「あり方そのものが違う」のです。
律法主義と、霊的な放縦(反律法主義)の両方をどう避ければよいでしょうか。
この二つの極端は、同じ間違いを共有しています。律法を、自分自身の力で背負わなければならないもの(律法主義)として扱うか、もはや意味を持たないもの(反律法主義)として扱うか、という違いだけです。答えは別のところにあります。イエス様と共に、自分の義が不十分であることを認め、聖霊に新しい心を与えていただき、キリストに自分のうちに生きていただくことです。そうすれば、従順はもはや強制ではなく、キリストに接ぎ木されたいのちが自然に結ぶ実となるのです。
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