ローマ人への手紙2章:神はすべての人を招かれる、その慈愛を軽んじてはいけません

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はじめに

「今朝のテーマは、神がどのようにすべての人を招かれるか、です。そう、文字どおりすべての人です。」ロンドンのメトロポリタン・タバナクルで説教するピーター・マスターズ博士は、ある確信をもってローマ人への手紙2章を語り始めます。これまでに生きたすべての男女は、何らかの形で、いつかどこかで、全能の神の訪れを受けている、という確信です。

ローマ人への手紙2章3節です。「ああ、このような事を行う者を批判しながら、自分で同じ事を行っている人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。」この節を軸に、マスターズ博士は1節から11節までを順にたどります。人が軽んじる神の慈愛、知らないうちに積み上げている怒り、そして求める者に差し出されている永遠のいのちです。

このメッセージは、あなた自身に向けられています。これまで一度も神に応えたことがないなら、神をあざ笑ったり、何度も退けたりして、神という考えそのものが不合理に思えるなら、説教者ははっきりと告げます。この招きはあなたに向けられていましたし、今もなおあなたに向けられています。

メッセージの流れ

1. すべての人に向けられた招き

  • ヨハネによる福音書1章9節は、キリストについて、世に来て「すべての人を照す」光だと語ります。ある意味で、神の招きはすべての人に及んでいます。
  • 幼いころから異教の中で育った遠くの人々は、何を知り、何を聞いているのだろうか、と思うことがあります。それでも聖書は、まことの唯一の神からの招きが、生きているすべての魂に届くと教えています。
  • パウロは一人ひとりを強調します。1節では「人よ」、3節でもう一度「人よ」。6節では、神は「おのおののわざにしたがって報いる」と言います。
  • 神は何百万もの人々に触れておられる、とぼんやり考えてしまいがちです。説教者は大切な点に引き戻します。「何百万人の中の、あなた。一人の個人としてのあなた」です。

2. さばきをのがれられると思いますか

  • この章は、はじめ、モーセの律法を知らない異邦人を見下すユダヤ人に向けられているように見えます。パウロは言います。自分は上だと思っているあなたがたも、同じことをしている。目を覚ましなさい。けれども、この言葉は私たちみんなに当てはまります。
  • 「のがれる」と訳されたギリシア語は、逃げ出すという意味です。動詞の時制は、あなたがすでにさばきの下にあることを示しています。
  • 説教者が描く情景はこうです。あなたは逮捕され、手錠をかけられ、罪状が読み上げられました。被告席に立ち、出入り口には看守がいます。柵を飛び越えて逃げるつもりでしょうか。「ばかげています。もう終わりです。追い詰められているのです。」
  • 決算の日に逃げられると信じるほど愚かな人はいません。それなのに、神のこと、人生の意味、死後のことを考えるたびに退け(「そんなことは忘れよう。あとで。あとで。」)、逃げられるかのように生きています。
  • 使徒のこの論法は厳しいものですが、ピーター・マスターズによれば、それは「慈しみに満ちた論法」です。

3. 神の慈愛の富

  • ローマ人への手紙2章4節:「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その慈愛と寛容と忍耐との富を軽んじるのか。」「軽んじる」と訳されたギリシア語は、低く見る、小さく扱う、無きに等しいと見なす、という意味です。
  • 「富」は、豊かさ、満ち満ちていることを表します。神のあわれみは、これ以上ないほど大きく、限りなく、測りきれません。
  • 神はあなたにどのように良くしてくださったでしょうか。丁寧にあなたを造られました。誰にも説明できない、最も測りがたいものの一つである良心を与えられました。愛する力、幸せになる力、喜びを知る力、そして悲しみを知る力も与えられました。
  • 記憶力、数字や商売の才能、芸術家の気質も与えてくださいました。「あなただけの、才能と賜物の組み合わせ」です。
  • 寛容と忍耐は同じことではありません。寛容は、背きの大きさを測ります。あなたの敵意、無関心、神を無視するという侮辱です。忍耐は、その長さを測ります。20年、30年、50年、70年とめぐみを受けながら、なお感謝も愛も祈りもなく、神を求めることもありません。

4. 神があなたに送る使者たち

  • 神の慈愛は人を通しても届きます。両親かもしれませんし、かつて「神と共に歩んでいますか。救い主を知っていますか」と尋ねてくれた友人かもしれません。その人は神を知った経緯を話してくれましたが、あなたは退けました。
  • ピーター・マスターズは、神について何も知らないように見えた、かたくなな無神論者を思い出します。会話の途中で、その人は、ラジオで誰かが悔い改めて主に出会った話をしているのを聞いたことがある、と口にしました。そして「ほら、そういうたぐいの話ですよ」と付け加えました。説教者は驚きました。その人は、そうした話をすでに何度も聞いていたのです。
  • 最も心を閉ざしているように見える人にも、「神との出会い、心の動き、招きが、驚くほど多くあるのです」。
  • キリストはタルソのサウロに言われました。「とげのあるむちをければ、傷を負うだけである」(使徒行伝26章14節)。神は、サウロが回心するまでに、その良心を何度も刺しておられました。
  • 神の慈愛とは、あなたを支え、生かし続け、重い病気にかかるたびに回復させてくださることでもあります。

5. 神の慈愛はあなたを悔い改めに導く

  • あなたが知らないこと、考えに入れていなかったのは、「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」ということです。慈愛はあなたを導き、引き寄せます。
  • 説教者はそれを、ごく簡単な行いにたとえます。初めての登校日に不安そうな幼い子どもの手を取ること、足元がおぼつかない人や目の見えない人の手を取って導くことです。「それは優しい行いです。」
  • あなたの側には、敵意と不信仰と無関心があります。神の側には、あなたを引き寄せるこの優しさがあります。
  • 悔い改めと訳されたギリシア語は、考えを変えることを意味します。神に対する態度が根本から変わることです。心を溶かし、自分の敵意と誤った道に気づかせてくださるのは、神の御霊です。

6. 知らないうちに怒りを積み上げる

  • ローマ人への手紙2章5節は、あなたの頑なさと悔い改めない心のゆえに、神の正しいさばきが現れる怒りの日に、自分のために神の怒りを積んでいる、と語ります。頑なさとは、たこができたように固くなった心のことです。悔い改めないとは、考えを変えることを拒むという意味です。
  • 「あなたは、自分がそうしていることに気づいていません。」神を無視するたびに、あなたは積み上げています。ただし宝ではなく、挑発をです。
  • ピーター・マスターズのたとえ話は、体罰があった時代の学校生活からのものです。退職間近の年配の教師は穏やかで親切で、罰の記録簿を取りに行かせたことが一度もありませんでした。ところが、ある生徒が無礼な質問で執拗に教師を挑発し、同級生たちがやめるように言うほどでした。
  • 長い沈黙のあと、教師は静かに言いました。「罰の記録簿を取ってきなさい。」生徒は謝ろうとしましたが、命令は繰り返されました。生徒が席を外している間に、別の教師、大柄な運動部のコーチがむちを持ってやって来ました。説教者は、自分は体罰に賛成しているのではなく、これはたとえ話だと断っています。
  • 「私たちは全能の神に対して、これと同じことをしているのではないでしょうか。」度を越すときが来ます。そして「あなたの最後の息は、記録簿を取りに行きなさいという呼びかけになるのです」。そのときはもう手遅れです。
  • 8節では、真理に従わない者は「不義に従う」とあります。キリストなしでは、自分は自由だと思っていても、実際は罪と不信仰に従順に仕える僕であり、兵士のように直立不動の姿勢でいるのです。

7. 栄光とほまれと不朽のものを求める

  • ローマ人への手紙2章7節は、「忍耐をもって善を行い、光栄とほまれと不朽のものとを求める者」について語ります。この節は、善い行いによって神の恵みを得ることを言っているのではありません。手紙全体が、キリストが苦しみ、カルバリで死なれ、信じるすべての罪人の罰を負われたこと、それが行いではなく信仰によることを教えています。
  • ここで善を行うとは、永遠のいのちを求めることです。「神が求めておられるのは、ただそれだけです。私には永遠のいのちが必要だ、と言うようになることです。」
  • ジョン・バニヤンの『天路歴程』の主人公クリスチャンが、突然、心に迫られたのと同じです。「私は天の都に着かなければならない。」
  • 栄光とは、純潔、すべてのことの理解、そして神と救い主との完全な交わりです。ほまれとは、神の子、神の息子または娘、天の御国の市民であることです。不朽のものとは、決して死なず、決して朽ちることがないことです。そのいくらかを、今日すでに味わうことができます。
  • 11節:「神は人をわけへだてなさらないからである。」学識があっても素朴でも、富んでいても貧しくても、資格があってもなくても、関係ありません。大切なのは、反抗をやめて「主よ、私をお赦しください。私をお救いください。私を造り変えてください。私はイエス・キリストに信頼します」と言うことです。
  • ローマ人への手紙は教理の書だと言われます。説教者は、福音は使徒が語り始めるか始めないかのうちに、すでにそこにある、と答えます。

覚えておきたいポイント

  • 神は一人ひとりを個人として招かれます。最も心を閉ざしているように見える人も、多くの招きを受けてきました。
  • 神についての思いをすべて退けることは、さばきの日に逃げられると信じるのと同じで、それは不可能です。
  • 神の慈愛、寛容、忍耐は計り知れません。神はあなたの背きの大きさも長さも耐えてこられました。
  • 拒むたびに積み上がるのは、宝ではなく、神への挑発です。いつか、手遅れになる日が来ます。
  • 神は、行いではなく信仰によって、キリストのもとに来て永遠のいのちを求めることを望んでおられます。

自分への問いかけ

  1. 自分の人生を振り返って、神からのどんな招きに気づきますか。ある人、聞いた言葉、回復した病気などです。
  2. 神のこと、人生の意味、死後のことについて、あとまわしにしがちな思いは何ですか。
  3. 自分の人生、良心、才能を見つめて、神の慈愛はあなたにどのように現れていますか。
  4. 自分は自由だと思っていますか。思い、気分、選択の中で、実際には何に従っていますか。
  5. 神に「私をお赦しください、お救いください、造り変えてください」と言ったことはありますか。まだなら、今日、何がそれを妨げていますか。

引用された聖句

よくある質問

神はすべての人を招かれますか。

はい、ピーター・マスターズによればそうです。ヨハネによる福音書1章9節は、キリストがすべての人を照す光だと語り、ローマ人への手紙2章は一人ひとりに向けて「人よ」と呼びかけています。異教の中で育った人も、無神論者を自称する人も、すべての男女が何らかの形で神の訪れを受けています。

ローマ人への手紙2章4節の「神の慈愛の富を軽んじる」とはどういう意味ですか。

このギリシア語は、低く見る、小さく扱う、無きに等しいと見なす、という意味です。神の慈愛を軽んじるとは、神があなたのためにしてくださったことをすべて無視することです。神はあなたを造り、良心と才能を与え、何年にもわたってあなたの敵意に耐え、使者たちを送ってくださいました。

ローマ人への手紙2章7節は、善い行いによる救いを教えていますか。

いいえ。ピーター・マスターズは、手紙全体が行いではなくキリストへの信仰による救いを教えていると指摘します。この節で忍耐をもって善を行うとは、栄光とほまれと不朽のものを求めること、つまり永遠のいのちを望み、それを受けるためにキリストのもとに来ることです。

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