はじめに
「わたしは神の中で足が立たなくなるほどになりたい。」説教者は、「Living in the River(川の中で生きる)」シリーズのこのメッセージをこう切り出します。これまでの週で、教会はエゼキエルの川を見ました。そこでは、ついには足が底に届かなくなります。続いて、神が荒れ野に湧き出させる流れを見ました。今回の主役はヨシュアとヨルダン川の横断です。
イスラエルは、エジプトでの奴隷生活から、荒れ野での四十年にわたるサバイバルへと進みました。ヨルダン川のほとりで、神は彼らを、生き延びる民から、約束の中に根を下ろす民へと移そうとしておられます。もはや何かから抜け出すだけではなく、神が備えてくださったものの中に入っていくのです。
ヨシュア記3章のメッセージは、一つのイメージに集約されます。水が止まるためには、祭司たちの足が水に触れなければなりませんでした。自分を聖別し、神の臨在から目を離さず、そして一歩を踏み出す。突破口は従順のあとに来ます。
メッセージの流れ
1. 慣れ親しんだものの心地よさと、未知への跳躍
- 説教者は、隣の人に尋ねる質問から始めます。これまでにした中で、いちばん大胆なことは何ですか。会衆は答えます。結婚したこと、スカイダイビング、転職。どの決断にも勇気が要ります。
- 私たちは慣れ親しんだものが好きです。同じレストラン、メニューの同じ料理、毎週教会で座る同じ席。慣れ親しんだものは、周りをコントロールしているという錯覚を与えてくれます。
- しかし、人生で最も印象に残る瞬間は、思い切って飛び込み、コントロールを手放したときであることが多いのです。
- 十代のころ、家族とスイスにいたとき、彼はタンデムでパラグライダーをしました。インストラクターはしばらく操縦を任せてくれましたが、すぐ近くの崖を指さしました。彼はあわてて操縦を返しました。
- パラグライダーでは、上昇気流を操るのではなく、それに身をゆだねます。「神の御霊の中での生活は、しばしばそれに似ています。」神のご計画に向かって進むには、未知の中に飛び込まなければなりません。
2. ヨシュア記3章:「あなたがたは、まだこの道を通ったことがない」
- ヨシュア記の3章と4章は、この大きな転換の瞬間を語っています。説教者は、全文を読むよう勧めます。「五分で読めます。ドラマを何時間も見ているのに、時間がないなんて言わないでください。」
- ヨシュアは全イスラエルとともにシティムを出発し、ヨルダン川に向かいます(ヨシュア記3:1)。民は、祭司たちがかつぐ契約の箱に従わなければなりません。「あなたがたは、まだこの道を通ったことがないから」です(ヨシュア記3:4)。
- イスラエルは、エジプトに対する神の力を見て、山のふもとで神に出会いました。しかし、不従順と信仰の欠如のために、民は四十年間、ぐるぐると回り続けました。
- 「私たちは神のことばを真に受けようとしないので、ぐるぐる回って、同じ過ちを繰り返すのです。」
- 新しい季節に入るには、新しい姿勢が必要です。
3. 霊感、調査、指示、そして行動へ
- 霊感。ヨシュア記1章は「冷蔵庫のマグネット」の章です。強くあれ、雄々しくあれ、昼も夜も律法を思い巡らせ(ヨシュア記1:8-9)。しかし、この章は「わたしのしもべモーセは死んだ。いま、立ちなさい」で始まります(ヨシュア記1:2)。モーセの後を継ぐことは、決して簡単ではありませんでした。
- あらゆる転換期には、何かが終わって、新しい何かが始まる必要があります。モーセとともにおられた神が、ヨシュアとともにおられます。ジョン・ウェスレー、エヴァン・ロバーツ、そしてリバイバルの男女とともにおられたのと同じ神が、今日あなたの内に生きておられます。「彼らの時代は過ぎた。いま、立ち上がりなさい。」
- 調査。ヨシュアは斥候を送り込みます。彼は最初のときを思い出します。十二人は素晴らしい土地を見ましたが、そのうち十人は巨人たちしか目に入らず、自分たちが「いなごのよう」に思えたのです(民数記13:33)。障害をどう見るかが、自分自身をどう見るかを変えます。
- カレブとヨシュアの二人は、巨人たちより大きな神に目を留めていました。「歴史は、できないと言った人たちの名前を覚えてはいません。立ち上がって、私たちの神にはおできになる、と言った人たちの名前を覚えているのです。」
- 指示。ヨシュア記3章は手順を示します。神にささげた心、神の臨在に注がれた目です。
- しかし、霊感、調査、指示だけでは足りません。運命の分かれ道で、彼らは足を水に入れなければなりません。
4. 自分を聖別する:もう一度、神のために取り分けられる
- 「あなたがたは身を清めなさい。あす主があなたがたのうちに不思議なわざを行われるからである」(ヨシュア記3:5)。ヘブライ語のこの語は、特定の務めのために取り分けられることを意味します。「聖なる」という語、取り分けられた安息日、聖所、そして唯一のまことの神を世に現すために取り分けられたイスラエルも、同じ語根から来ています。
- 説教者は、この季節に向けた聖さへの呼びかけを聞いています。「もう一度わたしに身をゆだね、初めの愛に立ち返りませんか。」(黙示録2:4)
- イエスは私たちの救い主であるだけでなく、主です。私たちは代価を払って買い取られました(1コリント6:20)。私たちの人生はもう自分のものではありません。「それが主の心を痛めるなら、私の人生にはいりません。主を十字架につけたものを楽しんで、何になるでしょう。」
- 神は私たちをありのままに愛しておられますが、そのままにしておくには愛しすぎておられます。イスラエルを奴隷の考え方のままにしておくには、愛しすぎておられました。
- 悔い改めるとは、立ち返ることです。本来の目的に立ち返り、家に帰ることです。ユダヤの伝統では、エルルの月は神に立ち返る時で、王が宮殿を出て、野にいる民のもとへ会いに来ると言われます。ここには雅歌のことばが結びつけられています。「わたしは愛する者のもの、愛する者はわたしのもの」(雅歌6:3)。
- 続いてラッパの祭りが来ます。ショファル(角笛)は、戦いへの召集と目覚めの合図として鳴り響きます。「無気力を振り払え。立ち上がる時だ。」目覚ましのスヌーズボタンをいつまでも押し続けてはいられません。そのあと、贖罪の日が、私たちが小羊の血によって贖われたことを思い出させます。
- 「同じ山のまわりを回るのには疲れました。あなたの約束の中に入りたいのです。」民の内側の備えができたとき、神は外側で働かれます。
5. ヨルダン川、手放しの場所
- 聖書では、川は敷居、つまり死から命への通り道を表します。ヨルダンという名は、下るという意味を思わせます。この川はヘルモン山から死海へと下っていきます。同じ語の仲間からは、へりくだる、低くされるという意味も出てきます。
- 神は、神なしでは不可能だと私たちに認めさせてくださいます。多くのバプテスマの証しがそう語っています。「降参するほかに道がなかったのです。」
- 信仰など杖にすぎない、という声を耳にします。「少なくとも、私たちの杖は折れません。」周りでは、人々がアルコール、麻薬、性、娯楽、お金、権力に寄りかかっていますが、そうした杖は折れてしまいます。
- ヨルダン川で、イスラエルは荒れ野の考え方、過去、そして慣れ親しんだものの心地よさを手放します。
- この川は転換の場所です。イスラエルはそこで約束の中に入り、エリシャはエリヤの後を継ぎ(列王記下2章)、ずっとのち、イエスがそこでバプテスマを受けられます。このときは天が開き、父が言われます。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3:17)。
- 聖書では、水はしばしば混沌を象徴します。そもそも初めから、神は混沌の中に秩序をもたらしておられます。
6. 神は同じことを、同じやり方で二度はされない
- ヨシュアはおそらく、紅海をもう一度体験することを望んだでしょう。モーセが杖を上げると水が分かれ、かわいた地を渡っていく(出エジプト記14章)。神は答えます。「いや、ヨシュア。今回は、足をぬらすのだ。」
- 神は変わりませんが、そのやり方は変わります。「あなたはもう赤ん坊ではない。もうスプーンで食べさせたくはない。わたしが欲しいのは赤ん坊ではなく、わたしの王国を建てるパートナーだ。」
- ヨルダン川は、刈り入れの時期には岸いっぱいにあふれます(ヨシュア記3:15)。水かさが低くなる二か月後まで待てばよいのではないでしょうか。川岸に座って、静かに待っていればいいのです。
- 神はまさにこの時を選ばれます。「わたしは、あなたが自分の力に頼ることを望まない。わたしだけに信頼してほしいのだ。」
7. 突破口は従順のあとに来る
- 箱をかつぐ祭司たちの足が水に触れるやいなや、上流から流れ下る水は止まり、はるか遠く、アダムの町のあたりで、うずたかく積み上がりました(ヨシュア記3:15-16)。
- 神の臨在が私たちの先に立つとき、神は道のないところに道を開かれます。不可能が可能になり、平凡が非凡になります。つまずきの石が、運命へ向かう踏み石になります。
- 私たちはよくこう言います。「主よ、まず私を祝福してください。そうしたら、気前よくなります。」あるいは、「私たちの集会で力を現してください。そうしたら福音を伝えに行きます。」神は答えます。「行って、従いなさい。そうすれば、わたしのしるしと不思議があなたに伴う。」神はいつも従順に応えてくださり、伴う奇跡によってみことばを確かなものとされます(マルコ16:20)。
- アカシヤ材に金をかぶせた契約の箱は、説教者にとって、神性をまとった人間性の姿です。イエスは、私たちの混沌、私たちの壁、私たちの死の中に入ってくださいました。
- 説教者は英語の言葉遊びをします。イエスは、私たちが直面するすべてに十字架(cross)を置き、私たちが渡って(cross over)いけるようにしてくださいました。イエスは罪、恥、あらゆる偽り、あらゆる重荷、あらゆる依存を担われました。私たちがもう荒れ野でぐるぐる回らなくてよいように。
8. 川は終わりではなく、始まり
- モーセの油注ぎは、イスラエルを奴隷の身分から連れ出すことでした。ヨシュアの油注ぎは、そのヘブライ語の名がイエスに近いのですが、彼らを満たしの中へ導き入れることです。
- 「私はクリスチャン生活を、周縁で、敷居の上で送りたくありません。イエスが私のために勝ち取ってくださったすべての満たしの中に入りたいのです。」
- 最後の呼びかけは三種類の人に向けられています。もう一度神に身をささげ直す必要がある人、イエスを主、救い主として人生をゆだねたことが一度もない人、そして冷えてしまい、初めの愛に戻る必要がある人です。
- これは私たちの力によるのではありません。私たちを聖なる者とするのは聖なる御霊です。神は、教会がその栄光を映し出すよう、聖さへと招いておられます。
- 「勇気を出しなさい。水の中に進みなさい。足をぬらしなさい。」
要点
- 慣れ親しんだものはコントロールの錯覚を与えますが、神はしばしば、子どもたちを「まだ通ったことのない」道へと導かれます。
- 霊感、調査、指示は役に立ちますが、それだけでは足りません。一歩を踏み出さなければなりません。
- 自分を聖別するとは、神のために自分を取り分け、神を救い主としてだけでなく主として認めることです。
- ヨルダン川は、へりくだりと手放しの場所です。神は、神なしでは不可能だと私たちに認めさせてくださいます。
- 突破口は従順のあとに来ます。イエスは、私たちの行く手をふさいでいたものに十字架を置き、私たちが渡っていけるようにしてくださいました。
個人への適用
- あなたの人生のどこで、同じ山のまわりをぐるぐる回っているように感じますか。
- どの分野で、コントロールを保つために慣れ親しんだものにしがみついていますか。
- 神はいま、あなたの人生の中で何を取り分けておられますか。また、主の心を痛めるからと、何を手放すよう求めておられますか。
- 従う前に、神が先に動いてくださるのを待っていませんか。水が開くのを見る前に、今週どんな従順の一歩を踏み出せますか。
- 水かさの高さではなく、神の臨在に目を留め続けるには、どうすればよいでしょうか。
引用された聖句
よくある質問
なぜ祭司たちは、水が止まる前にヨルダン川に足を踏み入れなければならなかったのですか。
川は刈り入れのさなかで、あふれていました。説教者は、神がこの時を選ばれたのは、民が自分の力ではなく、神だけに頼るためだと強調します。突破口は従順のあとに来るのであって、前ではありません。祭司たちの足が水に触れたとき、ヨルダン川は止まったのです。
ヨシュア記3:5の「身を清めなさい」とはどういう意味ですか。
ヘブライ語のこの語は、特定の務めのために取り分けられるという考えを指します。「聖なる」という語、取り分けられた安息日、聖所と同じ語根です。自分を聖別するとは、自分を完全に神にささげ、神を救い主としてだけでなく主として認め、神のもとに立ち返ることです。
なぜヨルダン川は聖書で転換の場所なのですか。
聖書において、川は敷居を示します。ヨルダン川でイスラエルは約束の地に入り、エリシャはエリヤの後を継ぎ、ずっとのち、天が開くときにイエスがそこでバプテスマを受けられます。川の名は下るという意味を思わせます。神はそこで民を導き、神なしには成功できないと認めさせられるのです。
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