はじめに
マルコ8章22節以下で、ベツサイダで一人の盲人がイエスのもとに連れて来られます。人々はイエスに彼に触れてくださいと願います。イエスはその場で、群衆の前で彼に手を置くこともできたはずです。しかし、そうはなさいませんでした。イエスは彼の手を取り、村の外へと連れ出されます。そこ、人目のない場所で、イエスは二つの段階を経て彼の視力を回復させられます。この細部がすべてを物語っています。イエスはこの人に個人的な関心を寄せておられ、芽生えたばかりの信仰を窒息させかねない雰囲気から彼を連れ出したいと願われ、そして途中で止められることはなさらないのです。マレシャル牧師は、コロナ禍のロックダウン後、礼拝が再開されたばかりのナントから語られたこの説教で、この箇所をあなたのために一つの招きとして開いてくれます。イエスのもとへと導かれることを受け入れ、その手があなたの人生の上に置かれるのを許し、村の外へと連れ出されることに身をゆだねる招きです。
メッセージの構成
1. イエスのもとに導かれ、それから村の外へと導かれる
- すべての人はイエスのもとに導かれる必要があり、すべての人は自分からイエスのもとに行くことによって、その必要を表すことができます。
- アンデレはペテロをイエスのもとに導き(ヨハネ1章40〜42節)、ピリポはナタナエルを導きます(ヨハネ1章43〜45節)。誰かをキリストのもとへ導くことは、それ自体が驚くべきことなのです。
- ベツサイダで、人々は盲人を連れて来ます。イエスはその場、村の中でも彼に触れることができたはずです。しかしイエスは、彼の手を取って外へと連れ出すことを選ばれます。
- イエスは、困っている者との身体的な接触を愛されました。この行為を通して、霊的な温かさを伝え、この人に本当に関心を持っておられることを示されたのです。
2. ベツサイダ:恵みを見過ごしてしまった村
- マタイ11章21節で、イエスはこう言われます。「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。」これらの町は奇跡を見ながら、悔い改めることをしませんでした。
- ベツサイダはさばきのもとにありました。イエスはもはやそこで誰も癒やすことはなく、そこで証しがなされることも許されません。
- それでもなお、この盲人に対して、イエスはあわれみを用いてくださいます。その創造の御手には、暗闇を光に変える力があるのです。
3. 二段階の癒やし:神はあなたを中途半端なままにされない
- イエスは彼の目につばをつけ、手を置き、それから何か見えるかと尋ねられます。
- その答えは戸惑うようなものでした。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」歪んだ視界、進行中の癒やしです。
- イエスはこの人を、その半分の暗がりのままには放っておけませんでした。もう一度手を置かれると、彼はすべてをはっきりと見るようになります。
- 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日までにそれを完成させてくださいます」(ピリピ1章6節)。イエスが始められたことを、イエスは成し遂げてくださるのです。
4. 「村には入るな」:芽生えたばかりの信仰を守る
- 癒やしの後、イエスはこの人を、こう命じて家に送り返されます。「村には入るな。」
- この村は不信仰な者たちに囲まれていました。彼らは癒やしそのものを壊すことはできなくても、この人の信仰を壊すことはできたはずです。
- 奇跡だけに基づく信仰は、本当の信仰ではありません。「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばから始まる」のです(ローマ10章17節)。
- パウロがその証人です。かつて信仰を壊そうとしていた彼は、今、かつて壊そうとしていたその信仰を宣べ伝えているのです(ガラテヤ1章23節)。
5. イエスの手、母の手
- ある小さな女の子は、母親がいつも手袋をはめているのを見ていました。ある日、彼女は素手を見ました。萎縮し、焼けただれた手でした。母親は、彼女がまだ赤ん坊だったころ家で火事が起こり、その手が彼女を炎から救ったのだと話しました。
- その小さな女の子は、焼けた手をなでながらこう言いました。「ママ、あなたの手は美しいわ。もう手袋をしないで。」
- イエスの手も、そのように美しいのです。それは釘の跡を帯びています。その打ち傷によって、私たちは癒やされたのです。
- この手は、今日も差し伸べられています。赤ちゃんの上に、子どもたちの上に、若者たちの上に、あらゆる年齢の男女の上にです。
覚えておきたいポイント
- イエスは、騒がしさの中であなたに触れるだけでは満足されません。イエスはあなたの手を取り、静かな場所へと連れ出し、あなたに語りかけたいと願っておられます。
- 癒やしや、回心や、内側の働きは、段階的に進むことがあります。イエスが始められたことを、イエスは途中で放り出されることはありません。
- あなたの信仰は、奇跡だけの上には立てません。それは、聞かれ、受け取られたキリストのみことばによって養われるのです。
- あなたの中でイエスが始められたことを守るために、イエスがあなたを連れ出そうとしておられる「村々」(雰囲気、声、習慣)があります。
- イエスの刺し貫かれた手は、あなたがイエスにとってどれほど価値ある存在であるかを物語っています。今日、あなたの人生の上に置かれているのは、その手なのです。
個人的な適用
- アンデレやピリポのように、今週、あなたがイエスのもとへ導くことができる人が、あなたの周りにいませんか。
- あなた自身の内なる癒やしは、今どこまで進んでいますか。あなたはまだ、いくつかの点で「木のように見える人」の段階にとどまっていませんか。イエスに、もう一度手を置いていただくよう願う勇気がありますか。
- 今日のあなたの「村」、あなたの信仰を揺るがしかねない場所、会話、影響は何ですか。
- キリストのみことばは、日曜日や動画以外で、あなたの一週間の中で実際にどれほどの場所を占めていますか。
- あなたはもしかすると、古い傷をめぐって「神と論争」しているのではありませんか。今夜、祈りの中で、主に何を差し出すことができますか。
引用された聖句
よくある質問
なぜイエスはこの盲人を二段階で癒やされたのですか。
マルコ8章の箇所は、福音書の中で唯一の段階的な癒やしの記録です。マレシャル牧師はここから牧会的な教訓を引き出します。イエスはご自分の働きを決して未完成のままにされません。最初の按手で目は半分開き、二度目の按手ではっきりとした視力が与えられます。これは、神が私たちの人生でしばしばなさることの一つの姿です。神は始め、そして成し遂げてくださいます。パウロがピリピ人への手紙(1章6節)で語っているとおりです。
なぜイエスは癒やされた人に村へ戻ることを禁じられたのですか。
ベツサイダはすでにイエスの奇跡を拒んでおり(マタイ11章21節)、さばきのもとにありました。この村は不信仰な者たちで満ちており、彼らの嘲りと懐疑は、この人の身体的な癒やしを取り消すことはできなくても、まだ生まれたばかりの信仰を揺るがすことはできたでしょう。イエスは、彼を直接家に送り返すことで守られたのです。
私の信仰が、まず奇跡の上に立たないとしたら、どうすれば成長できるのですか。
パウロは明確にこう述べています。「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばから始まる」(ローマ10章17節)。奇跡は驚きを与えることはできても、土台を築くことはできません。堅固な信仰の土台となるのは、みことばを規則的に聞くことです。聖霊はそれを用いて、確信を生み出し、それを長く支えるものへと固めていってくださるのです。
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