はじめに
仮庵の祭りの終わりに、イエスはすでに、渇いている者はご自分のもとに来て飲むがよい、その心の内側から生ける水の川が流れ出るようになる、と語っておられました(ヨハネの福音書7章37〜38節)。翌朝、イエスは神殿に戻り、周りに座った人々に穏やかに教えておられましたが、そこに二つの場面が続けざまに起こります。まず、姦淫の現場で捕らえられた一人の女が、イエスをわなにかけようと引き出されます。それから長い論争が始まり、イエスはご自分を世の光として示し、神ご自身の御名にまでさかのぼる「わたしはある」という宣言を、続けざまに口にされます。この章全体を貫く一つの糸があります。イエスの言葉は単なる宗教的な言葉ではなく、いのちを宿しているということです。それを受け入れれば、あなたは生きます。それを拒めば、あなたは自分の罪の中で死にます。今日、少し立ち止まって、イエスがあなたに語っておられることに耳を傾けてみてください。
メッセージの構成
1. イエスは退いて祈り、そして教えるために時間を取られる
- 祭りの後、人々はそれぞれ自分の家に帰ります。イエスはというと、オリーブ山に上って行かれます(ヨハネの福音書8章1節)。主には家がありません。父に向き合って生き、離れた場所で祈るための時間を確保しておられるのです。
- 朝早く、主は再び神殿に戻られます。座られます(これは、これから重要な教えを語ろうとする教師の身ぶりです)。すると民が主の周りに押し寄せます。
- 私たちの生活は情報と気晴らしで満たされています。何か規則を課すつもりはありませんが、このリズムに心を動かされてみてください。あなたの思いを静め、神に注意を向けることのできる場所と時間を見つけることです。
2. 姦淫の女:罪を裁き、罪人を救う言葉(ヨハネの福音書8章1〜11節)
- 律法学者とパリサイ人たちは、姦淫の現場で捕らえた女を騒々しく連れて来て、教えを中断させます。この場面は、イエスをわなにかけるために仕組まれたものだったのかもしれません。
- 彼らはモーセの律法を引用します。この女は石打ちにされるべきだと。彼らはイエスに、律法を裏切るか、あるいは思いやりのない態度を示すか、いずれかを選ばせようとしています。
- イエスは身をかがめて地面に何かを書かれます。それから立ち上がって言われます。「あなたがたの中で罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい」(7節)。年長者から始まり、一人また一人と、彼らはその場を去って行きます。
- 女とだけ残されたイエスは、彼女にこう言われます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今後はもう罪を犯してはならない」(11節)。主は罪を否定しません。ご自分の言葉によって、彼女を罪から抜け出すようにと招いておられるのです。
- イエスの言葉には、告発者たちの正体を暴くと同時に、罪ある者を立ち上がらせるという、二重の力があります。それはすでに、いのちの始まりなのです。
3. 「わたしは世の光である」:イエスを受け入れることは、闇からいのちへと移ることである(ヨハネの福音書8章12〜20節)
- 「わたしは世の光である。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つ」(12節)。
- パリサイ人たちは主の証しに異議を唱えます。彼らは自分たちの基準に合った証拠を求めているのです。イエスは、ご自分の証しが真実であるのは、父がご自分と共に証ししてくださっているからだと答えられます。
- 光とは理論ではありません。それは道を照らし、隠れていたものを暴き、暖めてくれるものです。イエスに従うとは、道徳的な教えに感心することではなく、主の後ろについて一歩一歩歩むことなのです。
4. 「あなたがたが『わたしはある』ということを信じないなら、あなたがたは自分の罪の中で死ぬ」(ヨハネの福音書8章21〜30節)
- イエスは、神がモーセに柴の中で名乗られた御名を口にされます。「わたしはある」(出エジプト記3章14節)。ギリシア語ではエゴー・エイミです。イエスはこの章の中で、ご自分が誰であるかを示すために、三度この言葉を用いられます。
- 「もしあなたがたが、わたしが『わたしはある』ということを信じないなら、あなたがたは自分の罪の中で死ぬ」(24節)。主が差し出そうとしておられる贖いは、主が天から来られた神であるからこそ価値を持つのです。これを信じることはいのちを開き、これを拒むことは死の中に留めます。
- 「あなたがたが人の子を上げてしまったとき、あなたがたは、わたしが『わたしはある』ということを知るようになる」(28節)。「上げる」とは十字架を指しています。あなたの心が主が本当は誰であるかを見ることができるのは、まさにその十字架のもとで、空になった墓の前でなのです。
- 具体的に問いましょう。あなたは一日に何回、十字架と復活を思い返していますか。この記憶こそが、イエスをあなたの日常の中で生きた方とし、あなたの赦し方、忍耐の仕方、仕え方を変えていくのです。
5. 「真理はあなたがたを自由にする」:受け入れた言葉が本当の自由を生み出す(ヨハネの福音書8章31〜47節)
- 「もしあなたがたがわたしのことばにとどまるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(31〜32節)。
- とどまるとは、時間があるときにイエスの言葉を訪ねることではなく、そこに住み込むこと、それを読み返し、思いめぐらし、実行に移すことです。
- 聞いていた人々は、自分たちはアブラハムの子孫だから自由だと言い張ります。イエスは彼らの本当の主人を指摘します。「罪を行う者はみな、罪の奴隷です」(34節)。イエスなしでは、どれほど熱心な宗教であっても、誰も自由にすることはできません。
- イエスは、御子だけが人を自由にできると告げられます。それが、種のように主の言葉を受け取る者に約束されているいのちであり、飾りとして受け取る者には与えられないいのちなのです。
6. 「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」:イエスは永遠の神である(ヨハネの福音書8章48〜59節)
- 論争は激しさを増します。聞いていた人々はイエスをののしり、悪霊につかれていると非難します。しかしイエスは、ご自分の栄光を求めるのではなく、父を敬ることに焦点を保ち続けられます。
- 主はこの章で最も力強い宣言をもって締めくくられます。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、わたしはあるのです」(58節)。彼らは主を石打ちにしようと石を取ります。彼らは、主がご自分に神の御名を帰しておられることをはっきり理解したのです。
- これらの言葉を前にして、あなたはもはや中立ではいられません。拒絶の石を手に取るか、それとも救い主であり、あなたの神でもあるお方の前にひざまずくか、そのどちらかです。
覚えておきたいポイント
- イエスの言葉は数ある宗教的な考え方の一つではありません。それはいのちを宿しており、それを受け入れる者にいのちを与えます。
- 罪はイエスによって否定されるのではなく、名指しされ、赦されます。イエスの言葉は悪を裁くと同時に、主のもとに来る者を立ち上がらせます。
- イエスが「わたしはある」(肉となって来られた永遠の神)であると信じることは、信仰の核心です。それを拒むことは、自分の罪の中で死ぬことです。
- 毎日十字架と復活を思い起こすことは、赦し方、忍耐の仕方、愛し方を変えていきます。
- 主の言葉にとどまるとは、それをざっと流し読みすることではなく、そこに住み込むことです。真の自由はそこから生まれます。
自分への適用
- あなたの一週間のどこに、オリーブ山での本当の時間、すなわち祈り、耳を傾けるために離れた場所で過ごす時間を作ることができますか。
- あなたはイエスに持ってくる代わりに、どんな罪を正当化しようとしていますか。今日、あなたは主からどんな言葉を聞きたいですか。「わたしはあなたを罪に定めない。行きなさい。もう罪を犯してはならない。」
- あなたは本当にイエスが神であると信じていますか。それとも、単なる立派な師にとどめてしまっていますか。
- 一日に何回、あなたの心を十字架と復活へと引き戻していますか。
- 今週、あなたはどの言葉を「住み込むように」味わい、それが約束する自由をあなたのうちに生み出すまで、深く味わいたいですか。
引用聖句
よくある質問
なぜヨハネの福音書8章1〜11節は、聖書によっては括弧に入れられていることがあるのですか。
いくつかの古い写本には、この箇所がこの場所に含まれていないか、あるいは別の場所に置かれています。これはおそらく手書きの書き写しの過程で起きたことです。ヨハネの原文にはこの記事が存在していましたが、その位置が一部で失われてしまったのです。この記事は、教会によって受け継がれてきた神の言葉として、今も受け入れられています。
ヨハネの福音書8章における「わたしはある」(エゴー・エイミ)とはどういう意味ですか。
それは、神が柴の中でモーセに名乗られたのと同じ御名です(出エジプト記3章14節)。この御名をご自分に当てはめることで、イエスはご自分が神であり、父と等しい方であることを宣言しておられます。これを信じることはいのちを開き、これを拒むことは罪の中に留まらせます。
イエスの言葉が宿しているいのちを、具体的にどうすれば受け取ることができますか。
主の前に立ち止まる時間を取ること、従いたいという願いをもって御言葉を読むこと、そして毎日、主の十字架と復活を思い起こすことによってです。そこで御霊が、あなたの心に主のいのちを刻み込んでくださるのです。
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