聖書 — 口語訳 (1955)

ヨハネによる福音書 7

概要

ヨハネによる福音書7章は、十字架の少し前の仮庵の祭を舞台にしています。イエスの兄弟たちは公に姿を現すよう勧めますが、イエスは父が定めた時を待ちます。エルサレムで神殿に立って教えると、群衆は割れます。善い人か、惑わす者か、キリストか。祭の終わりの日、イエスはかわく者はだれでも自分のところに来るよう招き、信じる者から生ける水が川となって流れ出ると約束します。ヨハネはこれを御霊のことだと説明します。指導者たちは心を閉ざしたままですが、下役たちは、この人のように語った者はいまだかつてなかったと認めます。

この章の5つの区分

  1. 1-13節兄弟たちの助言とイエスの時
  2. 14-24節神殿で教え、批判に答えるイエス
  3. 25-36節この方はいったいだれか:エルサレムでの議論
  4. 37-39節かわく者は来なさい:生ける水の川
  5. 40-53節割れる群衆と心を閉ざす指導者たち

1そののち、イエスはガリラヤを巡回しておられた。ユダヤ人たちが自分を殺そうとしていたので、ユダヤを巡回しようとはされなかった。

2時に、ユダヤ人の仮庵の祭が近づいていた。

3そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った、「あなたがしておられるわざを弟子たちにも見せるために、ここを去りユダヤに行ってはいかがです。

4自分を公けにあらわそうと思っている人で、隠れて仕事をするものはありません。あなたがこれらのことをするからには、自分をはっきりと世にあらわしなさい」。

5こう言ったのは、兄弟たちもイエスを信じていなかったからである。

6そこでイエスは彼らに言われた、「わたしの時はまだきていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている。

7世はあなたがたを憎み得ないが、わたしを憎んでいる。わたしが世のおこないの悪いことを、あかししているからである。

8あなたがたこそ祭に行きなさい。わたしはこの祭には行かない。わたしの時はまだ満ちていないから」。

9彼らにこう言って、イエスはガリラヤにとどまっておられた。

10しかし、兄弟たちが祭に行ったあとで、イエスも人目にたたぬように、ひそかに行かれた。

11ユダヤ人らは祭の時に、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。

12群衆の中に、イエスについていろいろとうわさが立った。ある人々は、「あれはよい人だ」と言い、他の人々は、「いや、あれは群衆を惑わしている」と言った。

13しかし、ユダヤ人らを恐れて、イエスのことを公然と口にする者はいなかった。

14祭も半ばになってから、イエスは宮に上って教え始められた。

15すると、ユダヤ人たちは驚いて言った、「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」。

16そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。

17神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。

18自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない。

19モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行う者がひとりもない。あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」。

20群衆は答えた、「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうと思っているものか」。

21イエスは彼らに答えて言われた、「わたしが一つのわざをしたところ、あなたがたは皆それを見て驚いている。

22モーセはあなたがたに割礼を命じたので、(これは、実は、モーセから始まったのではなく、先祖たちから始まったものである)あなたがたは安息日にも人に割礼を施している。

23もし、モーセの律法が破られないように、安息日であっても割礼を受けるのなら、安息日に人の全身を丈夫にしてやったからといって、どうして、そんなにおこるのか。

24うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい」。

25さて、エルサレムのある人たちが言った、「この人は人々が殺そうと思っている者ではないか。

26見よ、彼は公然と語っているのに、人々はこれに対して何も言わない。役人たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知っているのではなかろうか。

27わたしたちはこの人がどこからきたのか知っている。しかし、キリストが現れる時には、どこから来るのか知っている者は、ひとりもいない」。

28イエスは宮の内で教えながら、叫んで言われた、「あなたがたは、わたしを知っており、また、わたしがどこからきたかも知っている。しかし、わたしは自分からきたのではない。わたしをつかわされたかたは真実であるが、あなたがたは、そのかたを知らない。

29わたしは、そのかたを知っている。わたしはそのかたのもとからきた者で、そのかたがわたしをつかわされたのである」。

30そこで人々はイエスを捕えようと計ったが、だれひとり手をかける者はなかった。イエスの時が、まだきていなかったからである。

31しかし、群衆の中の多くの者が、イエスを信じて言った、「キリストがきても、この人が行ったよりも多くのしるしを行うだろうか」。

32群衆がイエスについてこのようなうわさをしているのを、パリサイ人たちは耳にした。そこで、祭司長たちやパリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、下役どもをつかわした。

33イエスは言われた、「今しばらくの間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く。

34あなたがたはわたしを捜すであろうが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所に、あなたがたは来ることができない」。

35そこでユダヤ人たちは互に言った、「わたしたちが見つけることができないというのは、どこへ行こうとしているのだろう。ギリシヤ人の中に離散している人たちのところにでも行って、ギリシヤ人を教えようというのだろうか。

36また、『わたしを捜すが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所には来ることができないだろう』と言ったその言葉は、どういう意味だろう」。

37祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。

38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。

39これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。

40群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、

41ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。

42キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。

43こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。

44彼らのうちのある人々は、イエスを捕えようと思ったが、だれひとり手をかける者はなかった。

45さて、下役どもが祭司長たちやパリサイ人たちのところに帰ってきたので、彼らはその下役どもに言った、「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」。

46下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。

47パリサイ人たちが彼らに答えた、「あなたがたまでが、だまされているのではないか。

48役人たちやパリサイ人たちの中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。

49律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」。

50彼らの中のひとりで、以前にイエスに会いにきたことのあるニコデモが、彼らに言った、

51「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」。

52彼らは答えて言った、「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」。

53〔そして、人々はおのおの家に帰って行った。

鍵となる聖句

6節
そこでイエスは彼らに言われた、「わたしの時はまだきていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている。

イエスは兄弟たちに、「わたしの時はまだきていない」と答えます。家族の意見にも、名を知られたいという願いにも押されず、父が定めた時を待ちます。

17節
神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。

イエスは、その教えが神から出たものかを見分ける鍵を示します。神のみこころを行おうと思う者は、それがわかるのです。理解は知性だけでなく、心の姿勢を通して与えられます。

37-38節
祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。

ここがこの章の頂点です。祭の終わりの大事な日、イエスはかわく者はだれでも自分のところに来て飲むよう招き、信じる者から生ける水が川となって流れ出ると約束します。この招きはすべての人に開かれ、同時に一人ひとりに向けられています。

39節
これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。

ヨハネ自身がこの比喩を解き明かします。生ける水とは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊のことで、それはイエスが栄光を受けたあとに与えられます。この節は、この章をペンテコステへとつなげています。

46節
下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。

イエスを捕らえるために遣わされた下役たちは、その言葉に打たれて手ぶらで戻ります。彼らの反応は、耳を傾けようとしない権威者たちを前にしたイエスの教えの力を示しています。

この章に登場する人物

説教が語っていること

あなたの心をイエスに向けなさい(ヨハネ7章)この説教は章を一歩ずつたどります。家族、群衆、指導者たちの意見の前でも、父が語るときにだけ動かれるイエスを示し、自分の心をイエスに向けるよう招きます。要約を読む →生ける水の川:あなたも神様の力の水路となるサミュエル・マボーは38節から水路のイメージで語ります。水路は水をつくるのではなく、通すだけです。私たちの人生を通して、神の力が他の人々の人生に届くようにと呼びかけます。要約を読む →神への渇きがもたらす5つの力強い恵みイヴァン・カスタヌーは、神への渇きが何をもたらすかを語ります。それは世の偽りの喜びから、そして惰性から解き放ちます。賜物よりも、与えてくださる方を愛するよう招きます。要約を読む →神のリバイバルを待ち望むときの4つの姿勢ジョ・グラース・ムウェンゼはヨハネ7章37節を引き、リバイバルは個人の目覚めから始まると語ります。神が働かれる前に、本当の渇きと祈り、そして特定の姿勢が求められます。要約を読む →神の御霊は、あなたが死んだと思ったものを生き返らせるペンテコステのメッセージは、ヨハネ7章の生ける水を、エゼキエル書37章の骨のように枯れたものを生き返らせる御霊に結びつけます。要約を読む →

ヨハネによる福音書7章についてよくある質問

ヨハネによる福音書7章38節の生ける水の川とは何を意味しますか

イエスは、自分を信じる者の腹から生ける水が川となって流れ出ると約束されました。ヨハネは次の節で、それが信じる者たちの受ける御霊のことだと説明しています。この比喩は、神から与えられるいのちは閉じ込められたままにならず、あふれて他の人々にも届くことを語っています。

なぜイエスはヨハネによる福音書7章で最初から祭に上らなかったのですか

兄弟たちは、公の場に姿を現すようイエスに勧めます。イエスは、自分の時はまだ来ていないと答えます。他の人の意見ではなく、父の予定に従っておられるからです。その後イエスは、目立たないように祭に上ります。キリスト者は一般に、この出来事を神の定めた時に従う従順の教えとして理解しています。

ヨハネによる福音書7章のメッセージは何ですか

この章は、イエスが人々を分けることを示します。信じる人、反対する人、ためらう人がいます。そのさなかで、イエスはかわく者はだれでも来るようにと、開かれた招きを語られます。霊的な渇きの答えはイエスにあり、御霊がその賜物であることが、この章のメッセージです。

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