ヨハネ7章は、家族の論理にも、群衆の論理にも、宗教指導者たちの論理にも従って動くことを拒まれるイエスの姿を私たちに示しています。イエスは、父が「行きなさい」と言われるときにしか動かれません。そして祭りの真っただ中で、すべての人に同じ招きを叫ばれます。「だれでも渇いているなら、わたしのところに来て飲みなさい。」この記事は、この章を一節ずつ追いながら、あなた自身の心をイエスに向ける助けとなることを目指しています。
はじめに:なぜヨハネ7章は今も私たちに関わっているのか
ヨハネ7章の出来事は、十字架の六か月前に起こります。イエスが死なれる前に仮庵の祭りに上られるのは、これが最後です。ここから先、ヨハネの福音書は焦点を絞り込んでいきます。すべてが十字架、復活、昇天へと向かっていくのです。舞台は重々しいものですが、メッセージはシンプルなままです。二つの論理が対立しています。一つは、自己実現を求め、人に気に入られようとし、名を上げようとする世の論理です。もう一つは、父が「合図」を与えてくださらなければ何もされない、イエスの論理です。
もしあなたが、周りの人があなたに期待することによってあちこち引っ張られているように感じるなら、もし神から来るものと自分自身の心から来るものを見分けるのに苦労しているなら、ヨハネ7章はあなたに語りかけてくるでしょう。この章は、一つの招きで締めくくられます。来て飲みなさい、と。しかしその前に、あなたの内にある、別の道を選びたがるあらゆるものを通り抜けなければなりません。
メッセージの構成
1. 「合図」は私たちから来るものではない(ヨハネ7:1〜9)
これらのことの後、イエスはガリラヤを巡っておられました。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたため、ユダヤを巡ろうとはされませんでした。仮庵の祭りが近づいていました。イエスの兄弟たちは言いました。「ここを去ってユダヤに行きなさい。あなたの弟子たちも、あなたのしているわざを見られるようにです。人に知られたいと思いながら、隠れて事を行う者はいません。そのようなことをしているなら、自分を世に現しなさい。」ヨハネはこう付け加えています。イエスの兄弟たちさえも、イエスを信じていなかったのです。
家族のこの助言は、とても現代的です。自分を知らしめよ、舞台に上がれ、自分の価値を示せ、そうすれば評価はついてくる、というわけです。これは自己啓発セミナーから出てきたような言葉かもしれません。イエスは答えられます。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも良いのです。」兄弟たちは、世の調子に合わせて生きているので、いつでも好きなときに上って行くことができます。しかしイエスは、父からの合図を待っておられるのです。
テレビでは、誰かが「合図」を出し、そのときになって初めてゲストが舞台に登場します。イエスにとって、この「合図」は神から来るものです。状況からでも、家族からのプレッシャーからでも、絶好の機会からでもありません。父が「今だ」と言われるまで、イエスは動かれないのです。
2. 世があなたを憎むのは、あなたがもう世に似ていないときだけ(ヨハネ7:7〜13)
イエスはさらに言われます。「世はあなたがたを憎むことができません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが世について、そのわざが悪であるとあかしするからです。」イエスの兄弟たちが憎まれないのは、彼らがまだ完全に世に同化しているからです。イエスが憎まれるのは、別の価値体系に従って生きておられるからです。
これは、シンプルな試金石です。もしあなたが、周りの価値観との間に何の緊張も、何の居心地の悪さも感じず、「そこには行けない」「それは言えない」「それには参加したくない」と思うことが一度もないなら、自分に問いかけてみてください。奇妙な人間になろうとする必要があるということではありません。そうではなく、キリストに従うことは、いずれどこかで摩擦を生むものだということです。摩擦がないとすれば、おそらく同化が起きているのです。
結局イエスも、ひそかにエルサレムに上って行かれます。それは恐れからではなく、兄弟たちに見世物にされないためです。道すがら、群衆はイエスのことをひそひそとささやいています。宗教指導者たちがあまりにも恐れられていたため、誰も公然と語ろうとはしませんでした。
3. あなたの教えは、どこから来ているのか(ヨハネ7:14〜24)
祭りも半ばになった頃、イエスは宮に上って教え始められました。ユダヤ人たちは驚いて言いました。「この人は学んだこともないのに、どうして聖書に通じているのだろう。」イエスは答えられます。「わたしの教えはわたし自身のものではなく、わたしを遣わした方のものです。もし人が神のみこころを行おうとするなら、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのか、わかるはずです。」
見分けるための基準は、心にあります。神が望まれることを本当に行いたいと願う人は、神から来た言葉を見分けることができます。自分自身の栄光を求める人は、メッセージをゆがめてしまいます。それはまるで、自分を目立たせようとしてスパイスを足すウエイターのようなものです。シェフがきちんと料理をしたなら、何も足す必要はありません。その皿を、そのまま運べばよいのです。
これは、説教する者にも当てはまります。自分を過大評価してもいけませんし(「自分は大丈夫だ、もう準備の必要はない」)、自分を過小評価してもいけません(「自分には分かち合えない、何も知らないから」)。この二つの反応は、実は同じところから来ています。神ではなく、自分自身を見てしまっているのです。正しい問いは、決して「これで自分はどう見えるか」ではなく、「御霊はこれを通して何を語ろうとしておられるのか」なのです。
イエスは続けて、ベテスダの池での病人の癒やし(ヨハネ5章)の話に移られます。宗教指導者たちは、イエスが安息日に癒やしを行ったことに腹を立てていました。イエスは、彼らの矛盾を突き返されます。あなたがたは、モーセの律法を破らないために安息日に割礼を行うのに、わたしが安息日に人を完全に健康にしたからといって腹を立てるのですか、と。そして、この章全体を貫く一つの言葉が語られます。「うわべによって人をさばかず、正しいさばきをしなさい。」
4. イエスを知っていると思っていても、その父を知らない(ヨハネ7:25〜36)
エルサレムのある人々は驚いて言います。「これは、人々が殺そうとしている者ではないか。それなのに、公然と語っている。」それから彼らは、こんな思い込みで自分を安心させます。「私たちは、この人がどこから来たのかを知っている。しかしキリストが来られるときには、その出所を知る者は誰もいないはずだ。」彼らは情報を手にしていると思い込んでいますが、最も大切なことを見落としているのです。
イエスは宮の中で声を張り上げて言われます。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たのかも知っています。しかしわたしは自分から来たのではありません。わたしを遣わした方は真実な方です。あなたがたはその方を知りませんが、わたしは知っています。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしを遣わされたのです。」これは地理的な出身の問題ではありません。霊的な出所の問題なのです。イエスについてすべてを知っていると思っている人々は、イエスを遣わされた方さえ知らないのです。
5. 「だれでも渇いているなら、わたしのところに来なさい」(ヨハネ7:37〜39)
祭りの最終日、大いなる日に、イエスは立ち上がって叫ばれます。「だれでも渇いているなら、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになります。」
この場面の背景を知っておく必要があります。仮庵の祭りの七日間、祭司たちはシロアムの池から水をくみ、それを祭壇の上に注いでいました。これは、荒野での四十年間に与えられた水への感謝であり、来たる一年の雨を求める願いでもありました。「大いなる日」と呼ばれる最終日には、水は注がれませんでした。祭壇の前には、空の桶が運ばれました。空の桶、それは信頼のしるしでした。主よ、あなたがそれを満たしてくださいます、という信頼です。この日には、「ホサナ」、すなわち「今、救ってください」という祈りが唱えられていました。
まさにこの瞬間、すべての人の前で、イエスは立ち上がり、こう言われます。わたしのところに来て、飲みなさい、と。イエスは、民全体の集団の祈りに対する答えとしてご自分を示されるのです。神への大いなる渇きは、イエスのもとに携えて行くべきものです。そしてヨハネはこう説明します。この生ける水とは聖霊のことであり、イエスを信じる者たちが、後になって受けることになるものだったのです。
6. 群衆が分裂する:感情ではなく本質を見極める(ヨハネ7:40〜52)
群衆は分裂します。ある者は言います。「この人こそ、本当にあの預言者だ。」別の者は言います。「この人はキリストだ。」また別の者は言います。「キリストがガリラヤから出るだろうか。」預言者ヨナがまさにガリラヤの出身であったことは忘れられています。聖書がベツレヘムを告げていたことも忘れられています。それぞれが自分の見方を主張するばかりで、誰も深く掘り下げようとはしません。
イエスを捕らえるために送られた下役たちは、手ぶらで戻ってきます。「これまで、この人のように話した人はいません。」指導者たちはあざけって言います。「あなたがたまで惑わされたのですか。」ただ一人、ニコデモ(ヨハネ3章)だけが冷静なままです。彼は、法の単純な原則を思い起こさせます。誰も、その言い分を聞かないうちは、罪に定めることはできない、と。彼は地域に対する蔑みで返されます。「あなたもガリラヤ出身なのですか。」
心をイエスに向けないとき、人は感情的になってしまいます。うわべによって、偏見によって、党派によって判断してしまうのです。識別する力を失ってしまいます。しかしニコデモは、すでにイエスと出会っていたからこそ、揺るがずにいられたのです。
覚えておきたいポイント
- 「合図」は神から来るものであり、社会的なプレッシャーから来るものではありません。イエスのように、まだ父の時ではないからと、急ぐことを拒むことができます。
- 世との摩擦は、異常なことではありません。それは、世の型に完全には染まっていないしるしなのです。
- 神の栄光を求めることは、偽りから守ってくれます。自分自身について語る者はゆがめてしまい、神のために語る者は真実を語ります。
- 識別する力は、従いたいという願いを通して与えられます。神のみこころを行いたいと願う心こそが、神の声を聞き分けるのです。
- 渇きは、良い知らせです。それはあなたをイエスのもとへと導きます。最悪の状態とは、渇いていることではなく、もはやそれを感じなくなることです。
個人への適用
これらの問いとともに、しばらく静かな時間を取ってみましょう。心に浮かんだことを書き留めてください。
- 今日、私はどんなことについて、神の「合図」ではなく、自分の「合図」を待ってしまっているだろうか。
- 私は、神が喜ばれないことに対してもはや何の摩擦も感じなくなるほど、周りの環境に染まってしまってはいないだろうか。
- 信仰について語ろうと口を開くとき、私が関心を寄せているのは自分の栄光だろうか、それとも神の栄光だろうか。
- 私は、自分の感情に基づいて決め、行動しているだろうか、それともみことばと御霊に基づいているだろうか。
- 私は今日、イエスに渇いているだろうか。それとも、渇きを感じずに生きることを覚えてしまっただろうか。
引用聖句
- ヨハネ7章(章全体)
- ヨハネ5章(ベテスダでの癒やし、背景の箇所)
- ヨハネ6:38「わたしは自分の意志を行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うために、天から下って来ました」
- 詩篇75:6〜7 低くする方も高くする方も神であられる
- ペテロ第一5:6 神の力強い御手の下にへりくだりなさい
- ヨハネ第一2:27 受けた油があなたがたに教える
- エペソ5:18 御霊に満たされなさい
よくある質問
なぜイエスは、兄弟たちに祭りには上って行かないと言いながら、結局は上って行かれたのですか。
イエスは、上って行くこと自体をやめたのではなく、彼らのやり方で、彼らと一緒に、見世物として上って行くことを拒まれたのです。イエスの「わたしは上って行かない」という言葉は、「そのような祭りには行かない、あなたがたが考えているような形では行かない」という意味です。イエスは後になって、父から合図をいただいたときに、ひそかに上って行かれます。
イエスが約束される「生ける水」とは、何を意味していますか。
ヨハネ自身が39節でこれを説明しています。それは聖霊のことであり、イエスの死と復活と昇天の後、イエスを信じる者たちに与えられるものです。この水とは、私たちの内に流れ、他の人々へとあふれ出ていく神のいのちのことです。喜び、平安、感謝、愛として現れるのです。
自分が、うわべではなく「正しいさばき」をしているかどうか(ヨハネ7:24)、どうすれば分かりますか。
二つの防止策があります。第一に、ニコデモが思い起こさせてくれるように、結論を出す前に相手の言い分を聞く時間を取ることです。第二に、心をイエスに向け、御霊に正しい問いを立てていただくことです。本質は何か。動機は何か。自分は傷つけられたことに反応しているのか、それとも真理に基づいて反応しているのか、と。
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