聖書 — 口語訳 (1955)

ヨハネによる福音書 5

概要

ヨハネによる福音書5章は、ベテスダの池で、三十八年間病んでいる人にイエスが出会う場面から始まります。イエスは癒されたいかと尋ね、起きて歩きなさいと言われます。その日は安息日で、イエスが神をご自分の父と呼び、神と等しい者とされたため、指導者たちは殺そうとします。イエスは答えます。子は父のなさることを見てするほか、自分からは何もできない。子はいのちを与え、さばく。わたしの言葉を聞いて信じる者は、死から命に移っている。

この章の4つの区分

  1. 1-9節ベテスダ:イエスが三十八年間病んでいた人を癒す
  2. 10-18節安息日と、宗教指導者たちの怒り
  3. 19-29節父と一つである御子が、いのちを与え、さばく
  4. 30-47節イエスについての証しと、イエスのもとに来ようとしない人々

1こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。

2エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。

3その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。

4それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕

5さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。

6イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。

7この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。

8イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。

9すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。

10そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った、「きょうは安息日だ。床を取りあげるのは、よろしくない」。

11彼は答えた、「わたしをなおして下さったかたが、床を取りあげて歩けと、わたしに言われました」。

12彼らは尋ねた、「取りあげて歩けと言った人は、だれか」。

13しかし、このいやされた人は、それがだれであるか知らなかった。群衆がその場にいたので、イエスはそっと出て行かれたからである。

14そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」。

15彼は出て行って、自分をいやしたのはイエスであったと、ユダヤ人たちに告げた。

16そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。

17そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。

18このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。

19さて、イエスは彼らに答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。

20なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。そして、それよりもなお大きなわざを、お示しになるであろう。あなたがたが、それによって不思議に思うためである。

21すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう。

22父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。

23それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。

24よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。

25よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。

26それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。

27そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。

28このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、

29善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。

30わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。

31もし、わたしが自分自身についてあかしをするならば、わたしのあかしはほんとうではない。

32わたしについてあかしをするかたはほかにあり、そして、その人がするあかしがほんとうであることを、わたしは知っている。

33あなたがたはヨハネのもとへ人をつかわしたが、そのとき彼は真理についてあかしをした。

34わたしは人からあかしを受けないが、このことを言うのは、あなたがたが救われるためである。

35ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。

36しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。

37また、わたしをつかわされた父も、ご自分でわたしについてあかしをされた。あなたがたは、まだそのみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない。

38また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。

39あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。

40しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。

41わたしは人からの誉を受けることはしない。

42しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。

43わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。

44互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。

45わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。

46もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。

47しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。

鍵となる聖句

6節
イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。

イエスは、当たり前に思える問いを投げかけます。よくなりたいか。この問いは体だけのことではありません。三十八年間待ち続けたあと、本当は何を望んでいるのかを言うよう、その人を招いています。

7-8節
この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。

その人は、自分を妨げているもの、助けてくれる人がいないことで答えます。イエスは池について議論せず、起きて、床を取り上げて歩きなさいと言われます。癒しは動く水ではなく、イエスの言葉によるのです。

18節
このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。

ヨハネは、敵意が募る理由を説明します。イエスは、指導者たちの目に安息日を破ったというだけでなく、神をご自分の父と呼び、神と等しい者となされたのです。争点はイエスの正体にあります。

24節
よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。

ヨハネによる福音書の中心的な節の一つです。イエスの言葉を聞き、遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会わず、すでに死から命に移っています。

39-40節
あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。

イエスは聖書を注意深く調べる人々に語ります。聖書はイエスについて証ししているのに、彼らはいのちを得るためにイエスのもとに来ようとしません。聖書の本文を知っていることは、それが語る方との出会いの代わりにはなりません。

この章に登場する人物

このテーマで祈る

説教が語っていること

ヨハネによる福音書5章についてよくある質問

ヨハネによる福音書5章のベテスダの癒しは何を意味しますか

イエスは、三十八年間麻痺していた人を、池の水に頼らず、言葉だけで癒されます。この物語は、癒しが儀式ではなくイエスから来ることを示し、このように行える方は神でなくてだれなのかという、イエスの正体への問いを導きます。これはまた、章の続きで告げられる、イエスが与えるいのちのしるしでもあります。

なぜイエスは病人によくなりたいかと言われたのですか

イエスは情報を求めておられるのではなく、その人が長く病んでいることをご存じです。この問いは、その人が自分の願いを言い表し、あきらめから抜け出すよう招いています。その人は妨げとなるものを答えますが、イエスは立ち上がるよう命じられ、見方が変わります。

ヨハネによる福音書5章24節の死から命に移るとはどういう意味ですか

イエスは、ご自分の言葉を聞き、遣わされた方を信じる者は、今すでに永遠のいのちを持ち、さばきに会わないと断言されます。キリスト者はこの箇所を、神から離れた状態から神との交わりへの移行であり、すでに始まっていて復活のときに完成するものと理解しています。

なぜヨハネによる福音書5章で宗教指導者たちはイエスに反対するのですか

癒しは安息日に行われ、その人は床を担ぎました。しかしヨハネは、反対が強まったのは特に、イエスが神をご自分の父と呼び、神と等しい者となされたからだと記します。この章は、イエスが父との一体性を最も明確に語る章の一つです。

ヨハネによる福音書 5を引用している記事

← すべての章

口語訳(1955年)— パブリックドメイン。