ルカ9章:変貌の山が示すもの

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はじめに

Igreja Evangélica Baptista da Paredeの説教者は、2年あまり前から、ほぼ毎週日曜日にルカの福音書を順に語り続けています。この日は9章28節から36節に戻りました。聖書の「頂」をたどるシリーズの中で、多くの信仰者の歩みに刻まれてきた山、変貌の山に登ろうと呼びかけます。「そこで何が起きたのかを想像するのが好きなのです」と語ります。

本文に入る前に、説教者は一つの問いを投げかけます。声に出して答えるためではなく、じっくり考えるための問いです。イエスとともに歩んできた中で、あなたにとって最も心に刻まれた体験は何ですか。祈りが答えられたことではなく、神に近づけられ、自分が従っている神がどのような方なのかを悟らされた瞬間のことです。

ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、イエスとともにそのような瞬間を体験しました。説教者はそこから四つの教えを引き出します。祈りの大切さ、キリストの神としての栄光、聖書の中心にいるキリスト、そして救いの計画の中心にある十字架です。

メッセージの流れ

1. 人生を変える体験

  • ルカ9:28-36の記事は、マタイの福音書とマルコの福音書にも出てきます。その場に居合わせたヨハネはこの出来事を記していませんが、福音書の冒頭でそれをほのめかしています。
  • どの山だったのか、正確にはわかっていません。タボル山だと考える人もいれば、ヘルモン山だと考える人もいて、「意見は分かれています」。
  • 大切なのは、この三人がイエスとともにいて、それが彼らの人生に刻まれたということです。では、彼らには何が示されたのか、そして今日、この山で私たちには何が示されるのでしょうか。

2. 祈りの大切さ

  • 「イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。」すべては祈りの時に起こります。
  • イエスは、願い事と感謝の一覧を神に差し出すために山に登られたのではありません。「主よ、これをありがとうございます、あれをありがとうございます」と言って、そのあとに一覧が続きます。神をほめたたえるのは良いことですが、祈りはそれよりはるかに深いものです。神の前に自分の魂を注ぎ出す、親しい交わりの時なのです。
  • 私たちはしばしば、良心をなだめるために急いで祈ります。「今日はまだ祈っていない」と思い出して、片隅や机の端で走りながら祈るのです。そのように、神の臨在の中で安らぐ時間を取らずに祈るなら、あの山のような体験はできません。
  • 神の偉大な人々は祈りました。ハンナは苦しみの中で祈り、一人の息子を授かりました。ダニエルは一日に三度祈りました。ダビデは心を注ぎ出して自分の罪を告白し、赦しを知りました。パウロとシラスは牢の中で賛美し祈り、鎖が解け、ピリピの看守は救われました。私たちの大いなる模範であるイエスは、父との交わりのために一人になられました。
  • 私たちはよく時間がないことを言い訳にします。「歩きながらでも、いつでも祈れる」と。けれども、大切な人と大事な話をするときには、ほかのことはすべて脇に置くはずです。「さあ、一緒に昼食をとろう」と。「なぜ神とは走りながらでなければならないのでしょうか。」神はあなたとの親しい時間を求めておられ、その時間の中で、さまざまなことが起こります。

3. キリストの神としての栄光

  • 「祈っておられるうちに、みかたちが変って、その衣が白く輝いてきた。」弟子たちは、栄光に輝くイエス、神としてのイエスを見ます。
  • 彼らにとってイエスは先生であり、ともに歩んできたラビであり、おそらく預言者でした。彼らが知っていたのは、しもべとしてのイエス、イザヤが告げた悲しみの人、渇き、飢え、疲れ、舟の中で眠られる方でした。
  • ここで彼らは、のちにヨハネが書き記すことを目にします。「わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1:14)。
  • ラザロの姉妹に、イエスはこう言われました。「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」(ヨハネ11:40)。ヘブル人への手紙10章22節にあるように、信仰に満たされ、真心をもって神に近づかなければなりません。開かれた心と開かれた思いがあれば、神の栄光を見ることができます。

4. 神の御前から、人は同じままでは出てこない

  • 山の上のモーセは急いでいませんでした。何日も神の臨在の中にとどまりました。山を下りたとき、その顔は輝き、人々が見ることができないほどだったので、顔おおいをかけなければなりませんでした。
  • 神とともに時間を過ごすと、神のみかたちが私たちの内にとどまり、周りの人は私たちを通して神の栄光を見ます。説教者は問いかけます。周りの人、とりわけ信じていない人は、私の中に何を見るでしょうか。神とともに歩んでいる人でしょうか。それとも、世の怒りや不満や悲しみを映している人でしょうか。
  • 「あなたが神の臨在の中でどれだけの時間を過ごしているのか、私は知りません。ただ一つ知っているのは、少ないなら、もっと増やしなさい。多いなら、もっともっと増やしなさい、ということです。」
  • 私たちの神は、石や木でできた遠い神ではなく、私たちの人生の中で働かれる神です。神とともに時間を過ごす人は、いつも変えられて出てきます。罪が明らかにされて涙のうちに告白し、受けた恵みが大きくなり、心は満たされ感謝にあふれて帰っていき、苦々しさや不安は静められます。
  • ピリピ人への手紙4章6節から7節の約束です。どんなことでも、必要なことを神に知っていただくなら、すべての理解を超える神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださいます。「そこから出てきて同じままなら、それは神の臨在の中にいなかったということです。」

5. モーセとエリヤ:聖書の中心におられるキリスト

  • 「すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであった。」この二人の姿に戸惑う人は少なくありません。説教者は、彼らがペテロ、ヤコブ、ヨハネに語りかけているのではなく、栄光に輝くイエスと語り合っているのだと強調します。
  • モーセは律法を、エリヤは預言者たちを表し、つまり聖書を表しています。イエスご自身も、「律法と預言者」に書かれていることについて語っておられました。
  • モーセとエリヤは、イエスについて語るために来ました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)。
  • イエスは聖書の中心人物です。旧約聖書でも新約聖書でも、そこにキリストを探しながら読んでください。命はこの方の中にあるからです。すべての物語には目的があり、その目的はイエス・キリストを中心としています。

6. 救いの計画の中心にある十字架

  • モーセとエリヤは「栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最期のことを語っていた」(31節)。二人はピリポ・カイザリヤの近くにいて、エルサレムでのイエスの死について語っています。
  • 創世記では、堕落のあとすぐに、女の子孫が蛇の頭を踏み砕き、蛇は彼のかかとを傷つけると神が告げておられます。苦しみはすでにそこにありますが、ほとんど気づかれないほどです。やがて旧約聖書全体がそれをますます多く語り、イザヤは十字架刑の様子を描くところにまで至ります。
  • ペテロは三つの仮小屋を建てようと提案します。イエスに一つ、モーセに一つ、エリヤに一つ。皆を同じ高さに置いたのです。しかし本文は、ペテロが「自分でも何を言っているのか、わからなかったのである」(33節)と記しています。イエスはモーセとも、エリヤとも同等ではありません。
  • 雲の中から声がします。「これはわたしの選んだ子である。これに聞け」。モーセとエリヤは消え、「イエスはひとりだけになっておられた」。ヘブル人への手紙はこう始まります。神は、昔は預言者たちによって語られましたが、この終わりの時には御子によって私たちに語られました。
  • 「聖書は私のことを語っているのではなく、キリストのことを語っています。私の苦しみではなく、キリストの苦しみを語っています。」聖書は私たちが何者であるかを明らかにしますが、中心におられるのはイエスであり、中心となるみわざは、あなたのための十字架の死です。

7. 目を覚まして、その栄光を見る

  • 本文によれば、ペテロとその仲間たちは眠気に襲われていましたが、目を覚ますと、イエスの栄光を見ました。
  • 説教者の願いは、一人ひとりが「今日この日に」目を覚ますことです。神の臨在の中にいることの大切さ、人生の中心にキリストを置くこと、自分の功績ではなく十字架によって救われ赦されていることが、まだ見えないなら、まだ眠っているのです。
  • 「主が私たちの心を目覚めさせてくださいますように。」目覚めた心は、神の栄光を見、その栄光に生き、その栄光を映すからです。

要点

  • 変貌は、イエスが祈っておられるときに起こります。祈りとは神との親しい交わりの時であり、急いで並べる願い事の一覧ではありません。
  • 山の上で弟子たちが見たのは、栄光に輝く神としてのイエスです。舟の中で眠る疲れた先生だけではありません。
  • 神の御前から、人は同じままでは出てきません。そこにとどまる人は、周りの人にその栄光を映します。
  • 律法と預言者であるモーセとエリヤは、キリストをあかししています。聖書全体がこの方を指し示しています。
  • 十字架は救いの計画の中心にあります。私たちはイエスの死によって救われ赦されたのであり、自分の功績によるのではありません。

自分に当てはめてみましょう

  1. イエスとともに歩んできた中で、最も心に刻まれ、この方がどなたなのかをより深く悟らされた体験は何ですか。
  2. 今のあなたの祈りの時間はどのようなものですか。神との親しい交わりの時ですか。それとも、走りながら唱える一覧ですか。
  3. 周りの人、とくに信じていない人があなたを見るとき、そこに見えるのは神の平安ですか。それとも世の怒りや悲しみですか。
  4. 聖書を開くとき、まず自分に関わることを探していますか。それともキリストを探していますか。
  5. 神の臨在の中で過ごす時間が少ないなら、もっと増やすために、今週どの時間を神にささげることができますか。

引用した聖書箇所

よくある質問

変貌の山では何が起こったのですか。

イエスは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られます。祈っておられるうちに、みかたちが変わり、衣が白く輝きます。モーセとエリヤが現れ、エルサレムでのイエスの死について語り合い、やがて雲の中から声がします。「これはわたしの選んだ子である。これに聞け」。この記事はルカ9:28-36にあり、マタイとマルコにも記されています。

なぜモーセとエリヤがイエスとともに現れるのですか。

説教者によれば、モーセは律法を、エリヤは預言者たちを表し、つまり聖書を表しています。二人は弟子たちにではなくイエスに語りかけ、その死について語っています。聖書全体がキリストをあかしし(ヨハネ5:39)、十字架が救いの計画の中心にあることを告げています。

ペテロが三つの仮小屋を建てようとしたのは、なぜ間違いだったのですか。

イエスに一つ、モーセに一つ、エリヤに一つの仮小屋を提案することで、ペテロは皆を同じ高さに置いていました。本文は、ペテロが自分でも何を言っているのかわからなかったと記しています。イエスはモーセともエリヤとも同等ではありません。二人は消え、イエスだけが残り、神はこの方に聞くようにと言われます。

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