エフェソへのイエスの呼びかけ:初めの行いに立ち返れ

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はじめに

自分のクリスチャン生活が堂々巡りをしていると気づく朝があります。賛美し、祈り、礼拝に出席していても、何かが消えてしまっているのです。教理が変わったわけではありません。愛が冷え、それに伴う行いが薄れてしまったのです。

これはまさに、イエス様が黙示録2章でエフェソの教会に指摘されたことです。イエス様は彼らの働きや忍耐を否定されたわけではありません。むしろこう言われました。「どこから落ちたのかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」サミュエル・ヨー牧師はこのみことばを取り上げ、神が理由なくご自身を現されることは決してないと語りました。神があなたに語られるとき、それは、信仰がまだ新しかったころにあなたが行っていたことへと、あなたを引き戻すためなのです。

この記事では、この説教の要点をたどります。あなたご自身もこの呼びかけを聞き、それに応答できるようにするためです。

記事の構成

1. 神が現れるのには必ず目的がある

啓示とは、棚の上に飾っておくだけの経験では決してありません。それは、一つのいのち、一つの家族、一つの教会を変えるためにやって来ます。この説教者は箴言29:18を思い起こさせます。「幻がなければ民はほしいままにふるまう。」啓示がなければ、人は手探りで進み、やがて方向を見失ってしまいます。申命記29:29はこれを裏づけています。隠されていることは神のものですが、現されたことは私たちと私たちの子孫のためのものであり、それは私たちが律法のことばを行うためです。

言い換えれば、神があなたに現れるのは、あなたに感銘を与えるためではありません。あなたを再び前に進ませるためです。アブラハムが創世記22章で主のことばを受け取ったとき、それは単なる幻ではなく、彼の信仰を明らかにする具体的な命令でした。聖書がヨハネ3:16で、神がひとり子をお与えになったと語るとき、その賜物はすでにアブラハムがイサクをささげたことによって予表されていたのです。真の啓示はすべて、従順という応答を生み出します。

2. 黙示録の七つの教会が示す三つの姿

サミュエル・ヨー牧師は、黙示録2章と3章についての伝統的な読み方を取り上げます。ヨハネが見た七つの教会は、重なり合う三つの現実を示しています。

  • ペンテコステから主の再臨に至るまでのキリスト教会全体の姿。
  • 生まれ、成長し、また冷えてしまうこともあるそれぞれの地域教会の姿。
  • 始まりがあり、逸脱もありうる一人ひとりのクリスチャンの人生の姿。

エフェソはこの一連の教会の最初に登場します。この教会は多くの労苦をなし、偽教師を見抜き、苦難の中で忍耐してきました。それにもかかわらず、イエス様はこう言われます。「あなたに対して抱いていることがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」この診断は、燭台の間を歩まれる方の口から出たものであるだけに、重く響きます。活動が愛の代わりになってしまったのです。本来は、愛が活動を養うべきだったのに。

3. 思い出し、悔い改め、初めの行いをやり直す

その解決策は、黙示録2:5で連続して語られる三つの動詞にあります。思い出しなさい、悔い改めなさい、行いなさい。この順序を飛ばすことはできません。思い出すとは、自分がどこから落ちたのかを正直に見つめることです。悔い改めるとは、規則にではなく、神ご自身に立ち返ることです。初めの行いをするとは、信仰が生き生きとしていたころに行っていたことを、そのまま再び始めることです。

この説教者は強調します。悔い改めとは、まず第一に禁止事項のリストではありません。飲酒をやめる、喫煙をやめる、ある行動をやめる、というようなことではないのです。人は救われていなくても、正しく生きることができます。真の悔い改めとは、心の向きが変わることであり、神が私たちに与えてくださった啓示、私たちが脇に置いてしまった啓示へと立ち返ることです。

4. 教会の初めの行いとは何だったのか

では、その初めの行いとは何だったのでしょうか。それを想像で作り出す必要はない、とサミュエル・ヨー牧師は言います。それは福音書と使徒の働きに、はっきりと書き記されているからです。ペンテコステの日、教会は祈り、分かち合われたみことば、パンを裂くこと、兄弟姉妹の交わり、そしてすべての民族への福音の宣言を中心に生まれました。

最初の行い、それは御国の宣言です。イエス様ご自身がマタイ4:17でこう言われます。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」使徒2章は国境を越えていく教会を、使徒8章はサマリア人のもとへ行くピリポを示し、その後の書全体は福音が諸国民のもとへと走り出していく様子を示しています。この使命は牧師や長老だけのものではありません。すべてのクリスチャンが、自分の地域で、職場で、家族の中で、その証人となるよう召されているのです。

5. 御霊が諸教会に告げることに耳を傾ける

黙示録2章と3章では、同じことばが七回繰り返されます。「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。」このフレーズは決まり文句ではありません。それは、しばらく黙り、言い訳を手放し、御霊が今日あなたに語られることを受け取りなさい、という招きです。もしかすると、あなたはすでに正しい場所にいるのかもしれません。あるいは、あなたが手放してしまった一歩へと、御霊があなたを引き戻そうとしておられるのかもしれません。祈りの時間、ある奉仕、和解、赦し、先延ばしにしてきた証しなどです。

要点のまとめ

  1. 神が理由なくご自身を現されることは決してありません。すべての啓示は、あなたを再び前に進ませるためにあります。
  2. クリスチャンとしての活動は、初めの愛の代わりにはなりません。活動は愛から生まれるものです。
  3. 聖書的な悔い改めとは、単なる道徳ではありません。それは、受け取った啓示へと心が立ち返ることです。
  4. 教会の初めの行いとは、御国の宣言、祈り、みことば、交わりです。
  5. 主の再臨は近づいています。それだけでも、あなたが手放してきたことを今日から再び始める十分な理由になります。

個人への適用

  1. あなたが信仰を持ち始めたころにあった「初めの行い」で、消えてしまったものは何ですか。
  2. 今のあなたのクリスチャン生活は、習慣による奉仕に近いですか、それとも愛への応答に近いですか。
  3. あなたが最後に誰かにイエス様の福音を分かち合ったのはいつですか。
  4. 神から受け取った啓示のうち、まだ具体的な応答を待っているものは何ですか。
  5. 今週、あなたが手放してしまったことを再び「行う」ために、具体的な一歩を書き出す備えはできていますか。

引用聖句

よくある質問

黙示録2:5の「初めの行いに戻る」とはどういう意味ですか。

それは、信仰が生き生きとしていたころに行っていた実践、すなわち祈り、聖書を読むこと、証し、奉仕、兄弟姉妹の交わりへと立ち返ることを意味します。イエス様は新しい行いを作り出すようにと求めておられるのではなく、手放してしまった行いを再び行うようにと求めておられるのです。

悔い改めとは、悪を行うのをやめることですか。

それだけではありません。多くの人が、救われていなくても正しく生きています。聖書的な悔い改めとは、心の向きが変わることであり、それによってあなたは神と、神が与えてくださった啓示へと立ち返るのです。ある罪をやめることはその一部ではありますが、それが本質ではありません。

教会の「初めの行い」とは具体的に何ですか。

使徒の働きはそれを描いています。すべての民族への福音の宣言、祈り、使徒たちの教え、兄弟姉妹の交わり、パンを裂くことです。最初の行いは御国の宣言であり、それは教会の責任者だけでなく、すべてのクリスチャンに関わることです。

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