人生にはいくつかの季節があります。ある季節は明るく輝いています。すべてがうまくいき、神様は祈りに応えてくださり、私たちの信仰はのびのびと息をしています。しかし別の季節は、まるで壁にぶつかったかのようです。病が襲い、悪い知らせが届き、信仰が重圧の中に置かれます。マルコの福音書に登場するヤイロは、まさにこのような嵐の中で私たちの前に現れます。会堂司であり、人々から尊敬される人物であり、幼い娘が死にかけている父親です。そのヤイロの前に、イエス様は道すがら、幾世紀を貫くこの言葉をかけられます。「恐れないで、ただ信じていなさい」(マルコ5:36)。
1. 信仰があなたをひざまずかせるとき
ヤイロは「重要な人物」でした。会堂司であり、律法の番人である彼は、ひそかに望みを抱くだけで済ませることもできたはずです。しかし、娘が重い病にかかり、死にかけていると知ったとき、彼は自分の社会的立場からすればほとんど考えられないような行動に出ます。
「すると、会堂管理者の一人でヤイロという者が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏し、しきりに願って言った。『私の小さい娘が死にそうです。どうか、おいでになって、娘の上に手を置いてやってください。そうすれば、娘は治って、生きるでしょう』」(マルコ5:22〜23、新改訳)
宗教指導者がイエス様の足もとにひれ伏す。これはひとつの行動そのものが説教です。痛みがあまりにも重くなるとき、誇りは崩れ落ちます。残るのは本質だけです。「この方にはできる。だから私はこの方のもとに来る」。真実の信仰は、あなたを立たせる前に、まずひざまずかせるのです。
2. 神が他の誰かのために立ち止まられるとき
イエス様はヤイロと共に歩き出されます。ヤイロの安堵が想像できます。「イエス様が来てくださる。娘は助かる」と。しかし、道の途中ですべてが中断します。十二年間病を患っていた女性がイエス様の衣に触れ、癒やされます。そしてイエス様は、その女性のために立ち止まられます。彼女に会い、語りかけ、人々の前で立たせようとされるのです。
この女性は、社会的には汚れた者とみなされていました。もし癒やされないままイエス様に触れていたなら、石打ちにされる危険さえありました。ですから、イエス様が立ち止まられたのは、単に奇跡のためだけではありません。彼女を守り、立ち上がらせるためだったのです。その瞬間、イエス様の優先事項は、この女性でした。
一方、ヤイロは待つしかありません。娘は死にかけているのに、イエス様は別の人に語る時間を取っておられます。この場面は、私たちにもしばしば重なります。神様は自分以外のすべての人の世話をしているように見えることがあるのです。しかし、これを覚えておいてください。あなたの緊急事態は、神様の緊急事態ではありません。神様は決して遅れて来られることはありません。神様の栄光が現れる、まさにその時に来られるのです。ラザロもまた死にかけていましたが、イエス様はさらに二日そこにとどまられました(ヨハネ11:6)。それは無関心だったのではなく、父なる神のテンポだったのです。
3. 命を奪うような知らせが届くとき
イエス様がまだ話しておられる間に、ヤイロの家から人々がやって来ます。
「あなたの娘さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことはありません」(マルコ5:35、新改訳)
すべてを閉ざしてしまうかのような一言です。ヤイロの信仰は、たった今、目の前で起きた奇跡を見たばかりでした。それなのに、次の瞬間には、押しつぶすような知らせが届きます。使者たちのメッセージは明確です。「もうやめなさい。何の意味もありません」。
私たちもしばしばこの声を耳にします。「祈っても無駄だ。何も変わらない」。「そんなことで神様を煩わせるな」。気をつけてください。周りにある意見のすべてが良い助言とは限りません。すべての助言が、あなたの今の季節にふさわしいわけではありません。人からの言葉は、たとえ善意からのものであっても、神様がまだ開いておられる扉を閉じようとすることがあります。他人があなたの状況をどう思うかではなく、神様があなたに語ろうとしておられることに堅く立ちましょう。
4. 「恐れないで、ただ信じていなさい」
イエス様はその知らせを耳にされます。そして、恐れがヤイロの心を支配してしまう前に、こう語られます。
「イエスはその話をそばで聞いて、会堂管理者に言われた。『恐れないで、ただ信じていなさい』」(マルコ5:36、新改訳)
この命令は、二段階から成っています。まず「恐れるな」。次に「ただ信じなさい」。なぜこの順番なのでしょうか。それは、恐れが信仰を阻むからです。人は、心から信じることと恐れることを、同時に行うことはできません。恐れは人を麻痺させ、閉じ込め、息をすることさえ妨げます。ですから、イエス様はまず恐れを取り除いてから、信じるようにと求められるのです。
「ただ信じなさい」。イエス様は宗教的な曲芸を求めておられるのではありません。石の上をひざで這って進むことも、すべてを理解することも求めておられません。ただ信じるとは、すべてを知っている必要がないということです。信頼する前に説明を求めなくてよいということです。私たちが目にするものよりも、イエス様がどのような方であるかに拠り頼むことなのです。
もし今日、あなたの信仰が冷えきってしまっているとしても、自分を責めないでください。ヤイロもすでに一度、イエス様の足もとにひれ伏すことで信じていました。それでもイエス様は再び来て、「ただ信じなさい」と語られます。イエス様はいつも戻って来られ、あなたの信仰を、時には以前よりも高い次元へと再び燃え立たせてくださるのです。
5. あなたの霊的な環境を守りなさい
この後の展開は、とても具体的です。
「そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂管理者の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめき、騒いでいるのをご覧になり、中に入って、彼らに言われた。『なぜ泣き騒いでいるのですか。子どもは死んだのではありません。眠っているのです』。人々はイエスをあざ笑った」(マルコ5:37〜40、新改訳)
イエス様は、あざける人々を外に出されます。それは暴力によってではなく、知恵によってです。信仰が働くためには、信仰にふさわしい環境が必要です。ヤイロには、自分の信仰を笑う人々ではなく、共に信じてくれる人々に囲まれることが必要でした。
あなたには、誰があなたの人生について語り、誰があなたのために祈るかを選ぶ権利があります。あなたを落胆させる声、あなたを見下すような言葉、あなたの信頼を蝕むあざけりを、(物理的にではなく、心の中で)「外に出す」ことができます。霊的な環境を守ることは贅沢ではなく、必要なことです。それは、あなたが見るもの、スクロールするもの、目と耳から入れているものにも当てはまります。
6. 「タリタ、クム」:権威ある言葉、預言的なしるし
部屋は空にされ、両親が立ち会い、三人の弟子たちが証人として見守る中、イエス様は幼い娘の手を取られます。
「そして子どもの手を取って、『タリタ、クム』と言われた。これは訳すと、『少女よ、あなたに言う。起きなさい』という意味である。すると、少女はすぐに起き上がり、歩き出した。十二歳だったからである」(マルコ5:41〜42、新改訳)
霊的な曲芸は必要ありません。単純で、明確で、権威ある一言。「少女よ、起きなさい」。すると、彼女は起き上がるのです。
この出来事は、単なる個人的な奇跡以上のものです。それは預言的なしるしです。イエス様はすでに、この幼い娘の部屋の中で、ご自分が過越の時に成し遂げること、すなわち死に打ち勝つことを告げておられるのです。パウロは、それを別の言葉で語ります。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか」(コリント第一15:54〜55、新改訳)
死は「消し去られた」わけではありません。死は今も存在しています。しかし、死はもはや最後の言葉を持っていません。イエス様にあって、死は勝利にのみ込まれたのです。
7. 信仰は苦しみを否定しない
ここで大切な補足をしておきます。信じるということは、苦しみがもう存在しないふりをすることではありません。悲しみには、それぞれの時間があります。一か月、一年、十年、時には生涯にわたることもあります。苦しみには、それにふさわしい期間があり、誰にもそれを他人の中で急がせる権利はありません。信仰は痛みを消し去るのではなく、生きた希望をもってそれに寄り添います。イエス様はすでに勝利しておられ、日々新たに、あなたの本当の必要に出会いに来てくださるのです。
覚えておきたいポイント
- 真実の信仰は、あなたを立たせる前に、まずひざまずかせます。それはあなたの立場によるのではなく、ありのままの姿でイエス様のもとに来るものです。
- あなたの緊急事態は、神様の緊急事態ではありません。神様は決して遅れることなく、最善の時に来られます。
- 恐れは信仰を阻みます。イエス様はまず「恐れるな」と言われ、それから「ただ信じなさい」と言われます。
- ただ信じるとは、すべてを理解する必要がないということです。
- あなたの霊的な環境を守りましょう。共に信じてくれる人々に囲まれてください。
- 苦しみにはまだその季節があるとしても、イエス様にあって、死はすでに勝利にのみ込まれています。
個人へのアプリケーション
- あなたの人生の中で、どの「緊急事態」が、神様は遅れているという印象を与えていますか。もし神様が最善の時に来られると信じるなら、あなたの信仰はどう変わるでしょうか。
- 今、恐れはどこであなたの信仰を窒息させようとしていますか。今日、イエス様の前に何を差し出すべきでしょうか。
- あなたの周りにある声、またはあなたが日々触れているものの中で、あなたの信仰をあざけり、希望を消そうとするものは何ですか。霊的な環境から何を「外に出す」べきでしょうか。
- ペテロ、ヤコブ、ヨハネがヤイロと共に部屋に入ったように、誰にあなたと共に信じてほしいと頼むことができますか。
- もしあなたが今、悲しみや苦しみの季節を通っているなら、「恐れるな、ただ信じなさい」という言葉を、どのように受け止めますか。
引用された聖句
FAQ
マルコ5:36の「ただ信じなさい」とはどういう意味ですか。
ただ信じるとは、霊的なパフォーマンスを行うことではありません。それは、すべてを理解することを求めずに、イエス様に信頼することです。イエス様はまず恐れを取り除いてから(「恐れるな」)、単純な信頼へと招かれます。
なぜイエス様は、急いでヤイロの家に行く代わりに、病気の女性のために立ち止まられたのですか。
神様の緊急事態は、私たちの緊急事態とは異なるからです。イエス様は決して気を取られることなく、ご自分の栄光が同時に複数の人生の中に現れるよう、最善の時に行動されます。この立ち止まりは、ヤイロにとっては信仰の学びであり、その女性にとっては救いの癒やしでした。
ヤイロの娘の部屋でイエス様がなさったように、自分の霊的な環境をどう守ればよいですか。
共に祈ってくれる人々を選ぶこと、そして目と耳から何を入れるかを選ぶこと、その両方によってです。あなたの信仰や希望をあざける声を、(物理的にではなく、内面において)遠ざける権利があなたにはあります。
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