聖書 — 口語訳 (1955)
ヘブル人への手紙 10
概要
ヘブル人への手紙10章は、この手紙の大きな論証を締めくくります。古い契約のいけにえは罪を除くことができませんでしたが、イエスはただ一度、永遠のいけにえをささげ、神の右に座されました。この確信から、一つの招きが生まれます。まごころをもって神に近づくこと、望みをしっかりと持ち続けること、互いに気を配ること、集会をやめないことです。この章には、恵みをことさらに退ける人への厳しい警告もあり、続いて忍耐への呼びかけがあります。「わが義人は、信仰によって生きる」からです。
この章の5つの区分
1いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。
2もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。
3しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。
4なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。
5それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。
6あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。
7その時、わたしは言った、『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」。
8ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、
9次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。
10この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。
11こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。
12しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、
13それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。
14彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。
15聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、
16「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」と言い、
17さらに、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と述べている。
18これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない。
19兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、
20彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、
21さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、
22心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。
23また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、
24愛と善行とを励むように互に努め、
25ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。
26もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。
27ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。
28モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、
29神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。
30「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。
31生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。
32あなたがたは、光に照されたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。
33そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。
34さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。
35だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。
36神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。
37「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。
38わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。
39しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。
鍵となる聖句
この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。
きよめは私たちの努力の結果ではありません。イエスのからだがただ一度ささげられたことによって与えられます。この章の残りのすべては、この土台の上に立っています。
しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、
毎日同じいけにえをささげる祭司たちと違い、イエスはただ一つのいけにえをささげたのち、座されました。この姿は、わざが完成していて、付け加えるものが何もないことを語っています。
また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、
望みを持ち続けるとは、楽観的な気持ちを無理に抱くことではありません。持ち続ける理由は節の後半に示されています。約束をして下さった方が忠実だからです。
ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。
キリスト者の歩みは、一人で生きるようには造られていません。信じる人々は集まり、互いに励まし合うよう招かれています。かの日が近づいているからこそ、なおさらです。
神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。
神の御旨を行ったあとにも、約束のものを受けるために、忍耐が必要です。この節は、すでに多くを耐え忍んできた疲れた信仰者たちに向けられています。
説教が語っていること
ヘブル人への手紙10章についてよくある質問
ヘブル人への手紙10章25節の集会についてはどういう意味ですか
この節は、信じる人々に、集まることをやめないよう、また互いに励まし合うよう勧めています。外から課された義務ではなく、必要を語っています。人は周りに仲間がいるほうが、信仰に立ち続けやすいものです。かの日が近づいているからこそ、互いの励ましはなおさら大切だと述べられています。
ヘブル人への手紙10章の中心的なメッセージは何ですか
律法のいけにえは繰り返されなければなりませんでしたが、イエスは罪を除くために、ただ一度で十分ないけにえをささげられました。ですから信じる人は、確信をもって神に近づき、望みを持ち続け、共同体にとどまり、試練の中でも信仰によって忍耐することができます。この章には、この恵みをことさらに退けることへの警告も含まれています。
「はばかることなく聖所にはいる」とはどういう意味ですか
神殿では、最も奥の聖所は幕で隔てられ、大祭司だけが年に一度入ることができました。手紙の著者は、イエスの血によって、この入口が今はすべての信じる人に開かれていると語ります。これは、キリストがその死によって開かれた、神への直接の道を表す姿です。
ヘブル人への手紙10章26節は、救いを失うことがあるという意味ですか
キリスト教の伝統は、この箇所を同じようには読んでいません。キリストから自ら離れていく信じる者への現実の警告と見る人もいれば、本当には信じたことのなかった人々の描写と見る人もいます。主要な点では一致しています。この本文は、イエスのいけにえを意図的に軽んじることへの警告であり、信仰への励まし(39節)で終わります。
ヘブル人への手紙 10を引用している記事
口語訳(1955年)— パブリックドメイン。