聖書 — 口語訳 (1955)
ヘブル人への手紙 9
概要
ヘブル人への手紙9章は、第一の契約の礼拝とキリストのみわざを比べます。地上の幕屋には聖所と至聖所があり、大祭司は年に一度だけ血を携えてそこに入りましたが、それは影にすぎませんでした。キリストは、ご自身の血によって一度だけ真の聖所に入り、永遠のあがないを成し遂げられました。キリストは新しい契約の仲保者であり、その契約はご自身の死によって確立されました。章は、キリストのただ一度の犠牲と、待ち望む人々のために、罪を負うためではなく再び来られることで結ばれます。
この章の4つの区分
1さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった。
2すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンとが置かれていた。これが、聖所と呼ばれた。
3また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。
4そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、
5箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。これらのことについては、今ここで、いちいち述べることができない。
6これらのものが、以上のように整えられた上で、祭司たちは常に幕屋の前の場所にはいって礼拝をするのであるが、
7幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。
8それによって聖霊は、前方の幕屋が存在している限り、聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示している。
9この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない。
10それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いごとに関する行事であって、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎない。
11しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、
12かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
13もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、
14永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。
15それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。
16いったい、遺言には、遺言者の死の証明が必要である。
17遺言は死によってのみその効力を生じ、遺言者が生きている間は、効力がない。
18だから、初めの契約も、血を流すことなしに成立したのではない。
19すなわち、モーセが、律法に従ってすべての戒めを民全体に宣言したとき、水と赤色の羊毛とヒソプとの外に、子牛とやぎとの血を取って、契約書と民全体とにふりかけ、
20そして、「これは、神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言った。
21彼はまた、幕屋と儀式用の器具いっさいにも、同様に血をふりかけた。
22こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。
23このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。
24ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。
25大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。
26もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。
27そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、
28キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。
鍵となる聖句
かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
キリストは、動物の血ではなくご自身の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠のあがないを成し遂げられました。そのみわざに付け加えるものは何もありません。
永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。
動物の血が外側をきよめたのに対し、キリストの血は、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、信じる人が生ける神に仕える者となるようにします。赦しは奉仕へと導きます。
こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。
律法のもとでは、ほとんどすべての物が血によってきよめられ、血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ませんでした。この原則が、十字架が福音の中心である理由を説明しています。
そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、 キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。
人間は一度だけ死に、そのあとさばきを受けます。同じようにキリストも一度だけご自身をささげ、待ち望んでいる人々に救いを与えるために、再び現れてくださいます。
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説教が語っていること
ヘブル人への手紙9章についてよくある質問
ヘブル人への手紙9章22節の「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」とはどういう意味ですか。
第一の契約のもとでは、犠牲の血が、きよめと赦しを得るために用いられ、罪の重大さを示していました。本文は、この原則がキリストにおいて成就したと語ります。キリストの血は、一度で永遠に流されました。もはや犠牲を繰り返す必要はありません。
キリストの犠牲と、古い契約の犠牲はどう違いますか。
古い犠牲は毎年繰り返され、外側しかきよめることができませんでした。キリストは、傷のないかたとして永遠の聖霊によってただ一度ご自身をささげられ、その血はわたしたちの良心をきよめます。キリストは、人の手で造られた聖所ではなく、天そのものに入られました。
ヘブル人への手紙9章27節の、死とさばきについての言葉はどういう意味ですか。
この節は、人間は一度だけ死ぬことが定められており、そのあとにさばきがあることを思い起こさせます。死後に第二のチャンスがあるという考えを退けています。文脈は希望を与えます。キリストは多くの人の罪を負われ、待ち望む人々のために再び来られるのです。
ヘブル人への手紙 9を引用している記事
口語訳(1955年)— パブリックドメイン。