はじめに
宗教の創始者も、哲学者も、皇帝も、賢者も、誰ひとりとして口にすることができなかった言葉があります。イエス・キリストだけが、ご自分の口でこう言い切ることができました。「わたしは死んでいたが、見よ、世々限りなく生きている」(ヨハネの黙示録1章18節)。
歴史上の偉大な霊的指導者たちは、皆亡くなりました。彼らの墓は今も存在し、人々はそこへ巡礼に行き、遺骨を目にすることができます。しかし人類の歴史全体の中で、ただひとりだけ、こう言える方がいます。「わたしは死んでいたが、今は永遠に生きており、死の鍵を握っている」と。その方こそイエスです。もしあなたがクリスチャンなら、イースターに祝っているのはこの方です。
セレスタン・ヤオ牧師(インパクト・サントル・クレティエン)は、この教えの中で、ヨハネの黙示録1章12節から18節の核心へと連れ戻します。復活について漠然とした黙想を語るためではなく、イエスご自身の宣言をあなたに聞かせるためです。この宣言は、あなたが人生や試練、そして死そのものにどう向き合うかを変えるものです。
この教えの構成
1. 迫害のただ中で自らを現されるキリスト
黙示録1章18節の力を理解するには、まず文脈に立ち返る必要があります。時は紀元70年頃。ローマ皇帝ネロは、キリスト者を迫害することを自らの使命としていました。帝国全土で、すべての民に「アクシオス(皇帝は価値ある方だ)」と唱えることが求められていました。つまり、皇帝こそがあなたの賛美を受けるにふさわしく、皇帝こそがあなたの礼拝を受けるにふさわしいということです。
しかし、それを拒む民がいました。贖われた民は、あえてこう答えたのです。「価値ある方はただひとり。それは皇帝ではない。イエス・キリストだ」と。この告白には大きな代償が伴いました。彼らは闘技場に投げ込まれ、獰猛な獣にさらされ、公開の見世物として競技場で処刑されました。
使徒たちは次々と倒れていきました。ヤコブが最初に殺され、ペトロは主と同じように死ぬにはふさわしくないと言って、逆さ十字架にかけられました。ほとんど誰も残っていませんでした。そこで最後に残ったヨハネを、人々は寂れた島パトモスに追放し、孤独の中で死なせ、運動そのものを終わらせようとしたのです。
まさにその島で、生まれたばかりの教会が最も暗い時を迎えていたその瞬間に、イエス・キリストご自身がヨハネに現れてくださいました。教父テルトゥリアヌスが語ったように、「クリスチャンの血は種である」のです。血が流されればされるほど、そこから新しい命が芽生えていきました。
2. どんなメッセージよりも先に、まず自己紹介
イエスがヨハネに現れたとき、まず時間をかけてご自分を紹介されました。アジアの七つの教会への手紙を語る前に(黙示録2章から3章)、これから起こる出来事を明らかにする前に(黙示録4章から5章)、イエスはご自分の教会全体を象徴する七つの金の燭台の真ん中に立たれました。
最後の晩餐でイエスの胸に頭をもたせかけたあのヨハネでさえ、もはやその姿を見分けることができませんでした。頭と髪は雪のように白く、目は燃える炎のようで、足は炉で精錬されたように輝く真鍮のようで、顔は力強く輝く太陽のようでした。ヨハネは死んだ者のようにその足もとに倒れ伏しました。
すると、イエスは右手を彼の上に置いてこう言われました。「恐れるな。わたしは最初の者、最後の者であり、また生きている者である」と。そして中心となる宣言が続きます。「わたしは死んでいたが、見よ、世々限りなく生きている。わたしは死と陰府の鍵を持っている」。
キリストが成し遂げられたみわざのすべてが、この一節に凝縮されています。そしてこれは、あなたにとっても真実です。あなたが困難な時を過ごし、すべてが崩れ落ちそうに感じるとき、イエスはいつも燭台の真ん中に立っておられます。ご自分の教会の真ん中を歩いておられます。あなたの課題を知っておられ、あなたの不安をご存じです。イエスはそこにおられます。
3. 「わたしは死んでいた」、それは一度限りの出来事、ご自身が捧げられた犠牲
セレスタン牧師は、この動詞の時制を強調します。イエスは「わたしは死んでいる」とは言われませんでした。まるで永遠に死んだままであるかのように。イエスは「わたしは死んでいた」と言われました。これは歴史の中のある特定の瞬間に成し遂げられた、一度限りの出来事です。十字架があったのです。
そしてこの十字架は、あなたの同情を引き出すための場面ではありません。それは、あなたに対する神の愛の究極の表現、その愛の極みなのです。誰もイエスから命を奪ったのではありません。イエスご自身がその命を差し出されたのです。ヨハネによる福音書10章17節から18節でこう語っています。「だれも私からそれを奪い取るのではなく、私が自分でそれを捨てるのである。わたしにはそれを捨てる権威があり、またそれを再び受ける権威がある」。
父なる神が許さなければ、そしてイエスご自身が最後まで従わなければ、誰もイエスを殺すことはできませんでした。十字架は、イエスに押しつけられた敗北ではありません。それは、あなたに代わって神の義の求めに応えるために、愛によってご自分が捧げられた犠牲なのです。
ゴルゴタへと向かう道すがら、泣いている女たちにイエスはこう言われました。「わたしのために泣くな。むしろ、自分自身のため、自分の子供たちのために泣け」。イエスは誰の同情も必要としていませんでした。イエスは、地上に来られた使命をまさに果たしておられたのです。
4. 「わたしは世々限りなく生きている」、他とは違う復活
ここで、この宣言は驚くべきものになります。イエスは単に「わたしは生きている」とは言われませんでした。「わたしは世々限りなく生きている」と言われたのです。つまり、永遠にということです。
聖書が語る他の復活との違いを測る必要があります。ラザロはイエスによってよみがえらされましたが、後に再び死を迎えました。タビタ(ドルカス)はペトロによってよみがえらされましたが、その後また亡くなりました。死には彼らにこう言う権利がありました。「お前はただ延長を得ただけだ。いずれまた迎えに来る」と。
しかしイエスに関しては、そうではありません。パウロがローマの信徒への手紙6章9節で語るとおりです。「わたしたちは、キリストが死者の中から復活させられて、もはや死ぬことがなく」。イエスは死者の中からの初穂です。わたしたちの原型です。今イエスが持っておられる栄光の体、壁を通り抜け、弟子たちと共に食事をし、ある場所から別の場所へと現れることができるあの体は、いつの日かわたしたちも持つことになる体です。
そしてイエスが永遠に生きておられるからこそ、あなたの人生の中で死んでいるように見えるすべての状況も、イエスの手の届かないところにはありません。イエスは聖霊によって手を伸ばし、あなたの家庭、あなたの計画、あなたの健康、あなたの召命の中で取り返しがつかないと思われていたものを起こし、よみがえらせてくださいます。
5. 「わたしは死と陰府の鍵を持っている」
鍵は権威の象徴です。鍵を持つ者が所有者です。誰の許可も求めることなく、出入りすることができます。
十字架の前には、セレスタン牧師が「悪魔的な三位一体」と呼ぶものが存在していました。まずサタンです。罪を通して人を神から引き離します。罪の報酬は死だからです(ローマの信徒への手紙6章23節)。次に死です。神から引き離された人を迎えに来ます。そして陰府(ヘブライ語でシェオル、ギリシャ語でハデス)です。そこには身分の区別なくすべての魂がとどめ置かれ、場所を移ることは不可能で、人間のあらゆる試みをもってしても崩すことのできない場所でした。
イエスご自身が、ルカによる福音書16章で、ラザロと金持ちの話を通してこの場所を描いておられます。金持ちは苦しみの中で、ラザロに指先を水に浸させて自分の舌を冷やしてほしいと懇願します。しかし不可能です。両者の間には大きな淵があり、誰も渡ることができません。「人間には、一度だけ死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ人への手紙9章27節)。
しかしイエスが死に、下方の場所へと下られたとき、すべてが変わりました。三日後、聖霊がイエスの体に再び命を与えられました。そしてイエスは文字どおり、陰府から鍵を奪い取られたのです。その日以来、主にあって死ぬ者は、もはやシェオルに下ることはありません。彼らはまっすぐ神のパラダイスへと行くのです。
だからこそイエスは、隣で十字架につけられた強盗にこう言うことができました。「あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいる」(ルカによる福音書23章43節)。ハデスにではなく、パラダイスにです。
6. 完全な権威、完全な勝利
イエスが十字架で、また復活によって成し遂げられたことは、イエスにサタンと死と陰府に対する絶対的な権威を与えています。イエスの御名が悪霊を追い出すのはそのためです。イエスの御名が病を癒やすのはそのためです。二人か三人がイエスの御名によって集まるとき、イエスがその中におられるのは、イエスが生きておられるからです。
だからこそパウロは確信を持ってこう叫ぶことができます。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(コリントの信徒への手紙一15章55節)。真の神の子にとって、死はもはや恐れの対象であってはなりません。死はもはやキリストに属する者たちをとどめておくことができません。
心に留めておきたいこと
- 歴史の中でただひとりだけ、「わたしは死んでいたが、見よ、世々限りなく生きている」と言えた方がいます。イエスには訪れるべき墓がありません。探すべき遺骨もありません。イエスは永遠に生きておられます。
- 十字架は受けた敗北ではなく、捧げられた犠牲です。誰もイエスから命を奪ったのではありません。イエスはあなたへの愛のゆえに、自ら進んでその命を差し出されました。
- イエスの復活は、ラザロやタビタの復活と比較できるものではありません。彼らは再び死を迎えました。しかしイエスは、永遠のためによみがえられたのです。
- イエスは死と陰府の鍵を持っておられます。権威の所在が変わったのです。もはやサタンが決めるのではありません。キリストが決めるのです。
- 復活以来、主にあって死ぬ者は陰府にではなく、まっすぐパラダイスへと行きます。それは十字架上の強盗になされた約束のとおりです。
あなたへの適用
- 今日、あなたの人生の中で「死んでいる」と感じられる状況(埋もれた夢、壊れた関係、揺らぐ健康、止まったままの計画)は何でしょうか。それを、死の鍵を握っておられる方にゆだねることをやめてしまってはいませんか。
- 十字架を思うとき、あなたはそれを同情を呼び起こす場面として見ていますか。それとも、あなたを愛するあまりご自分の命を捧げられた王の、自ら進んで選ばれた犠牲として見ていますか。
- あなたは人生の中で、誰に、あるいは何に対して「アクシオス(あなたはふさわしい)」と言っていますか。それはイエスに対してでしょうか。それとも、もっと目立たない「皇帝」、たとえばあなたのキャリア、イメージ、欲望、快適さに対してでしょうか。
- イエスが世々限りなく生きておられるという事実は、今週のあなたの祈り方をどのように変えるべきでしょうか。あなたはイエスの御名を呼び求めるとき、イエスが本当にそこにおられることを真剣に受け止めていますか。
- もしあなたがまだ個人的にイエスの命を受け取ったことがないなら、牧師が招いたように、今日あなたの心を開くことを妨げているものは何でしょうか。
引用された聖句
- ヨハネの黙示録1章12節から18節・パトモス島でヨハネに現された栄光のイエス
- ヨハネの黙示録4章11節・「わたしたちの主、また神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です」
- ヨハネによる福音書10章17節から18節・「だれも私からそれを奪い取るのではなく、私が自分でそれを捨てるのである」
- ローマの信徒への手紙6章9節から10節・「キリストが死者の中から復活させられて、もはや死ぬことがない」
- コリントの信徒への手紙一15章55節・「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」
- ルカによる福音書16章19節から31節・ラザロと金持ち
- ルカによる福音書23章43節・「あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいる」
- ヘブライ人への手紙9章27節・「人間には、一度だけ死ぬことが定まっている」
- ローマの信徒への手紙6章23節・「罪の報酬は死である」
よくある質問
なぜイエスは「わたしは死んでいる」ではなく「わたしは死んでいた」と言われたのですか。
それは、イエスの死が永続する状態ではなく、歴史の中のある瞬間に成し遂げられた一度限りの出来事だからです。イエスは十字架で実際に死に、実際に葬られましたが、三日目に実際によみがえられました。この動詞の時制は、死がすでにイエスの背後にあることを示しています。死はもはやイエスに対して力を持っていません。
「陰府」とは何ですか。またイエスはどのようにしてその鍵を手にされたのですか。
陰府(ヘブライ語でシェオル、ギリシャ語でハデス)とは、キリストの勝利以前に、すべての魂が下っていった場所を指します。イエスはルカによる福音書16章で、この場所が大きな淵によって二つの領域に分かれていると描いています。信じる者のための「アブラハムのふところ」と、それ以外の者たちのための苦しみの場所です。イエスが死んで下方の場所へ下られ、その後聖霊の力によってそこから出て来られたとき、イエスはその場所から権威を奪い取られました。それ以来、キリストにあって死ぬ者は、まっすぐ御父のもとのパラダイスへと行きます。
具体的に、これは今日の私にとって何を変えるのですか。
少なくとも三つのことがあります。まず、あなたがキリストにあるなら、もはや死を恐れる必要はありません。死はもはや最後の言葉ではないからです。次に、あなたはイエスが本当に生きておられ、そこにおられ、行動することがおできになるという確信を持って祈ることができます。イエスは宗教的な思い出ではありません。最後に、あなたの人生の中で死んでいるどんな状況も、死の鍵を握っておられる方にとって大きすぎることはありません。取り返しがつかないと思われたものも、イエスを死者の中からよみがえらせたのと同じ御霊によってよみがえらせることができるのです。
メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。