恵みの傷跡

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はじめに

傷には、痛みをもたらすものと、いのちを救うものがあります。聖餐式の時、エグリーズ・ニース・メトロポールでは、ナディーヌ・ドゥモジェがその象徴を礼拝の中心に据え直す時間を持ちます。裂かれた体と流された血は空虚な儀式ではなく、恵みの生きた痕跡なのです。十字架なしに建てられる教会もある今の時代に、彼女はイエスの犠牲が過去の一章としてめくられるものではないことを思い起こさせます。それはメッセージの核心であり、イエスご自身が私たちに決して忘れないようにと求められたものです。

メッセージの構成

1. 聖餐は過越の祭りに根ざしている

  • 最初の聖餐の食事は、エルサレムの二階の部屋で、過越の食事の最中に行われました。子羊も、パンも、すべてがユダヤの過越のために用意されていました。
  • イエスがパンとぶどう酒を取り、弟子たちと分かち合われたのは、この食事の最中、あるいは終わりに近い頃でした。
  • 初代教会も同じパターンを保っていたようです。愛餐のたびに、兄弟の交わりの食事のたびに、その中心にパンとぶどう酒がありました。聖餐は日常の生活から切り離されたものではなかったのです。
  • パウロはこの伝承を受け継ぎ、コリントの人々に伝えました。「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました」(コリント人への手紙第一 11章23節)。

2.「わたしを覚えて、これを行いなさい」

  • 「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい」(コリント人への手紙第一 11章24節)。そして、「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい」(コリント人への手紙第一 11章25節)。
  • これは固定化された儀式ではありません。キリストの再臨まで覚え続けようとする、揺るぎない、忍耐強い意志なのです。
  • 使徒の働き2章42節がそれを裏づけています。最初の弟子たちは、使徒たちの教え、交わり、パン裂き、祈りにひたすら励んでいました。
  • イエスが私たちに残された偉大な象徴は、バプテスマと聖餐の二つだけです。それは決して小さなことではありません。イエスは、ご自分の教会が犠牲の重要性を思い起こし続けることを強く望まれたのです。

3. 十字架を忘れた教会は意味を失う

  • 教会は、「十字架なしでもやっていける」と言わせようとする逆風を受けることがあります。今日、キリストなしに存在する教会があります。表面的には感じの良い共同体でも、意味を欠いているのです。
  • 教会は十字架があってこそ意味を持ちます。その壁の内側を治めているのがキリストであってこそ、教会は意味を持つのです。
  • 聖餐の象徴の中に忍耐強くとどまることは、意図的にこう言うことです。「主よ、十字架なしには何もありません」。
  • パウロは良い戦いについて語っています(テモテへの手紙第二 4章7節)。これから先の世代においても、十字架を私たちの期待と信仰の歩みの中心に保ち続けることは、本当の戦いとなるでしょう。

4. イエスの傷跡、恵みの目に見える痕跡

  • 十字架の上で、イエスは私たちの罪の宣告を引き受けられました。イエスにはいかなる汚れもなく、その宣告はご自身にふさわしいものではありませんでしたが、私たちがいのちを得るために、それを負ってくださったのです。
  • 「血を流すことなしに、罪の赦しはありません」(ヘブル人への手紙9章22節)。イエスの血は、いのちと罪の赦しの源です。
  • イエスがサマリアの女に語られたように、生きた水の川が私たちの心の中に流れ、永遠のいのちに至るまで湧き出ます(ヨハネの福音書4章14節)。その生きた水の源には、十字架のみわざがあります。
  • 神が今あなたを見つめるとき、神はもはやあなたがかつてどうであったかを見てはいません。神はあなたの内にイエスを見ておられるのです。

5. 恵み、毎朝新たにされる、値しない贈り物

  • 恵みは思いつきで用意されたものではありません。二千年の歴史が、十字架で与えられたこの贈り物を備えてきました。
  • 恵みを受けるにふさわしくなるために何かをする必要はありません。ただ心を開いて「はい」と言うだけでよいのです。
  • 恵みとは、あなたの名前が小羊のいのちの書に記されていることです(ヨハネの黙示録21章27節)。それは、毎日主の前に立ち、主が耳を傾けてくださっていると知ることです。
  • 恵みとは、毎朝新たにされる贈り物、イエス・キリストにおいて個人的なものとなった神の愛です。それを望むすべての人に差し出されています。あなたには何も値する必要はなく、ただ「はい」と言うだけでよいのです。

要点まとめ

  • 聖餐は、イエスご自身が望まれた記念です。パンと杯を取ることは、十字架を忘れることを拒むことです。
  • 十字架なしに教会は意味を持ちません。十字架がなければ、キリスト者の共同体は空っぽの殻になってしまいます。
  • イエスの傷跡は、代価を払われた恵みの目に見える痕跡です。本物の裂かれた体、本物の流された血なのです。
  • 恵みは値するものではなく、受け取るものです。あなたの心を開いて、イエスに「はい」と言いさえすればよいのです。
  • 神が今日あなたを見つめるとき、神はもはやあなたがかつてどうであったかを見てはいません。神はあなたの内にイエスを見ておられるのです。

個人への適用

  1. 次にあなたが聖餐にあずかるとき、イエスの犠牲について本当は何を思い起こしたいですか。
  2. あなたの信仰生活の中で、十字架をまるで乗り越えるべき古い一章のように、少し脇に置いてしまいそうになっているのはどこですか。
  3. 今日、イエスの傷跡をあなたのための恵みの痕跡として見るなら、あなたの生き方に何が変わるでしょうか。
  4. すでに無償で差し出されている恵みを、まだ自分の力で得ようとしている場所が、あなたの人生のどこかにありますか。
  5. 「毎朝新たにされる」この恵みを、明日の朝、あなたはどのように受け取りたいですか。

引用された聖句

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よくある質問

なぜイエスは過越の祭りの間に聖餐を制定されたのですか。

ユダヤの過越の祭りは、すでに子羊の血によるイスラエルの解放を思い起こさせるものだったからです。イエスはご自分の意志で、その歴史の中にご自身を位置づけられました。イエスご自身が、その血によって救い出す小羊となられたのです。過越の食事の中心で聖餐を制定することによって、ご自分の死が、何世紀にもわたって過越の祭りが告げ知らせてきたことを成就するものであることを示されたのです。

聖餐は本当にイエスの体と血なのですか。

いいえ、ナディーヌ・ドゥモジェが思い起こさせるとおり、それらは文字通りキリストの体と血ではありません。それらは、十字架のみわざを思い起こすためにイエスが望まれた象徴です。「わたしを覚えて、これを行いなさい」(コリント人への手紙第一 11章24節)。パンと杯は、裂かれた体と流された血によって、ただ一度、代価を払われた恵みの目に見える痕跡なのです。

すでに福音を知っているのに、なぜ聖餐にあずかり続ける必要があるのですか。

教会は中心にあるべきものを忘れがちだからです。十字架がいかに簡単に他の優先事項の陰に追いやられてしまうかを、イエスはご存じでした。聖餐にあずかり続けることは、その都度こう宣言することです。「主よ、十字架なしには何も意味がありません」。それは、イエスの再臨のときまで続けられる、意図的で規則的な行為なのです。

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