愛されて、愛するために:愛に根ざして

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はじめに

根ざすということばを聞くと、私たちは根を思い浮かべます。そして根と言えば、土台や基礎を連想します。しっかりとした家を建てるには、しっかりとした土台が必要です。あなたの人生も同じです。しっかりとした人生を築くためには、しっかりとしたもの、確かな土台の上にそれを据えなければなりません。

少し小学校の頃を思い出してみてください。動詞の活用を習ったときのことです。「持つ(有る)」という動詞を考えてみましょう。「私は持っている、あなたは持っている、彼は持っている」。次に「である(在る)」という動詞です。「私はある、あなたはある、彼はある」。「持つ」という動詞を使うとき、あなたは自分が所有しているものについて話しています。「である」という動詞を使うとき、あなたは自分が何者であるか、自分のアイデンティティについて話しています。愛とは本当は何であるかを理解するためには、まずこのアイデンティティを理解する必要があります。そして、ここでヨハネの手紙第一4:7〜8がすべてを変えるのです。

記事の構成

1. 神は愛である:すべてを変える動詞

ヨハネはこう書いています。「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな、神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです」(ヨハネの手紙第一4:7〜8)。

注目してください。ヨハネは単に「神は愛しておられる」とは言っていません。「神は愛である」と言っているのです。この「である」という動詞が、視点をまったく変えてしまいます。もし神が愛を一つの感情として「持っている」のなら、神はいつ何時、愛することをやめてしまうかもしれません。けれども、神は愛「である」のですから、愛することをやめることはできません。神の愛は感情ではなく、神ご自身のアイデンティティなのです。

私たちは、愛を一つの感覚のように語ります。胸がときめく感じ、上がったり下がったりする感情です。感情はジェットコースターのようなものです。ある日は愛されていると感じ、次の日には孤独を感じます。愛を「持つ」という動詞で捉えてしまうと、神も同じように機能すると思ってしまいます。ある日は近くにいて、次の日には遠く感じる、というふうにです。けれども、神はそうではありません。神があなたを愛しておられるのは、あなたが愛される価値のある人だからでも、あなたがそれにふさわしいからでも、あなたが何か良いことをしたからでもありません。神があなたを愛しておられるのは、神が「愛である」からです。それだけです。

2. モーセと燃える柴:「わたしはある」は臨在である

燃える柴の前に立つモーセを思い浮かべてください。彼は自分に何もできないと感じ、神にこう尋ねます。「彼らがあなたの名は何かと尋ねたら、私は彼らに何と言えばよいのでしょうか。」神はこう答えられます。「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト記3:14)。

分かりやすく言えば、神はこう言っておられるのです。「わたしは、あなたがどこへ行こうとも、あなたと共にいる。あなたのためにいる。」なぜなら、愛とは臨在だからです。あなたが自分を小さく感じるとき、心配しなくてよいのです。わたしがあなたと共にいる。あなたが自分にはできないと感じるとき、わたしがあなたを助ける。愛の神は、何が起ころうとも、あなたがどこへ行こうとも、たとえあなたが自分にはふさわしくないと思っていても、あなたのために臨在してくださいます。たとえ「死の陰の谷」を通ることになっても、神はそこにおられます(詩篇23篇)。神の愛は、勝ち取るものでも、ふさわしくなって得るものでもありません。それは、ただ受け取るものなのです。

3. 愛には顔がある:イエス・キリスト

もしかすると、あなたはこう考えたことがあるかもしれません。この愛はどんな形をしているのだろうか。何色なのだろうか。私たちは、それをハート形の赤色として思い描きがちです。けれども違います。愛には顔と名前があります。イエス・キリストです。ヨハネは9節でこう書いています。「神は、ひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。神の愛はそのことによって、私たちの間に明らかにされたのです」(ヨハネの手紙第一4:9)。

神は、あなたを愛していると言うだけでは終わりませんでした。神は具体的なことをなさいました。あなたにそれを示してくださったのです。もしあなたが愛することを学びたいなら、イエス様を見てください。この世界では、人は自分の周りに愛を探し求めますが、本当の意味でそれを見つけることは決してありません。それは確かなものではなく、崩れ去ってしまいます。決して崩れ去ることのない愛、それがイエス・キリストから来る愛です。

4. イエスの「わたしは」:あなたのアイデンティティとあなたの必要

ヨハネの福音書の中で、イエス様は「わたしは」から始まる力強い宣言をされます。それは、イエス様が誰であるかについての啓示であるだけでなく、イエス様がどのようにあなたを愛しておられるかについての啓示でもあります。

  • 「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6:35):あなたの内には大きな必要があり、それを本当に満たすことができるのはイエス様だけだからです。
  • 「わたしは世の光です」(ヨハネ8:12):あなたが混乱し、方向を見失っていると感じるとき、イエス様が光を照らしてくださいます。
  • 「わたしは門です」(ヨハネ10:9):イエス様のもとに来て、イエス様を通って入り、イエス様の内にとどまってください。そこに本当の平安を見出すことができます。
  • 「わたしは良い牧者です」(ヨハネ10:11):あなたは世話され、守られる必要があります。イエス様があなたの世話をしてくださいます。
  • 「わたしはよみがえりです。またいのちです」(ヨハネ11:25):あなたの内で消えてしまったもの、もう見ることを諦めてしまった夢を、イエス様がよみがえらせてくださいます。時はあなたのものではなく、神のものです。最後のことばを神に委ねてください。
  • 「わたしは道であり、真理であり、いのちです」(ヨハネ14:6):イエス様があなたの道案内です。自分が先に立つのではなく、イエス様の後ろに付いて従っていきましょう。
  • 「わたしはまことのぶどうの木です」(ヨハネ15:1):イエス様の内にとどまってください。まことのぶどうの木の中には、まことの愛という樹液が流れているからです。あなたは枝です。その樹液があなたを通って流れ、他の人々のもとに届きます。人々は、あなたを通してイエス様を見ることができるのです。

5. 十字架:語るだけでなく、自らを与える愛

イエス様は、紙に愛のことばを書き記すだけで終わりませんでした。十字架によって、イエス様は神の愛が何であるかを完璧に描き出されました。それは、語るだけで満足する愛ではなく、自らを与える愛です。やって来て、そこにとどまり、自らを差し出す愛です。「人がその友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)。神が、あなたにこの十字架を見つめるよう勧めておられるのはここです。あなたがこの愛の大きさをしっかりと捉え、それを他の人々に示すことができるようになるためです。「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」(ヨハネの手紙第一4:19)。

6. イエスの胸に頭をあずけたヨハネ

ヨハネは自分の福音書の中で、自分自身を「イエスが愛しておられた弟子」と表現しています。これはうぬぼれではありません。ヨハネは、自分がどれほど愛されているかを理解していたのです。あなたが到達できる最も高い理解とは、あなたがどれほどイエス様を愛しているかを測ることではなく、神がどれほどあなたを愛しておられるかを悟ることです。イエス様を愛することは、その後に来るのです。

最後の晩餐の席で、ヨハネはイエス様の胸に頭をあずけます(ヨハネ13:23)。彼の心は騒いでいました。その夜、話題は死、裏切り、見捨てられることでした。弟子たちは、まもなく自分たちだけで取り残されようとしていました。ヨハネは何も言わず、ただ一つの仕草をします。愛に満ちたその胸に身を寄せかけたのです。まるでこう言っているかのようでした。「イエス様、私はあなたの愛の中に、ここにとどまっていたいのです。ここにこそ、安心も、静けさも、平安もあるからです。周りで何が起ころうとも、私はあなたに信頼します。あなたは真実な方であり、私を愛してくださっているからです。だから、私はここで休みたいのです。」ヨハネがイエス様の胸に寄りかかったとき、恐れは消え去りました。彼が愛の中で休んでいたからです。

7.「わたしはある」は600人の兵士よりも強い

その同じ夜、一隊の兵士がイエス様を捕らえに来ます。たった一人の人間に対して、およそ600人です。イエス様は一歩前に進み出られます。これは非常に多くを物語っています。イエス様は、自らを与える完全な愛をあなたに示すために、自分自身を差し出されたのです。イエス様は、たった一言「わたしはある」で、この一団を滅ぼすこともおできになったはずです。実際、イエス様が進み出て「わたしがそれだ」と言われると、彼らは後ずさりし、皆地に倒れました(ヨハネ18:4〜6)。神の力と権威が現されると同時に、そこには計り知れないほどのへりくだりがあります。イエス様は愛を示し、ご自身を与えられるのです。「世にいるご自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し抜かれた」のです(ヨハネ13:1)。

覚えておきたいポイント

  • 神は愛を「持っている」のではなく、神は愛「である」のです。ですから、神があなたを愛することをやめることはありません。神の愛は揺れ動く感情ではなく、神ご自身のアイデンティティです。
  • 愛とは臨在です。モーセに対してそうであったように、神はあなたにも「わたしはあなたと共にいる」と言われます。どんなに暗い谷の中にいても、あなたはひとりではありません。
  • 愛には顔があります。イエス様です。確かな愛をこの世界の中に探し求めても、それは崩れ去ってしまいます。イエス様を、その十字架を、その「わたしは」ということばを見つめてください。
  • あなたが愛せるのは、「わたしはある」があなたの内にあるときだけです。キリストがあなたの内に住んでおられなければ、あなたは与えるべき愛を「持つ」ことができません。あなたを通して愛しておられるのは、キリストご自身です。
  • イエス様の胸に頭をあずけてください。ヨハネがそうしたように、周りのすべてが騒がしいときには、何も言わずに、ただイエス様の胸に寄りかかってください。そこでこそ、恐れは去っていきます。

自分への適用

今週、神の前に携えていきたい、いくつかの問いかけです。

  • 私は神の愛を、「持つ」という感覚(感覚や気分)で捉えているだろうか、それとも「である」という視点(神ご自身のアイデンティティ)で捉えているだろうか。
  • 今日、私が信じ込んでしまっている偽りの考えは何だろうか。「私は神に愛されるにふさわしくない」という思いはないだろうか。
  • 私の人生のどの領域において、イエス様の「わたしは」ということば(パン、光、門、牧者、よみがえり、道、ぶどうの木)が私にとって十分であることを思い出す必要があるだろうか。
  • 私はどこで、崩れ去ってしまうこの世の愛を探し求め、キリストから受け取ることをしていないだろうか。
  • 私は、まことのぶどうの木の樹液が自分を通って他の人々のもとに流れていくのを許しているだろうか、それとも自分の中にとどめてしまっているだろうか。

引用された聖句

よくある質問

なぜ、神は「愛しておられる」だけでなく、「愛である」と言われるのですか。

「である」という動詞は、一時的な状態ではなく、神ご自身のアイデンティティを表しているからです。もし神が愛を感情として「持っている」だけなら、神はいつか愛することをやめてしまうかもしれません。けれども、愛こそが神そのものです。だからこそ、あなたの調子の悪い日も、あなたの失敗も、神から遠く離れていると感じるあなたの感覚も、神があなたに向けておられる愛を変えることはないのです。

自分にふさわしくないと感じるとき、どうすればこの愛を具体的に受け取ることができますか。

ヨハネが、ただイエス様の胸に頭をあずけたように、信仰の一歩を踏み出すことによってです。あなたはこの愛にふさわしくありません。誰もふさわしくないのです。この愛は、ただ受け取るものです。神にこう言ってください。「あなたの愛の高さと深さと広さを、私に理解させてください。」そして、「わたしはある」であられるキリストに、あなたの内に住んでいただいてください。

本当に神の愛をもって他の人々を愛しているかどうか、どうすれば分かりますか。

その源を見つめてください。あなたが与えるべき愛を「持つ」ことができるのは、「わたしはある」があなたの内にあるときだけです。あなたがまことのぶどうの木に接ぎ木されているなら、イエス様の愛という樹液があなたを通って流れ、他の人々のもとに届きます。人々があなたを通してイエス様を見るのは、あなたが完璧だからではなく、あなたがイエス様の内にとどまり続けているからです。

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