取っておかれた良いぶどう酒

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祝宴が台無しになりかける

ある日曜日の朝、招かれた説教者がヨハネ2:1-11を開きました。カナでの婚礼です。イエスの母がそこにいました。弟子たちもいました。そこでぶどう酒が足りなくなります。今日、私たちはこの場面を、ちょっとした気の毒な出来事として聞きがちです。しかし説教者は、一世紀の聴衆がこれをどう聞いていたかを思い起こさせます。それは、決して見過ごすことのできない大事件だったのです。

二千年前のユダヤでは、ひと組の夫婦のために二つの祝宴が開かれていました。最初のものは、実際の婚礼のおよそ一年前に行われ、婚約を確定させるためのものでした。男性の両親が、女性の家族を招いて宴を催します。そのメッセージは明確でした。「私たちのもとに来れば、あなたは何一つ不自由しません。」それは、恐れることなく結ばれてよいという、物質的な証明だったのです。そして夜の頂点で、男性が女性にぶどう酒の杯を差し出します。彼女がそれを飲めば、婚約は成立します。彼女が断れば、話はなくなってしまいます。

こうして分かります。「ぶどう酒がなくなった」(3節)というのは、ちょっとした困りごとではありません。それは大惨事なのです。注ぐものが何も残っていないのに、どうやってその杯を差し出せるでしょうか。

説教の構成

1. ぶどう酒はこの祝宴に欠かせないものだった

2. キリストの救いを信じる者は、その恵みを受け取る

1. ぶどう酒はこの祝宴に欠かせないものだった

説教者は強調します。ここで描かれているのは婚礼そのものではなく、婚約の祝宴なのだ、と。この記事は、若い女性が実際にぶどう酒を飲んだかどうかが分からないまま終わります。ヨハネはあえて、未完成な余韻を残しています。なぜでしょうか。彼が示そうとしていることは、その晩に分かち合われたぶどう酒の問題を超えているからです。

マタイ、マルコ、ルカの福音書と比べると、ヨハネはより後の時代に、異なる視点から書いています。最初の三つの福音書は、記者のように、イエスの生涯を外側から眺めます。ヨハネは、内側から見つめます。それぞれの章には、ひとつの出来事があり、その後にその意味が置かれています。ひとつのしぐさがあり、それを照らし出すひとつの言葉が続くのです。カナでは、そのしぐさが最初のしるしです。そしてその意味は、祝宴の広間を超えて広がります。

そこで説教者はマタイ26:26-29を開きます。最後の晩餐で、イエスは杯を取ってこう言われます。「みな、この杯から飲みなさい。これはわたしの契約の血であり、多くの人の罪の赦しのために流されるものです。」イエスが弟子たちに差し出すぶどう酒は、もはや人間の花婿のぶどう酒ではありません。それはイエスご自身のもの、イエスの血なのです。

そしてヨハネの福音書は、最後の晩餐を語らない代わりに、カナを語ります。他の福音書が26章で語ることを、ヨハネは2章に置いているのです。取っておかれた良いぶどう酒とは、単に、招待客を驚かせるために最後に出される飲み物のことではありません。それは、イエスが十字架から人類に差し出す杯のことなのです。

それを裏づける二つの言葉が、ヨハネの中に繰り返し出てきます。11節の「栄光」です。「イエスはご自分の栄光を現され、弟子たちはイエスを信じた。」ヨハネにおいて、イエスの栄光とは、十字架と復活のことです。それはヨハネ12:23-24にも見られます。「人の子が栄光を受ける時が来ました。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ねば、多くの実を結びます。」

もうひとつの言葉は「時」です。4節。「女の方、あなたはわたしと、何の関わりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません。」ヨハネにおいて、「時」は常に十字架を指し示します。それはヨハネ7:6、7:30、8:20にも見られます。カナでの奇跡の時点から、ヨハネはすでに十字架を指し示しているのです。

そしてイエスにとって、この「時」は大きな代償を伴うものでした。ゲツセマネで、マタイ26:36-39、イエスは地にひれ伏してこう祈られます。「わが父よ。できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください。」イエスは退くこともできました。しかし、そうはされませんでした。イエスは私たちのために、この杯を飲み干されたのです。

ここに、覚えておきたい最初のポイントがあります。聖書はどこを開いても、十字架へと導きます。旧約であれ新約であれ、すべての箇所は、その背後に十字架を置いて読まれるべきものです。十字架を取り除いて聖書を説明しようとする運動(セクトやグノーシス主義的な流れ)は、砂の上に家を建てているのです。この書物全体の意味は、カルバリで示された神の愛の中に収まっています。

2. キリストの救いを信じる者は、その恵みを受け取る

場面に戻りましょう。イエスの母が、ぶどう酒がなくなったことを伝えに来ます。イエスはこう答えます。「女の方、あなたはわたしと、何の関わりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません。」この言葉は冷たく聞こえるかもしれません。しかし、そうではありません。ほとんど同じ言葉がヨハネ21:20-23にも見られます。イエスがペテロにこう言われる場面です。「それがあなたに何の関わりがあるのですか。あなたは、わたしについて来なさい。」これは拒絶ではありません。人と自分を比べたり、よそ見をしたりすることなく、自分自身の信仰の道を歩むようにという招きなのです。

マリアは引き下がりません。彼女は召使いたちの方を向いて、こう言います。「あの方が言われることは、何でもしてください」(5節)。彼女は、自分の息子が何を成し遂げるために来たのかを知っていました。息子の人生全体が十字架を目指していることを知っていたのです。だから彼女は思い切って踏み出します。どのようにかは分からなくても、イエスが行動されると信じたのです。

私たちを救うために自分のいのちを差し出したこの御子こそ、自分が抱えているものを思い切って委ねることのできる方なのではないでしょうか。イエスの御名によって祈るとは、神の前で「良い子」を演じることではありません。ありのままの姿で来ることです。必要があるときには、必要があると言うこと。もうどうにもならないときには、もうどうにもならないと言うことです。「求めなさい。そうすれば与えられます。門をたたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)。

召使いたちは、かめを縁までいっぱいに満たします。彼らはそれをくみ、杯を運びます。すると宴会の世話役が花婿の方を向いてこう言います。「あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました」(10節)。召使いたちは、このぶどう酒がどこから来たのかを知っていました。しかし宴会の世話役は知りませんでした。信頼し、従う者だけが見ることのできるものがあります。それは、人を変える恵みです。

この恵みは、理屈の話ではありません。説教者は語ります。三十年以上前、彼が牧師として沼津に遣わされたとき、ある元同僚が少しからかうようにこう言いました。「沼津?あそこに何があるんですか。」そして今朝、彼は会衆を見つめます。日本全国、北から南まで、イギリスから、アメリカから、オンラインでつながっている人々。それぞれが自分自身の物語を持ち、それぞれの「水に変えられたぶどう酒」を持ち、それぞれの、受け取った恵みの証しを持っています。何もない荒れ地にしか見えなかった場所に、神はすでに何かを備えておられたのです。

この記事の終わりに、弟子たちは信じます。「イエスはご自分の栄光を現され、弟子たちはイエスを信じた」(11節)。彼らの信仰はまだ粗削りです。これから揺らぐことになります。ヨハネは逃げ出すでしょう。ペテロは知らないと言うでしょう。それでもイエスは彼らを見捨てません。復活の夜、イエスは彼らの真ん中に立ち、その手とわき腹を見せてこう言われます。「あなたがたに平安があるように。」カナでかめを満たしたその同じ手が、私たちのために刺し貫かれた手なのです。そして、その手が退けられることはありません。

覚えておきたいポイント

  • カナの婚礼のぶどう酒は、新しい契約の杯を予告しています。それは、あなたのために流されたキリストの血です。
  • ヨハネにおいて、「時」と「栄光」という言葉は、常に十字架と復活を指し示しています。
  • 聖書は、切り離された断片として読むものではありません。すべてのページは、十字架の中にその意味を見いだします。
  • マリアは、イエスの答えが遠く感じられるときでさえ、思い切ってイエスに信頼します。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
  • 従う者たち(かめを満たした召使いたち)は、他の人には見えない恵みを見ることができます。

個人的な適用

  • 最近読んでいる聖書のどの箇所に、十字架を見ずに読んでいるものがありますか。それを中心に置き直すと、何が変わりますか。
  • 自分が神の前で「ふさわしくない」と感じるために、あえてしていない祈りはありませんか。その恐れについて、十字架は何を語っていますか。
  • マリアの信頼、「あの方が言われることは、何でもしてください」という姿勢に、あなたはどれくらい近づいていますか。理解する前に従うようにと、イエスはどんな具体的な点であなたを招いていますか。
  • あなたの人生の中で、神が「水をぶどう酒に」変えてくださった瞬間を挙げられますか。それを周りの人に伝えていますか。
  • 今、あなたは誰と自分を比べていますか。もしイエスが「それがあなたに何の関わりがあるのですか。あなたは、わたしについて来なさい」と言われたら、どうしますか。

引用された聖句

FAQ

なぜカナの婚礼でぶどう酒が足りなくなったのですか。

一世紀のユダヤでは、この祝宴は婚約を確定させるためのものでした。男性が女性にぶどう酒の杯を差し出し、彼女がそれを飲めば結婚が成立するのです。その日にぶどう酒が足りなくなることは、ちょっとした失敗どころではなく、婚約そのものを台無しにしかねない重大な出来事でした。

取っておかれた良いぶどう酒とは、何を表していますか。

その良いぶどう酒は、後に福音書の中でイエスが語ることになる杯、すなわち、罪の赦しのために十字架で流されるイエスの血を予告しています。カナの奇跡は単なる困りごとの解決ではなく、十字架と復活を指し示す最初のしるしを開くものです。

マリアが「あの方が言われることは、何でもしてください」と言うのは、どういう意味ですか。

マリアは、自分の息子が何のために生きているかを知っていました。イエスの答えが遠く感じられるとき(「わたしの時はまだ来ていません」)でさえ、彼女はイエスについて知っていることに基づいて、召使いたちにためらわず従うよう促します。これは、もう一歩を踏み出す勇気を持った信頼なのです。

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