はじめに
「神のみことばは美しいものですが、毎日それに生きるとき、さらに美しくなります。」Église Évangélique Vie Nouvelle のルネ・ウアンジ牧師は、こう語って連続メッセージ「私たちの信仰を変える神の御名」の第3部を始めます。まず会衆と一緒に小さなゲームをして、これまでに学んだ御名を思い出しました。ヤハウェ・イルエ、ヤハウェ・シャローム、ヤハウェ・ラファ、ヤハウェ・シャンマ、ヤハウェ・ロイ、ヤハウェ・サバオトです。
なぜこれほど繰り返すのでしょうか。神は御名を通して、ご自身の性格を現してくださるからです。相手の気質を知っていれば、忍耐強い人か、穏やかな人か、情熱的な人か、短気な人か、関係はずっと築きやすくなります。それを知らなければ、抱きしめてもらえると思って近づいたのに相手は冷たいまま、ということも起こります。神との関係も同じです。「神の前に立ち、神がどなたかを知っているなら、その人柄を知り、その性格を知っているので、あなたの祈りははるかに力強くなります。」
この日曜日、牧師は「私たちとともにおられる神」であるイエスに目を向けます。イエスを表す御名として、みことば、インマヌエル、メシヤ、神の小羊、世の光、平和の君、命のパン、主、アルファでありオメガを順にたどりました。どの御名も神について何かを語り、あなたの祈り方を変えてくれます。
メッセージの流れ
1. イエスは神の性格を現す
- ヨハネ1:1:「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」牧師は、聖書を「小説のように」読むことに警告します。この箇所は、神がみことばを通して、すなわちイエスを通してご自身を現されたという意味です。
- イエスが神殿で机をひっくり返し、わたしの家は祈りの家と呼ばれると宣言されたとき(マタイ21:13)、イエスは聖なる神を現されました。神は、敬意と従順をもって近づくことを望んでおられます。
- 「祈りとは、声を張り上げる時間ではありません。」神なしには何もできないからこそ、神の前にへりくだる時間です。祈るのが好きになれないなら、肉に向かって、もう私に嘘をつかないように、教会が祈っているときに断食はできないとか、ほかにすることがあるとか思い込ませないようにと言いなさい。肉と御霊は互いに相反する望みを持っているからです(ガラテヤ5:17)。
- イエスが群衆のほうを向き、彼らをあわれまれたとき(マタイ9:36)、イエスはあわれみ深い神を現されました。「だれも私を愛してくれない」とか「あなたは私が叫んでいるときにそこにいない」と言う人に、牧師はこう答えます。「違う、違う、違います。」神はその子どもたちを忘れず、その御手は短くて救えないのではありません(イザヤ59:1)。
- だれもが避けていた取税人ザアカイの家で、イエスは宣言されます。「きょう、救がこの家にきた」(ルカ19:9)。イエスは、人が罪を犯したそのときから救いの計画を持っておられた、愛の神を現されました。
- 長血をわずらっていた女は、イエスの衣に触れていやされました(マルコ5:25-34)。神はヤハウェ・ラファ、いやしの神です。神は瞬時にいやすこともあれば、時間をかけることもあります。最初は人がぼんやりとしか見えなかった盲人のようにです(マルコ8:22-26)。「神が最後のことばを語られるまで、あきらめてはいけません。」
- パウロは、教会が乳から固い食物へ進むことを願いました(コリント第一3:1-2)。牧師にとってそれは、不平や小さな苦しみから抜け出し、自分が信じ、仕え、祈っている方を知ることです。「もしこの神を知らなかったなら、私は祈りに時間を使わないでしょう。」この方がどなたかを知れば、その御前にいたくなります。イエスご自身がこう言われたからです。「わたしを離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ15:5)。
2. インマヌエル、私たちとともにおられる神
- マタイ1:23:「見よ、処女がみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。」これは、「神われらと共にいます」という意味である。ここでは神のみことばがみずから説明しています。「これ以上明らかにはなりえません。」
- 牧師は、ヨセフの立場に身を置いてみるよう勧めます。婚約者が、結婚前なのに身ごもっている。しかもその子の名は、ペテロでもエリックでもステファンでもなく、「神われらと共にいます」なのです。
- 神は天の高みにとどまってはおられませんでした。天地の造り主が、私たちと同じようにこの地上に降りて生きることを決められたのです。イエスはレッドカーペットの上を歩かれたわけでも、大統領や王の衛兵が出迎えるのを待たれたわけでもありません。
- そこから、識別についての脱線が入ります。自分を使徒や預言者と呼ぶ人は、「人々の目を神から自分へそらせてしまう」のです。パウロも、ペテロも、ヨハネも、「私はイエスの使徒だ、私の話を聞け」とは言いませんでした。高められるべきなのは主だけです。本物と偽物を見分けるには、みことばに浸り、それを思い巡らしてください。
- コリント第一3:16-17:あなたは神の宮であり、神の御霊があなたのうちに住んでおられます。牧師は、YouTubeで、自称クリスチャンが乱暴な言葉を使う証しを見たと話します。裁くつもりはないと断ったうえで、こう問いかけます。神が住んでおられる人の口から、下品な言葉やのろいの言葉が出てくるはずがありません。もしそれがあなたのことなら、神があなたの心に住んでくださるよう求めてください。回心とは、「もう以前の自分ではいたくない」と言うことです。
- あなたのうちにおられる神は眠りません。イエスは、父は今に至るまで働いておられると言われました(ヨハネ5:17)。この2週間、神があなたとともにおられなかったとは言えません。神はあなたとともに動き、ともに歩んでおられます。
- 詩篇139:1-4:「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知っておられます。」神は、あなたが夜中の2時や3時に目を覚ますときも、大好きなブリオッシュがなかったときも、駅のホームで電車が遅れているときも、ご存じです。だれと和解すべきか、どの家族のために祈り続けているか、試験の前の晩にどれほど震えているかも、神は知っておられます。
3. メシヤ、神に遣わされた方
- ヨハネ1:41:アンデレは兄弟のシモンに言います。「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)に出会った。」メシヤとはキリスト、油注がれた者、神に遣わされた方です。
- 神は、人々が親切かどうかを見るために、イエスを「地上に散歩に」送られたのではありません。使命がありました。「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(ルカ19:10)。「あなたも私も、イエスが使命を果たされたからここにいるのです。」救われるべき魂は、まだたくさんあります。
- その使命はさらに広いものです。ルカ4:18:主の御霊がイエスに油を注ぎ、貧しい人々に福音を宣べ伝え、心の傷ついた人をいやし、捕らわれている人に解放を、盲人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由の身とするために遣わされました。
- イエスの名によって兄弟姉妹のために祈るとき、あなたはなぜその名を口にするのかを知っています。それは、何千キロも離れた場所にいる人の傷ついた心さえいやすことのできる方の名だからです。「祈ると、すべてが変わります。」
- マタイ28:18-20:天においても地においても、いっさいの権威がイエスに与えられています。この権威は、使徒や預言者や監督だけに向けられたものではなく、あなたに向けられています。病人をいやし、悪霊を追い出し、山を動かす力、それが1キロの高さでも2メートルの高さでも、そして敵の力の上を歩く力です。
- ある場所を「悪霊に満ちている」からと避ける人がいます。「まさにそこへ行かなければならないのです。」聖霊があなたのうちにおられるなら、わずらわされるのはあなたのほうではありません。
4. 罪を取り除く神の小羊
- 全能の神が「とても小さな小羊」となられました。バプテスマのヨハネは、イエスが自分のほうに来られるのを見て言います。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)。
- これは、世にもう罪がないという意味ではありません。罪を取り除くとは、その結果である死と地獄を取り除くことです。悪魔は手をこすり合わせて喜んでいましたが、神の計画が自分の頭を砕くことになるとは知りませんでした。
- この御名は、「罪に定めるのではなく、手を差し伸べる」愛の神を現しています。小羊の使命の恵みを受けるには、イエスにいのちをささげる必要があります。「それだけのことです。」
- 牧師は教会にも語りかけます。完全な人はいません。しかし、聖霊があなたの人生にある罪について語られたなら、その罪には結果が伴います。「神の小羊に向き直るのに、遅すぎることはありません。」
- イザヤ53:4-7は、すでにこの小羊を預言していました。私たちの罪のために傷つけられ、私たちの咎のために砕かれ、私たちに平安を与える懲らしめがその身に下り、その打たれた傷によって私たちはいやされました。ほふり場にひかれていく小羊のように、口を開かれませんでした。
- ローマ6:23:「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」あなたはもうこの賜物を受け取りましたか。「イエスがいつ戻られるのかは分かりません。でも急いでください。人生を整えなさい。」
5. 世の光
- 創世記1:1-4:地は形がなく、むなしく、やみが淵のおもてにありました。そのとき神は言われました。「光あれ。」牧師はここに、やみの時と光の時という2つの時、そして対立する2つの力を見ています。
- 聖書では、やみとは神から出ないものすべてを指します。反抗と罪の中に生きる人はやみの中にいて、神はその人のうちに2つ目の時、すなわち光が来ることを望んでおられます。その光がイエスであり、光が来るところでは、やみは追い払われます(ヨハネ1:5)。
- 「もし神が私をやみから引き出してくださらなかったら、私は今、皆さんの前にいなかったでしょう。」神が牧師の人生にしてくださったことは、だれにでもしてくださいます。
- ヨハネ8:12:「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光を持つであろう。」
- このことは、主を知らない人たちに対するあなたの見方を変えます。どれほど親切で心が開かれていても、あなたの父、母、いとこであっても同じです。イエスは群衆の空腹だけでなく、その霊的な苦しみを見ておられました。だから魂のために祈り、働き、宣べ伝えなければなりません。牧師は、伝道は「私たちの第一の使命」だと語ります。
6. 平和の君と命のパン
- 前の週、牧師は恐ろしい出来事を前にした平安について語りました。今回はさらに進みます。「本当の平和とは、神との和解です。」
- 聖書は、神を知らない人たちを「悪魔の子」と呼びます(ヨハネ第一3:10)。悪魔が神に反逆しているからです。反逆者として生きる人は、神とのつながりを持ちません。神と反逆者たちを和解させる方が必要でした。それが平和の君であるイエスです(イザヤ9:6)。
- コリント第二5:19:「すなわち、神はキリストにあって世をご自分に和解させ」。
- ヨハネ6:35:「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」神はもっとも忠実な父であり、日ごとの糧を与えてくださいますが、同時に、イエスがどなたかということと、あなたのための救いの計画を明かして、霊的にも養おうとしておられます。
7. 主、アルファでありオメガ
- 質素で謙遜で、家畜小屋で生まれたにもかかわらず、イエスは主であり、王の王です。ギリシア語で書かれた新約聖書は、キュリオスという語を使います。主権と、あらゆる権威と、あらゆる力を持つ方という意味です。
- ヨハネ20:28:疑っていたトマスは、指を差し出すよう招かれて叫びます。「わが主よ、わが神よ。」ピリピ2:9-11:神はイエスにすべての名にまさる名を与え、イエスの御名にひざをかがめ、すべての舌が、イエス・キリストは主であると告白するようにされました。
- イエスは、神と同じ権威、同じ主権、同じ力を持っておられます。ですから、戒めはイエスにも当てはまります(出エジプト20:3-7)。イエスの名をみだりに唱えてはならず、イエスのほかに救い主を持ってはならず、偶像を造ってはなりません。「アクセサリーにも、家の中にも」です。
- 黙示録1:8:「今いまし、昔いまし、のちに来たりたもう者、全能者である主なる神が、『わたしは、アルファであり、オメガである』と言われる。」これはギリシア語のアルファベットの最初と最後の文字です。イエスは世界の歴史を開き、苦労や困難を抱えたあなたの歴史を開かれました。そして、その扉を閉じるのもイエスです。
- ペテロ第二3:10:「しかし、主の日は、盗人のように襲って来る。」牧師は、自身が教えているとおりに終わりの時の流れをまとめます。イエスが自分の民のために来られ、大患難があり、サタンがしばらく縛られ、千年の平和があり、その後サタンが解き放たれ、イエスが再び来てサタンを底なしの穴に投げ込み、すべてに決着をつけられます。「私たちの将来の物語を知っていますか。」
- 牧師は呼びかけで結びます。「主よ、私の人生を整える必要があります、と言うのに恥ずかしいことはありません。」教会にいる人にも、画面の向こうにいる人にも、手を挙げてイエスにいのちをささげるよう招きます。「遅すぎることは決してない」からです。
覚えておきたいこと
- 神は御名を通してご自身の性格を現されます。神がどなたかを知れば、賛美し、祈り、神に期待する姿勢が変わります。
- インマヌエルとは、神があなたのところまで身を低くされ、あなたのうちに住んでおられるということです。神はあなたの一日の細部まで知っておられます。
- メシヤであるイエスは、いっさいの権威を受け、それをあなたに託されました。祈るときにその名を口にする理由が分かります。
- 神の小羊は、罪の結果を取り除いてくださいます。イエスにいのちをささげるのに、遅すぎることはありません。
- イエスは世の光であり、歴史の主です。歴史を開かれた方が、その扉を閉じられます。
自分への適用
- イエスの御名(インマヌエル、メシヤ、小羊、光、平和の君、命のパン、主)のうち、今あなたが経験していることにもっとも響くのはどれですか。
- あなたは祈りが好きですか。それとも、教会が祈っているとき、肉があなたに、いつもほかにすることがあると思い込ませていませんか。
- 今週、あなたの口から何が出ていますか。あなたの言葉は、神があなたのうちに住んでおられることを示していますか。
- 家族や身近な人の中で、まだイエスの光を知らない人はだれですか。その人のために、あなたは祈り続けますか。
- あなたはすでに神の無償の賜物を受け取りましたか。それとも、今日整えるべき人生の領域がありますか。
引用した聖句
- ヨハネ1:1
- マタイ21:13
- ガラテヤ5:17
- マタイ9:36
- イザヤ59:1
- ルカ19:9
- マルコ5:25-34
- マルコ8:22-26
- コリント第一3:1-2
- ヨハネ15:5
- マタイ1:23
- コリント第一3:16-17
- ヨハネ5:17
- 詩篇139:1-4
- ヨハネ1:41
- ルカ19:10
- ルカ4:18
- マタイ28:18-20
- ヨハネ1:29
- イザヤ53:4-7
- ローマ6:23
- 創世記1:1-4
- ヨハネ1:5
- ヨハネ8:12
- ヨハネ第一3:10
- イザヤ9:6
- コリント第二5:19
- ヨハネ6:35
- ヨハネ20:28
- ピリピ2:9-11
- 出エジプト20:3-7
- 黙示録1:8
- ペテロ第二3:10
よくある質問
インマヌエルという名前は何を意味しますか。
インマヌエルとは「神は私たちとともにおられる」という意味です(マタイ1:23)。ルネ・ウアンジ牧師によれば、この御名は、神が天の高みにとどまらず、レッドカーペットも王の衛兵もなく、私たちと同じようにこの地上に降りて生きてくださったことを示しています。イエスのものとなったあなたは聖霊の宮であり、神があなたのうちに住んでおられます。神は、遅れた電車や試験前夜の不安まで、あなたが通っているすべてをご存じです。
「世の罪を取り除く神の小羊」とはどういう意味ですか。
世には今も罪が存在します。説教者によれば、罪を取り除くとは、その結果である死と地獄を取り除くことです。イエスはイザヤ53章で預言された、私たちの罪のために傷つけられた小羊です。その使命の恵みを受けるには、イエスにいのちをささげる必要があります。罪の報酬は死ですが、神の無償の賜物は永遠のいのちだからです(ローマ6:23)。
イエスの御名を知ると、なぜ祈りが変わるのですか。
神は御名を通して、ご自身の人柄を現してくださいます。イエスが心の傷ついた人をいやすために来られ、いっさいの権威を受けられたことを知れば、祈るときにその名を口にする理由が分かります。ルネ・ウアンジ牧師によれば、神の性格を知る人は、賛美し、礼拝し、祈り、神に期待する姿勢が変わります。