ヨハネ1章:イエスは神に油を注がれたキリスト

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はじめに

「キリストという言葉は何を意味するのですか」と尋ねられたら、あなたはどう答えますか。賛美歌で歌い、聖書でも読み、クリスチャンを名乗っているのでその名前も身につけているはずです。けれども、トム・フォード(Tom Foord)が思い起こさせるように、「キリスト」はイエスの苗字ではありません。マリアとヨセフは「キリスト」という名前ではありませんでした。それは称号であり、その意味を知ることはイエスがどなたかを理解するうえで欠かせません。

ヨハネ1章31〜42節で、最初の弟子たちが伝え合うメッセージは、一言に尽きます。「わたしたちはメシヤにいま会った」。「イエスに会った」と言っても、ほとんど意味がなかったでしょう。イェシュア(イエス)はガリラヤでとてもよくあるユダヤ人の名前だったからです。大切だったのは、「キリストに会った」と言うことでした。

説教者は、これは説教というより素朴な聖書の学びで、メモを取りながら一緒に本文を進んでいくものだと前置きします。「キリスト」の意味を皆がすでに知っていると決めてかかるなら、説教者としての務めを果たしていないことになる、と彼は言います。

メッセージの流れ

1. 「キリスト」は称号:神に油を注がれた者

  • 旧約聖書では、聖なる務めは油注ぎによって授けられました。預言者が油を注がれることはまれでしたが、エリヤはエリシャに油を注ぐよう命じられ、彼の上に自分の外套を投げかけます。
  • 祭司も油を注がれました。出エジプト記29章のアロンがそうで、レビ記4章3節は「油そそがれた祭司」について語ります。祭司はいわば「小さなキリスト」でした。
  • 王も同じです。サムエル記上16章で、サムエルはエッサイの息子たちを見渡します。ある者は飛行機のパイロットのようで、別の者は不動産業者のようです。そして彼は思います。「確かに主の前にいるこの者は、主に油をそそがれた者だ」。しかし選ばれたのは、まだ羊の番をしていたダビデでした。
  • 油注ぎは二つのことを語っていました。神がこの人を選び、それを公に宣言されたこと。そして、預言者として神に代わって語り、祭司として神に代わって仕え、王として神に代わって治める権威を神が与えられたことです。
  • 1世紀には、「キリスト」はそれ自体が称号になっていました。約束された油注がれた者、神の権威をもって神のわざを成し遂げに来られる、神に選ばれたしもべです。イエスは、すべてのキリストの中のキリストとして示されています。

2. バプテスマのヨハネの証言

  • トム・フォードは、証言台に立つバプテスマのヨハネを思い描きます。聖書に手を置き、真実をすべて語ると誓う姿です。32節。「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た」。この証言の一語一語には意味があります。
  • 「わたしはこの方を知らなかった」(33節)は、イエスがどなたか知らなかったという意味ではなく、まだメシヤとしては知らなかったという意味です。神は彼にしるしを与えておられました。御霊が下って、とどまるのを見る相手こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方だ、というしるしです。
  • ヨハネの福音書は、マタイやルカと違って、イエスのバプテスマの出来事を語りません。それでも、バプテスマのヨハネの目撃証言を通して、それはちゃんとそこにあります。

3. イエスの上にとどまる御霊

  • バプテスマのヨハネにとって、大切なのは第一に目に見える姿ではありませんでした。説教者は、御霊が鳥の姿をとったのか、鳩のように下ったのかは分からないと言います。それは本質ではありません。大事なのは、御霊が下り、イエスの上にとどまったことです。
  • それは、使命のために御霊が臨み、やがて去ったサムソンの場合とは違います。イエスは、ダビデのように「あなたの聖なる霊をわたしから取り去らないでください」(詩篇51:11)と祈る必要がありませんでした。御霊は、封印されたかたちで、永久にイエスに与えられたのです。
  • 鳩は、創世記8章のノアの鳩を思い起こさせます。トム・フォードはユーモアを交えて箱舟での暮らしを想像します。家のジムはすっかり見飽きてしまい、素足で草の上を歩く日を夢見ますが、箱舟には草がありません。ノアは新しい世界が来たかどうかを知るために鳩を放ちます。
  • 初代教会はこう理解しました。「神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました」(使徒10:38)。預言者でもバプテスマのヨハネでもなく、神ご自身が注がれたのです。

4. 預言の成就

  • 私たちはメシヤの到来についての預言をよく取り上げますが、神の御霊と神に油を注がれた者との結びつきは見落としがちです。イザヤ書11章2節は、知恵と悟りの御霊が彼の上にとどまると告げています。
  • イザヤ書42章1節。「わたしは彼にわが霊を与える。彼はもろもろの国びとに道を示す」。この箇所は、しもべ、選ばれた者、油注がれた者、そして御霊を一つに結びつけています。
  • イザヤ書61章1節。イエスご自身が後に引用される言葉です。「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えさせ…」。
  • これは福音書全体の主題です。「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるため、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(ヨハネ20:31)。

5. 「見よ、神の小羊」:弟子たちがイエスに従う

  • 翌日、バプテスマのヨハネは同じメッセージを繰り返します(35〜36節)。新しい聴衆に合わせて内容を変えることはしません。「わたしの説教はたったひとつです。イエスは神の小羊です」。
  • すると二人の弟子は、何世紀ぶりかというほど人気のあった説教者のもとを去り、イエスに従います。キリストを認めると、人生の見方がすべて変わります。イエスに従えなくなるのなら、どんなものも手放さずにいる価値はありません。
  • 38節。イエスは振り向かれます。多くの注解者は、ここに預言者たちの呼びかけの響きを聞き取ります。「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る」。弟子たちがイエスに向き直り、イエスも彼らに向き直られるのです。

6. 「何を求めているのか」

  • これは、この福音書でイエスが最初に語られた言葉です。イエスはこの問いを福音書の中で三度発せられます。ここで一度、次に、ユダが裏切りに来たときの園で(「だれを捜しているのか」)、そして復活のあとに、遺体を捜しに来た女性たちに対してです。
  • 弟子たちの答えに、説教者は思わず微笑みます。「ラビ、どこにおとまりですか」。神学校の1年生が、無料の宿と食事を探しているようだからです。
  • しかし、彼らの本当の願いは別のところにあります。あなたの弟子になりたい、従うべき師を探している、ということです。イエスは答えられます。「来て、見なさい」。彼らはその日、第十時ごろ、つまり午後4時ごろまで、イエスのもとにとどまりました。

7. アンデレが兄弟を連れてくる

  • アンデレがまずしたこと(41節)は、兄弟のシモンを見つけて、こう言うことでした。「わたしたちはメシヤにいま会った」。
  • トム・フォードは問いかけます。あなたには、まだ神の国の外にいる兄弟、姉妹、義理の兄弟はいませんか。イエスは十二人の中に同じ家族から二人を選ばれました。それも二度です。神はあなたを通して命を与えたいと願っておられるのかもしれません。
  • シモンは漁師で、荒っぽく、言葉づかいも粗く、弟子らしい人物ではありませんでした。「あなたの兄弟、姉妹、身近な人が決してイエスのもとに来ないなどと考えてはいけません。よくもそんなことが言えますね」。
  • イエスはシモンを見つめて、あなたのことは知っている、あなたはケファと呼ばれると言われます。ペテロ、すなわち岩という意味です。

心に留めたいポイント

  • 「キリスト」は称号です。神が公に選び、ご自身の権威を着せられた、油注がれた者を指します。
  • 御霊はイエスの上に下り、今もとどまっています。イザヤの預言のとおり、イエスは聖霊によってバプテスマを授ける方です。
  • イエスをキリストとして見ると、聖書全体の一致が見えてきます。イエスは旧約聖書を廃棄するのではなく、成就されます。
  • クリスチャンを名乗ることは、すべての権威を持つ方の弟子を名乗ることです。キリストを語るなら、権威について語らずにはいられません。
  • イエスがどなたかを理解すると、魂の中に連鎖反応が起こります。ぎこちなく感じるときでも、その方を伝えたいという願いが生まれるのです。

個人的な適用

  1. 今日「イエスはキリストである」とはどういう意味かと尋ねられたら、聖書に基づいてどう答えますか。
  2. あなたは旧約聖書を、イエスを告げ知らせ、イエスが成就された書として読んでいますか。
  3. まだイエスの権威にゆだねていない生活の領域や、悔い改めるべき自分の知っている罪はありませんか。
  4. 家族や周りの人の中で、いつかイエスのもとに来るとは思わなくなってしまった人はだれですか。
  5. 自分は伝道に向いていない「失格者」だと感じているかもしれません。それでも、だれかに「キリストに出会った」と伝えたいという願いはありますか。

トム・フォードは、一つのたとえで締めくくります。19世紀、アフリカから代表団の一員としてイギリスを訪れた男性が、雪を初めて見て、続いて氷を見ます。深さが二十から三十ひろもある大きな湖の上を歩くのだと言われますが、彼は泳げません。イエスが差し出してくださる赦し、救い、そして神の子とされることを前にして、あなたも彼のような思いでいるかもしれません。イエスとは「神は救い」という意味です。「彼は自分の民をその罪から救う者となるからである」(マタイ1:21)。バプテスマのヨハネはこの証言に人生を懸け、そのために死にました。アンデレ、ヨハネ、ペテロも、これを宣べ伝えて生き、そして死にました。イエスは神の小羊です。あなたの罪の代価をすべて払い、あなたを神に近づけてくださいます。氷の上を歩いてみてください。氷はあなたの重さを支えてくれます。

引用された聖句

よくある質問

「キリスト」という言葉は何を意味しますか。

「キリスト」は苗字ではなく称号です。ヘブライ語の「メシヤ」にあたるギリシア語で、「油注がれた者」を意味します。旧約聖書では、油注ぎは神が選ばれた人を公に示し、神に代わって語り、仕え、治める権威をその人に与えるものでした。イエスは、油注がれた者の中の油注がれた者です。

バプテスマのヨハネは、なぜ御霊がイエスの上にとどまることを強調するのですか。

神がメシヤを見分けるしるしとして、そのように示されたからです。御霊が下って、とどまる方がメシヤです。トム・フォードは、大切なのは第一に目に見えることではなく神学的な意味だと強調します。御霊はイエスの上に永久にとどまり、それがイザヤ書11章、42章、61章の預言の成就となるのです。

アンデレが兄弟のシモンにしたことから、何を学べますか。

アンデレがまずしたことは、兄弟を見つけて「わたしたちはメシヤにいま会った」と伝えることでした。トム・フォードはここに、イエスがどなたかを理解した魂に起こる連鎖反応を見て、身近な人は決してイエスのもとに来ないだろうなどと考えてはいけないと勧めています。

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