ベテスダ:無力なあなたのもとにイエス様が来てくださる

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はじめに

ヨハネ 5:1-18には、心を揺さぶられる場面があります。三十八年もの間、池のほとりに横たわり続けている一人の中風の人です。三十八年間、自分にはたどり着けない奇跡を待ち続けていたのです。三十八年間、誰かが先に癒やされていくのを、ただ見ているしかなかったのです。ビル・キャメロン牧師は、ヨハネの福音書に記された第三のしるしを説き明かしながら、この礼拝全体を貫く一つの言葉に立ち止まりました。それは「無力さ」です。あなたが常に善を行うことができない無力さ。赦すべきときに赦せない、自分自身を赦せない無力さ。そして何より深いところにある、あなた自身の力では神のもとに来ることができないという無力さです。

まさにこの場所で、イエス様はベテスダに歩み寄られます。水が動いたときに真っ先に飛び込める人にではなく、決してそこにたどり着けない人にこそ、イエス様は身をかがめられるのです。この説教では、この一節一節を追いながら、このしるしがどれほど「恵み深く」(実際に癒やしをもたらし)、「啓示的」(イエス様が誰であるかを示し)、そして「覆すもの」(私たちの宗教的な思い込みを打ち砕く)であるかを見ていきます。そして何度でも、同じ問いに立ち返らせてくれます。神でなければ、いったい誰がこのようなことをなさることができるのでしょうか。

メッセージの構成

1. イエス様、その人の必要に目を留められる方(1-7節)

  • イエス様はユダヤ人の祭りのためにエルサレムに上られます。多くの注解者は、これを過越の祭り――神がご自分の民を救われたことを思い起こす祭り――だと考えています。舞台が整えられました。最初の場面から、主が最も小さな者、最も絶望的な状態にある者に心を向けておられることがわかります。
  • 羊の門の近くに、ヘブライ語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊に囲まれ、病人、盲人、足の不自由な人、体の麻痺した人であふれていました。苦しみに満ちた群衆です。水が動くとき、最初に入った者が癒やされるという言い伝えが広まっていました。テキストはこの伝承を裁くことなく、ただそこで起きていることを淡々と描いています。
  • その群衆の中に、三十八年もの間病を患っている人がいました。ヨハネはその期間の長さを強調しています。イエス様は横たわっている彼をご覧になり、長い間その状態であることを知って、近づいて行かれます。
  • この中風の人の絶望的な孤独が浮き彫りにされます。「主よ、水が動くときに私を池に入れてくれる人がいません。私が行っている間に、他の人が先に降りて行くのです。」この人は、自分に唯一提示された行動から完全に締め出されているのです。頼れる人脈もなく、運んでくれる腕もなく、走る足もありません。彼はただそこにいるだけなのです。
  • 幸いなことに、イエス様がそこを通りかかられます。ある注解者は、この第三のしるしに「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ 10:11)という宣言との響き合いを見ています。イエス様は、動くことすらできない麻痺した羊のことさえも心にかけてくださる、良い羊飼いなのです。
  • この無力さは、あなた自身の姿を映す鏡です。あなたもまた、罪から癒やされる力を持っていませんでした。ローマ 5:6-10は力強くこう語ります。「私たちがまだ弱かったころ、定められたときに、キリストは不敬虔な者のために死んでくださいました。」私たちがまだ神の敵であったときに、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神は私たちに対するご自分の愛を示してくださったのです。

2. 信仰を呼び起こす問い――「良くなりたいか」

  • イエス様は、その人の意志を無視して癒やされることはありません。「良くなりたいか」と尋ねられます。これは単なる社交辞令ではありません。信仰への招きなのです。
  • その言葉の奥にある本当の問いは、「わたしがあなたを癒やすことができると信じるか」というものです。その人は自分なりの仕方で、自分の絶望と無力さを打ち明けます。まさにそこで、彼はキリストの権威と力に出会うのです。
  • ここには一つの緊張関係があります。あなたは自分の力では何もできない状態にあり、心を変えていただくためには神の力を必要としています。それでいて、ある瞬間には、信仰の行為によって自分の意志を働かせるよう招かれているのです。パウロはエペソ 2:8でこうまとめています。「あなたがたが救われたのは、恵みにより、信仰によるのであって、それはあなたがた自身から出たのではなく、神からの賜物です。」
  • これこそ信仰の奇跡です。キリストが語られ、ある瞬間、私たちは「はい、受け入れます、信じます」と答えるのです。あの瞬間、中風の人の心の中で何が起こったのか、技術的に説明することはできません。しかし、まさにそれが起こったのです。

3. 癒やしと安息日(8-13節)

  • 「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」その瞬間、その人は癒やされ、床を取り上げて歩き始めます。ヨハネは「起きて、床を取り上げて歩きなさい」を三度――イエス様の言葉の中で、癒やしの出来事の描写の中で、そしてユダヤ人の指導者たちへのその人の証言の中で――繰り返しています。この繰り返しは、キリストの言葉の力と権威を際立たせています。イエス様が語られたことは、そのまま実現するのです。
  • イエス様はまっすぐに目的へと向かわれます。伝統的なしきたりに従うことはなさいません。その人を水辺に近づけたり、池を動かしたりすることもありません。伝統も迷信も必要としないのです。不可能に思えることを語り、それをなす力を与えてくださいます。
  • ところが、この奇跡は安息日に起こりました。ユダヤ人の指導者たちはその人を問い詰めます。「今日は安息日だ。床を運んではならない。」人間が物事を狭い視野からしか見られず、本質を見失ってしまう能力には、驚かされるばかりです。彼らは本当の奇跡を見ていません。三十八年間麻痺していた人が歩いていることを喜ぶべきなのに、彼らが気にするのは床のことなのです。
  • 宗教指導者たちが関心を持つのは規則であって、目の前にある必要ではありません。イエス様には、ご自分の手で癒やす権利があります。もし本当に神であられるなら、そうする権利をお持ちなのです。安息日になされたこの奇跡は、すでに「わたしは神である。だからこれをなす権利がある」という宣言なのです。
  • 福音書の他の箇所で、イエス様はこの記事を補うニュアンスを加えておられます。マルコ 2:27-28ではこう言われます。「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です。」休みの日は、人の物質的、霊的な益のために設けられたものなのです。今日、あなたがユダヤ式の安息日をそのまま守っていなくても、日曜日のように一日を取り分けて、兄弟姉妹とともに集い、神があなたのためになさったことに心を向けることは、神があなたに与えてくださった贈り物なのです。

4. イエス様との再会と戒め(14節)

  • 奇跡の後、その人は自分が癒やされたことは分かっていましたが、それが誰によるものかはまだ知りませんでした。しばらくして、イエス様は神殿の庭で彼を見つけて言われます。「あなたは良くなった。もう罪を犯してはならない。もっと悪いことが起こらないように。」
  • イエス様はその人を癒やされたと宣言しますが、それだけで終わらせることはなさいません。奇跡はキリストが誰であるかを示すものですが、罪の問題はなお残っているのです。パウロが語るように、すべての人は罪を犯し、神の栄光を受けることができずにいます。あなたは神と和解する必要があり、たとえ不完全であっても、罪を犯すたびに赦しを求めながら、キリストに従って歩みたいと願う必要があるのです。
  • マルコ 2:1-12では、友人たちが屋根から下ろした別の中風の人に対して、イエス様はまず「あなたの罪は赦された」と言われます。律法学者たちは反応します。「神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」まさにその通りです。罪を赦すことは神のしるしであり、イエス様はそれをなさいます。これはイエス様の正体を示す力強い証拠なのです。
  • ヨハネ 1:29では、イエス様は「世の罪を取り除く神の小羊」として紹介されています。そしてヨハネ 3:17はこう付け加えます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためです。」今のところ、イエス様は裁き主ではなく、救い主なのです。
  • けれども、「もう罪を犯してはならない。もっと悪いことが起こらないように」という警告は、あなたを終わりの日の裁きへと向き合わせるものです。この警告があなたの人生の中で働き続け、救いから遠ざかることのないようにと招かれているのです。

5. それぞれの反応――証しする人、非難する指導者たち(15-16節)

  • その人は駆け出して、自分を癒やしたのはイエス様だとユダヤ人の指導者たちに伝えます。それだけでも素晴らしいことです。彼は隠すことなく、自分に起こったことに名前を付けたのです。
  • ところが指導者たちは、それを安息日になさったことを理由に、イエス様を非難する反応を示します。ここで焦点はイエス様ご自身へと移っていきます。今度は、イエス様がご自分が何者であるかを説明する番なのです。

6. イエス様、神を父と呼ばれる(17-18節)

  • 「わたしの父は今に至るまで働いておられます。だから、わたしも働くのです。」御子の働きは御父の働きと共にあります。神の働きは安息日の間も止まることがありません。神は決して正義を行うこと、善を行うことをやめられないからです。
  • ユダヤ人の指導者たちの反応は激しいものでした。この宣言は、彼らにとって「イエスを殺そうとする理由がいっそう増した」ことになります。理由は二つあります。安息日についての彼らの律法解釈に違反しただけでなく、「神を自分の父と呼び、自分を神と等しい者としていた」からです。
  • 時に耳にするような、聖書はイエス様が神であることをただほのめかしているだけだという見方は正しくありません。ここでも、他の箇所――彼らがイエス様を石打ちにしようと石を手にする場面――と同じように、指導者たちは、イエス様が神と等しい者であると主張したことに反応しているのです。彼らはイエス様がご自分について語られたことをしっかりと聞いていました。そして、それを拒んだのです。

7. 恵み深く、啓示的で、覆すしるし

  • 恵み深い。この奇跡はあわれみの行為です。三十八年間動けなかった人が立ち上がり、歩き、人生を取り戻します。神は具体的な善を行うことなしに、教理だけを語られる方ではありません。
  • 啓示的。このしるしは、イエス様が誰であるかを示しています。メシアであり、神の子であり、来たるべき方です。これはまさに、ヨハネ 20:31に記されたヨハネの福音書の目的そのものです。「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるため、また信じてイエスの名によって命を得るためです。」
  • 覆すもの。このしるしは、宗教的な思い込みを打ち砕きます。水が動く迷信――打ち砕かれました。安息日についての機械的な理解――打ち砕かれました。自分自身の宗教の枠に神を押し込めたまま神を受け入れられるという考え――打ち砕かれました。規則への機械的な服従は、恵みへと置き換えられます。それでも、週ごとの休みの価値が失われるわけではありません。

心に留めておきたいポイント

  • ベテスダの中風の人は特別な例外ではありません。それはあなた自身の姿なのです。あなたは自分の救いのために動くことがまったくできない状態にあり、そこにイエス様のほうから来てくださったのです。
  • 「良くなりたいか」というイエス様の問いは、社交辞令ではありません。それはあなたの信仰を呼び起こすためのものです。すべてを理解する前に、まずイエス様に信頼を置くようにと招いておられます。
  • イエス様の言葉には権威があります。語られたことは、そのまま実現するのです。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」は、物語の中で三度繰り返される、力ある命令として聞くべきです。
  • 宗教指導者たちは規則に目を向け、人を見落としています。安息日は人のためにあり、人の子は安息日にも主なのです。
  • 罪を赦すことは神のしるしです。イエス様はそれをなさり、ご自分を御父のひとり子と呼ぶことによって、公然とそれを引き受けられます。
  • 癒やしは贈り物です。しかしそれは一つの招きとともに与えられます。「もう罪を犯してはならない。」恵みは、以前と同じように生き続けるためではなく、別の生き方をするためにあなたを自由にするのです。

あなた自身への適用

  1. 今のあなたにとって「ベテスダ」はどこにありますか。「他の人はいつも自分より先に行ってしまう。何も変わらない」と思いながら、何年も抱え続けている状況は何でしょうか。
  2. もし今朝、イエス様があなたに身をかがめて、「良くなりたいか」と尋ねられたら、あなたは正直にどう答えますか。本当にその床から出たいと願っていますか。
  3. あなたの人生のどの領域で、あなたの「宗教心」はユダヤ人指導者たちと似ていないでしょうか。規則ばかりを見て、目の前にいる人――兄弟や姉妹、同僚、隣人――を見落としてはいないでしょうか。
  4. 「もう罪を犯してはならない。もっと悪いことが起こらないように」という警告を、あなたはどれほど真剣に受け止めていますか。古い居心地の良さのように戻ってしまう習慣や妥協、執着はないでしょうか。
  5. あなたは今、神のため、あるいは周りの人のために何もできないと感じる季節を過ごしているかもしれません。あなたが先にイエス様のもとまではって行かなければならないのではなく、イエス様のほうがあなたのところに来てくださるという確信は、今日、何を変えるでしょうか。

引用聖句

  • ヨハネ 5:1-18 ― ベテスダでの中風の人の癒やし。
  • ヨハネ 20:31 ― ヨハネの福音書の目的。
  • ヨハネ 1:12 ― 「イエスを受け入れた者、すなわちその名を信じた者には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
  • ヨハネ 1:29 ― 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
  • ヨハネ 3:17 ― 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためです。」
  • ヨハネ 10:11 ― 「わたしは良い羊飼いである。」
  • ローマ 5:6-10 ― 私たちがまだ弱かったころ、キリストが私たちのために死んでくださった。
  • エペソ 2:1-8 ― 「あなたがたが救われたのは、恵みにより、信仰によるのです。」
  • マルコ 2:1-12 ― 罪の赦しは神のしるしである。
  • マルコ 2:27-28 ― 安息日は人のためにある。

よくある質問

答えを知っておられたのに、なぜイエス様はその人に「良くなりたいか」と尋ねられたのですか。

イエス様は決して、その人の意志を無視して力ずくで事を進められることがないからです。この問いは社交辞令ではありません。信仰を呼び起こすためのものです。「良くなりたいか」という言葉の奥には、「わたしがあなたを癒やすことができると信じるか」という問いがあります。中風の人は池までたどり着くことはできませんが、「はい」と答えることはできます。まさにその瞬間、彼の信仰はキリストの権威と力に出会うのです。恵みによる救いは、あなたの意志を無効にするものではありません。むしろ、それを呼び覚ますのです。

なぜユダヤ人の指導者たちは、癒やしに対してこれほど否定的な反応を示したのですか。

彼らが物事を狭い視野からしか見ていなかったからです。三十八年間麻痺していた人が歩いているというのに、彼らが目を留めるのは、彼が安息日に運んでいる床のことだけです。彼らの宗教体系は、自分たちの枠から外れたところで神の御業が現れたとき、それを認識できないものにしてしまっていました。彼らが関心を持つのは規則であって、目の前にある必要ではありません。イエス様は、安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではないと語られます。規則を人よりも優先させるあらゆる宗教心は、神の御心から離れてしまうのです。

「もう罪を犯してはならない。もっと悪いことが起こらないように」というのは、私が再び罪を犯したら神に罰せられるという意味ですか。

これはあなたを恐れの中で生きさせるための脅しではなく、終わりの日の裁きへとあなたを向き合わせる真剣な警告です。イエス様は今のところ、裁き主としてではなく、救い主として来られました(ヨハネ 3:17)。しかし恵みは、以前と同じように生き続けるための白紙の小切手ではありません。あなたの霊的な癒やしは、新しい道をあなたに開いてくれます。たとえ不完全であっても、倒れるたびに赦しを求めながらキリストに従って歩むこと――それが、あなたに与えられたものへの当然の応答なのです。

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