聖書 — 口語訳 (1955)

詩篇 51

概要

詩篇51篇は、預言者ナタンにバテ・シェバとの罪を指摘されたダビデの、悔い改めの祈りです。表題がこの背景を伝えています。ダビデは何も軽くせず、自分の罪を認め、神に洗っていただき、きよい心を造っていただくよう願います。さらに、救いの喜びが戻ることを求め、罪人たちに教えると約束します。この詩篇は、告白と神への立ち返りの聖書的な手本です。

表題によると、詩篇51篇はダビデの詩で、状況も記されています。ダビデがバテ・シェバと罪を犯し、その夫ウリヤを殺させたあと、預言者ナタンが彼のもとに来たときです(サムエル記下11章と12章)。これは悔い改めの詩篇で、教会の伝統が数える七つの悔い改めの詩篇(ほかに詩篇6、32、38、102、130、143篇)の中で、最もよく知られています。ラテン語訳の最初の言葉から「ミゼレーレ」とも呼ばれます。ヘブライ語聖書や、それに従う多くの聖書(フランス語訳など)では、表題が2つの節に数えられ、番号が2つずれます。きよい心を求める祈り(このページの10節)は12節、砕かれた霊(17節)は19節となります。口語訳ではこのページと同じ番号です。今日、クリスチャンはこの詩篇を、罪の告白のとき、聖餐の前、神に立ち返るとき、そして重い罪責感を負う人に寄り添うときに祈ります。

この章の4つの区分

  1. 1-4節私をあわれんでください:ダビデは罪を認める
  2. 5-9節私をきよめてください:誠実な心と取り戻される喜び
  3. 10-14節きよい心を造り、あなたの御霊を取り去らないでください
  4. 15-19節砕かれた霊:神が喜ばれるまことのいけにえ

1神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。

2わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。

3わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。

4わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。

5見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。

6見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。

7ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。

8わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。

9み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。

10神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。

11わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。

12あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。

13そうすればわたしは、とがを犯した者に あなたの道を教え、罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。

14神よ、わが救の神よ、血を流した罪からわたしを助け出してください。わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう。

15主よ、わたしのくちびるを開いてください。わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。

16あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても あなたは喜ばれないでしょう。

17神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を かろしめられません。

18あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、エルサレムの城壁を築きなおしてください。

19その時あなたは義のいけにえと燔祭と、全き燔祭とを喜ばれるでしょう。その時あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。

詩篇51篇を節ごとに読む

1-2節私をあわれんでください:ただ神のあわれみにすがる

表題がこの祈りの場面を示します。ナタンがダビデに、姦淫とウリヤの殺害を突きつけた直後です。ダビデは言い訳からではなく、神から始めます。「あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ」。功績も、情状酌量の余地も持ち出さず、ただ神の豊かなあわれみにすがります。自分の罪を三つの言葉で呼びます。とが、不義、罪。神への反逆、内側のゆがみ、的外れです。そして三つのことを願います。ぬぐい去ってください(帳簿から借金を消すように)。洗い去ってください(汚れた衣をすっかり洗うように)。清めてください(汚れていたものを清いと宣言するように)。恥ずかしい罪を抱えているなら、すべてはここから始まります。償おうとする努力からではなく、神がどのような方であるかから始まるのです。

3-6節言い訳のない告白:心の奥底まで

ダビデは何も軽くしません。「わたしは自分のとがを知っています」。罪はいつも彼の前にあります。4節では、ただ神に対して罪を犯したと言います。実際にはウリヤを殺させ、バテ・シェバへの権力を乱用し、民を裏切りました。それでも彼は、人に対する罪はまず、律法を与え、一人ひとりを愛しておられる神への罪だと悟り、神の宣告が正しいことも認めます。5節では、行いよりもさらに深く、生まれたときから罪人だと言います。言い訳でも母への非難でもなく、悪は罪を犯す前から自分の内にあったという告白です。6節は、神が求めておられるものを示します。見せかけではなく、心の奥の真実です。

7-9節私を洗ってください:雪よりも白く

ダビデはヒソプで清めてほしいと願います。モーセの律法では、この小さな植物で、重い皮膚病のいやされた人や、死んだ人に触れた人に、血や清めの水を振りかけました(レビ記14章、民数記19章)。ダビデは自分を汚れた者、締め出された者と感じ、神に清いと宣言していただく必要がありました。そして、それは可能だと信じています。「わたしは雪よりも白くなるでしょう」。続いて、もう一度喜びを聞かせてほしいと願います。神が砕かれた骨は、罪を責められる痛みを表します。隠した罪は体にまで重くのしかかったと、詩篇32篇も語っています。最後に、み顔を罪から隠し、不義をぬぐい去ってほしいと祈ります。イエスを信じる人にとって、この清めには名があります。すべての罪から清める、イエスの血です(ヨハネの第一の手紙1章7節)。

10-12節きよい心をつくり、喜びを返してください

ここが詩篇の頂点です。「わたしのために清い心をつくり」。この動詞は創世記1章の「創造」と同じ言葉で、旧約聖書では主語がいつも神です。ダビデは表面を整えることではなく、新しい心を求めます。自分で自分を造り直せないと知っているからです。さらに、最初の誘惑に負けない、新しい、正しい霊も求めます。11節では、聖なる霊を取らないでほしいと願います。ダビデは主の霊がサウルを離れるのを見ていました(サムエル記上16章14節)。イエスは、助け主である御霊がいつまでも弟子たちとともにおられると約束されました(ヨハネによる福音書14章16節)。この節の読み方はクリスチャンの間でも分かれますが、神との交わりを失う恐れは、だれもが聞き取ります。12節でダビデが求めるのは、もう一度救われることではなく、罪が奪った救いの喜びを返してもらうことです。

13-15節赦された罪人は、証人となり礼拝者となる

赦しはダビデで終わりません。彼は約束します。「そうすればわたしは、とがを犯した者にあなたの道を教え」。恵みを受けた人は、それを語るのにふさわしい立場にいます。裁く者としてではなく、証人としてです。14節では、血を流した罪から助け出してほしいと願います。ウリヤの殺害の罪責を、もう隠してはいません。神を「わが救の神」と呼びます。続いて短い祈りが来ます。「主よ、わたしのくちびるを開いてください」。恥は口を閉ざしますが、赦しはその口を賛美のために開きます。自分の罪が、神に仕える資格を奪っていると感じているなら、この箇所は別のことを語ります。受けたあわれみは、伝えるべきメッセージになるのです。

16-17節神が求めるいけにえ:砕かれた心

ダビデは王ですから、家畜の群れをまるごとささげることもできたでしょう。しかしモーセの律法には、故意の姦淫や殺人をおおうためのいけにえは定められておらず、悔い改めのない儀式には何の価値もありません。17節が鍵を与えます。「神の受けられるいけにえは砕けた魂です」。砕かれた霊とは、自己嫌悪につぶされた心ではなく、もう自分を守ろうとしなくなった高ぶりのことです。そして約束は力強いものです。神は、砕けた悔いた心を決して軽んじられません。退けられないのです。神があなたに求めておられるのは、宗教的な業績でも、借りを返すための償いでもなく、あなたの真実な立ち返りです。その借りは、イエスが十字架で払ってくださいました。

18-19節エルサレムのための祈りと、真実な礼拝

詩篇の結びで、祈りは広がります。ダビデは神に、シオンに恵みを施し、エルサレムの城壁を築きなおしてくださいと願います。王の罪は民全体に及び、その回復も民全体に及びます。この2節は、エルサレムが廃墟となったバビロン捕囚の時代に付け加えられたと考える人が多く、ダビデが自分の都のために祈ったと見る人もいます。本文からは決められません。しかしメッセージははっきりしています。心が神に立ち返ったとき、礼拝は意味を取り戻します。義のいけにえは、砕かれた心と対立するものではなく、そこから生まれます。あなたの賛美も奉仕も献げ物も、赦された心から湧き出るとき、再び喜びとなります。

詩篇51篇の祈り方

この詩篇を祈るとき

  • もう隠しきれなくなった罪を前にして。人にも、自分自身にも。
  • 傷つける言葉、嘘、裏切りのあとで、良心がとがめるとき。
  • 聖餐にあずかる前に、神の前で正直に自分を見つめるために。
  • ナタンがダビデにしたように、友人が自分についての厳しい真実を示してくれたとき。
  • すでに告白した罪の恥が、まだあなたを責め続けるとき。
  • 神との歩みが冷えて、信仰の喜びを失ったとき。

詩篇51篇に基づく祈り

神よ、あなたのいつくしみによって、私をあわれんでください。言い訳も功績も持たず、ただあなたの豊かなあわれみだけを携えて来ました。私が何をしたか、あなたはご存じです。もう隠したり、軽く見せたりしたくありません。私はあなたに罪を犯し、あなたの目に悪いことを行いました。私の罪はいつも目の前にあり、恥ずかしくてたまりません。私を洗い、罪から清めてください。私のために流されたイエスの血によってだけ、私は雪よりも白くなれます。過去を消すだけでなく、きよい心をつくり、新しい霊を与えてください。み前から私を捨てないでください。罪が奪った救いの喜びを返してください。主よ、私のくちびるを開いてください。そうすれば私の口は、あなたをほめたたえます。砕かれた心のほかに、ささげるものはありません。あなたがそれを軽んじられないと信じます。同じように倒れる人々に、私の人生を通して、あなたの恵みを証しさせてください。アーメン。

鍵となる聖句

1節
神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。

表題は、この詩篇をナタンの訪問の後に置いています。ダビデは、自分の功績ではなく、神の恵みとあわれみに頼って、罪を消してくださるよう願います。

4節
わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。

ダビデはウリヤとバテ・シェバに対して罪を犯しましたが、ただ神に対して罪を犯したと言います。あらゆる罪はまず神を傷つけること、そして神のさばきが正しいことを認めているのです。

10節
神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。

ダビデは赦しだけでなく、変えられることを求めます。きよい心と、新しくされた霊です。赦しと変化は共に歩むものです。

12節
あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。

罪は彼から救いの喜びを奪いました。それを取り戻すよう求めることで、ダビデは、罪責感を取り除くだけでなく、神との関係を回復してくださるよう願っています。

この章に登場する人物

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説教が語っていること

詩篇51篇についてよくある質問

詩篇51篇はどんな意味ですか

詩篇51篇は告白の祈りです。ダビデは自分の罪を認め、神に洗っていただき、きよい心を造っていただくよう願い、神をほめたたえ、ほかの人々に教えると約束します。重い罪の後でも、自分の努力ではなく、神のあわれみに頼って神のもとへ帰れることを示しています。

ダビデはどのような状況で詩篇51篇を書いたのですか

表題がそれを明らかにしています。バテ・シェバとの罪の後、預言者ナタンがダビデのもとに来た時のことです。物語はサムエル記第二の11章と12章にあります。姦淫、罪を隠すためのウリヤの殺害、ナタンによる指摘、そして悔い改めと続きます。

19節の砕かれた霊とはどういう意味ですか

神に喜ばれるいけにえは、砕かれた霊、砕かれた悔いた心だと述べています。神の前での誠実なへりくだり、言い訳をせずに自分の罪を認めることです。神が求めておられるのは、習慣的に行う儀式ではなく、神のもとに帰ってくる心です。

赦しを求めて詩篇51篇をどう祈ればよいですか

ゆっくり読み、告白すべきことを言い訳せずに言葉にしましょう。1節から4節を自分の言葉で言い直し、次に10節のきよい心を求めます。最後に、15節の神をほめたたえるという約束で結びます。この詩篇は、聖餐の前や、神のもとに帰る時にもよく読み返されます。

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