はじめに
「だれが主の山にのぼることができるか。だれがその聖なる所に立つことができるか。」ポルトガルのIgreja Evangélica Baptista da Paredeを牧会するサンタナ牧師は、このメッセージで、教会を聖書の山々の頂へと導くシリーズを続けています。今回取り上げるのは詩篇24篇、神殿での礼拝で歌われたダビデの詩です。
主の山には名前があります。シオンです。牧師はその歴史をたどったうえで、詩篇の問いを投げかけます。だれが神の臨在に入ることができるのか。牧師の答えははっきりしています。「手が清く、心のいさぎよい者」です。さらに、礼拝を脅かす三つの危険を挙げ、最後に良い知らせを伝えます。シオンの山への道は、イエスにあって開かれているのです。
メッセージの構成
1. シオン、要塞から神の臨在へ
- シオンとは、ダビデ王がエブス人から奪った城塞の丘の名前です(サムエル記下5章6節から8節)。この要塞はエルサレムの拠点となり、シオンについて語ることは、しばしばエルサレムについて語ることと同じ意味になりました。
- この場所は、それよりずっと前、イエスの時代の約二千年前から知られていました。アブラハムが約束の地へ向かって歩いていたとき、サレムの王であり祭司であるメルキゼデクに出会っています。そのサレムがエルサレムです。「その幕屋はサレムにあり、そのすまいはシオンにある。」(詩篇76篇2節)
- ダビデはそこへ契約の箱を運び、天幕の中に置きました(サムエル記下6章)。ソロモンはそこに神殿を建てました。もはやダビデの家だけではなく神の家となり、エルサレムは聖なる都となりました。
- シオンは、単なる要塞ではなくなりました。この言葉は深い霊的な意味を帯びるようになります。シオンにのぼるとは、神の臨在、神の聖なる所に入ることです。
2. 今日、シオンにのぼるということ
- エルサレムが聖なる都とみなされていた間にも、民の道徳的、霊的な生活は衰えていきました。そのため主はこう言われました。「この民は口をもって我に近づき、くちびるをもって我を敬うが、その心は我に遠くはなれ」(イザヤ書29章13節)。イエスもこの言葉を引用されました(マタイによる福音書15章8節)。
- イエスの時代のユダヤ人も、シオンの山で礼拝しなければならないと考えていました。サマリヤの女がイエスにそのことを話します。あなたがたはエルサレムと言い、私たちはこの山、ゲリジム山と言います。イエスは、まことの礼拝者が霊とまこととをもって父を礼拝する時が来ると答えられました(ヨハネによる福音書4章20節から24節)。
- 「シオンの山にのぼるために、エルサレムへ行く必要はありません。」祈りによって神の臨在に入るたびに、教会が礼拝のために集まるたびに、主に仕えるたびに、あなたはシオンにのぼっているのです。
- もう献げるべきいけにえはありません。イエスがすでにご自身をささげてくださったからです。神の臨在に入るとは、これからは主に仕えることを意味します。
3. だれが神の臨在に入ることができるのか
- 詩篇24篇3節の問いは、詩篇15篇1節にも出てきます。「主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか。あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。」この問いは、ある事実を前提にしています。だれもが主の臨在に近づけるわけではない、ということです。
- 詩篇はこう始まります。「地とそれに満ちるもの、世界とその中に住む者とは主のものである。」すべては主のものです。「あなたは主のものです。主を信じていなくても、あなたは主のものです。」
- 主の臨在に入るとは、主権者である神、栄光の王の前に立つことです。「強く、かつ勇ましい主、戦いに勇ましい主」(詩篇24篇8節)。
- 条件は4節に記されています。「手が清く、心のいさぎよい者、むなしいものに魂を仕向けず、偽って誓わない者である。」言いかえれば、聖さです。
4. 清い手と、きよい心
- 清い手は行いにかかわります。家庭での生活、仕事での生活、社会での生活です。きよい心は動機、思い、感情にかかわります。神に対しても人に対しても、偽りのない者であることです。
- 「日曜日に教会で一時間だけ神の臨在に入り、平日は神の臨在の外を歩く、ということはできません。」また、何かが必要だから祈りに来るのに、その少し前には、自分の会話や行い、思いが神を悲しませていた、ということも許されません。
- 魂をむなしいものに仕向けないとは、過ぎ去るものに執着しないことです。牧師は笑いながら話します。以前は肩まで伸びた髪をとかすのに多くの時間を使っていたが、今は一秒もかけない。それは過ぎ去ったのです。引き上げて整えた肌も、いつかはたるんでいきます。
- むなしさとは、安心や喜びや満足を得ようとつかみ取ろうとしながら、結局は握っていられないものすべてです。お金や快楽がそうです。ソロモンは伝道の書にそれを記しました。あらゆることを試したが、すべてがむなしかった。すべてが消え去ったからです。
- 偽って誓わないとは、うそつきにならないこと、本当でないのに「本当だ、本当だ」と言わないことです。
5. 言葉にまで及ぶ誠実さ
- 詩篇15篇も同じことを語っています。誠実に歩み、正しいことを行い、心の中で真実を語り、人を中傷せず、隣人に悪を行わず、利息を取って金を貸さず、罪のない者に不利になるわいろを受けない者です。「このようにする者はとこしえに動かされることはない。」
- 聖さとは誠実さのことです。心において、言葉において、人間関係において、霊的な生活において、お金の使い方において。
- 聖書には、言葉についての勧めがあふれています。同じ泉から、甘い水と苦い水が出るでしょうか。同じ口から、賛美とのろいが出てよいでしょうか(ヤコブの手紙3章10節から11節)。
- イザヤは神の栄光を見たとき、自分のくちびるのことで罪を感じました。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で」(イザヤ書6章5節)。
- 牧師はここで脇道にそれ、ブラジルの兄弟姉妹におわびしながら話します。好きになれない政治家の候補者を、クリスチャンが、牧師までもが侮辱しているのを見て、心を痛めたというのです。意見が違ってもかまいませんし、投票はクリスチャンの務めです。しかし、ののしることは務めではありません。「敵を愛し」なさい(マタイによる福音書5章44節)。
- 「いちばん悲しいのは、ソーシャルメディアに『神はわが岩、わが砦』と投稿した直後に、『だれそれは悪魔だ』と投稿する人を見ることです。」これはブラジルの人たちだけの問題ではなく、私たち皆の問題です。多くの牧師がソーシャルメディアを説教壇にし、その同じ説教壇から他人の悪口を言っています。それは神の御名をたたえることにはなりません。
- 「神は罪人を拒まれませんが、罪人と関係を持つために条件を定めておられます。」その条件が、清い手ときよい心です。そうでなければ、と牧師は言います。祈りは天井を越えていきません。
6. 礼拝における三つの危険
- 牧師は、神学校の元教授でありリスボン大学の元講師でもあるマヌエル・アレシャンドレ・ジュニオール牧師の礼拝についての本に基づき、そこで指摘されている三つの危険を取り上げます。
- 霊的な鈍感さ。来て、参加はするけれど、何も感じず、何も変わりません。「今日の礼拝はよかった」と言って帰るものの、生活にも心にも何も動いていません。マラキ書は、神の叱責のたびに「どのように」と答える民を描いています(マラキ書1章2節、1章6節から7節、3章7節から8節)。多くの信者は、誤りを指摘されると「でも、どこが悪いのですか」と答えます。聖霊が罪を認めさせようとされるのに、私たちが抵抗しているからです。だからパウロは呼びかけます。「あなたがたは、この世にならってはいけない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ」なさい(ローマ人への手紙12章2節)。
- 牧師は、コンサートなのか、ダンスホールなのか、礼拝なのか分からなくなるような動画を見ることがある、と打ち明けます。主の臨在には、敬虔な思いをもって入らなければなりません。イザヤ書1章11節から17節は、心のこもらない礼拝を神がどう見ておられるかを示しています。「あなたがたが手を伸べて祈っても、わたしは目をおおって、あなたがたに見せない。たとい多くの祈をささげても、わたしは聞かない。あなたがたの手は血まみれである。あなたがたは身を洗って、清くなり」なさい。
- 偽善。礼拝に行き、歌い、拍手し、手を上げ、祈り、聖餐にあずかり、献げる。けれども中身がありません。私たちは礼拝を、音楽や空調、笑わせたり泣かせたりする説教者で判断します。見かけを重んじ、中身を軽んじているのです。マヌエル・アレシャンドレ・ジュニオール牧師は「日曜日の晴れ着」について語っています。かつては最もよい服を着て礼拝に行きました。牧師もアンゴラでそれを見たそうで、それは良いことです。けれども、その服が、汚れた心、霊、口を隠していることもあります。典礼や儀式は、霊性の代わりにはなりません。
- 見捨てられ、退けられること。エゼキエル書8章から10章では、神殿にあった神の栄光が、聖所から離れ、神殿から離れ、入口から離れ、ついには町を去っていきます。私たちは、神が離れていかれる危険に、いつも気づいているわけではありません。私たちの罪が、私たちと神との間を隔てています(イザヤ書59章2節)。
- 「サンタナ牧師、本当にそんなに深刻なのですか。今日の牧師は怒っているのですか。」いいえ、と牧師は答えます。とても喜んでいます。ただ、礼拝が真実で誠実なものであり、教会で過ごす時間だけに限られないことを願っているのです。その願いとは、シオンの山、主の臨在の中で、絶えず生きることです。
7. イエスが開いてくださった道
- 神殿の至聖所は、神の臨在を表していました。だれも中に入ることも、のぞくこともできませんでした。垂れ幕がそれを閉ざしていたのです。イエスが「すべてが終った」と言って息を引き取られたとき、その垂れ幕は上から下まで裂けました(ヨハネによる福音書19章30節、マタイによる福音書27章51節)。神に近づく道、シオンへの道は、私たちの身代わりとなってご自身をささげられたイエスを通って開かれています。
- 「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(ヨハネの第一の手紙1章7節)。イエスを信じるとは、イエスが死なれたと信じるだけではありません。罪を悔い改めて、自分のいのちをイエスに捧げることです。「もし、わたしたちが自分の罪を告白すれば、神は真実で正しい方であるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(ヨハネの第一の手紙1章9節)。
- 神は聖なる方で、私たちは罪人ですから、私たちは神の臨在に入ることができません。しかし、この聖く、主権をもち、栄光に満ちた神は、愛と恵みの神でもあります。御子を与え、信じる者がひとりとして滅びず、永遠のいのちを得るようにしてくださいました(ヨハネによる福音書3章16節)。
- 「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14章6節)。だから私たちはイエスの名によって祈ります。道を開いてくださったのはイエスだからです。「悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコによる福音書1章15節)。
- 悔い改めは、簡単な言葉で言い表せます。「主よ、私はよく歩んできませんでした。私の話し方はあなたをたたえるものではなく、私の思いはあなたに栄光を帰さず、私の行いはあなたの御名を高めませんでした。私は罪を告白します。ゆるしてください。」そのとき、あなたは心がきよく、手が清い者となり、主の臨在に入るのです。
- 「あなたは自分で自分をきよめましたか。いいえ。ダビデが詩篇51篇で祈ったように、ただ主に願っただけです。わたしを洗ってください。そうすれば、わたしはきよくなります。」ゆるし、きよめてくださるのは主です。私たちはこの方に信頼を置くのです。
覚えておきたいポイント
- シオンの山にのぼるとは、神の臨在に入ることです。祈りの中で、礼拝の中で、奉仕の中で。
- 詩篇24篇は一つの条件を示しています。清い手ときよい心、つまり、行い、思い、言葉、お金に及ぶ誠実さです。
- ソーシャルメディアも含めたあなたの言葉は、あなたの礼拝が真実かどうかを物語ります。賛美とのろいは、同じ口から出ることはできません。
- 礼拝は、霊的な鈍感さ、偽善、そして最後には神の臨在から遠ざかることによって脅かされます。
- 神への道はイエスにあって開かれています。罪を告白する人は、イエスの血によってゆるされ、きよめられます。
自分への適用
- 平日の、家庭や職場でのあなたの生き方は、日曜日に見せている姿と同じでしょうか。
- 安心や満足を得ようとして、どんな「むなしいもの」にしがみついていますか。
- ここ数日、神の御名をたたえないことを、何か言ったり投稿したりしませんでしたか。
- 聖霊に指摘されたとき、「でも、どこが悪いのですか」と答えてしまいがちではありませんか。
- ダビデのように、主に「わたしを洗ってください」と願うために、今日告白すべき罪は何ですか。
引用聖句
- 詩篇24篇
- 詩篇15篇
- サムエル記下5章6節から8節
- サムエル記下6章15節から16節
- 創世記14章18節
- 詩篇76篇2節
- イザヤ書29章13節
- ヨハネによる福音書4章20節から24節
- ヤコブの手紙3章10節から11節
- イザヤ書6章5節
- マタイによる福音書5章44節
- マラキ書1章
- ローマ人への手紙12章2節
- イザヤ書1章11節から17節
- エゼキエル書8章から10章
- イザヤ書59章2節
- マタイによる福音書27章51節
- ヨハネの第一の手紙1章7節から9節
- ヨハネによる福音書3章16節
- ヨハネによる福音書14章6節
- 詩篇51篇
よくある質問
聖書でいうシオンの山とは何ですか。
シオンとは、ダビデがエブス人から奪った城塞のことで(サムエル記下5章6節から8節)、のちにダビデの町となり、さらにソロモンの神殿の場所となりました。この場所は、アブラハムの時代にはすでに、メルキゼデクの町サレムとして知られていました。神の民にとって、シオンにのぼることは、神の臨在に入ることを意味していました。
「清い手ときよい心」を持つとはどういう意味ですか。
清い手は行いにかかわり、家庭、仕事、社会での生活を指します。きよい心は動機、思い、感情にかかわります。サンタナ牧師はここに、完全な誠実さへの要求を見ています。日曜日の一時間だけ神の臨在にいて、残りの週を神から遠く離れて生きることはできません。
今日、どのように神の臨在に入ればよいですか。
イエスによってです。イエスが十字架で死なれたとき、神殿の垂れ幕は上から下まで裂けました。神への道は開かれています。真心から罪を告白する人は、イエスの血によってゆるされ、きよめられます(ヨハネの第一の手紙1章7節から9節)。自分で自分をきよめるのではありません。ダビデのように、主に洗ってくださいと願うのです。