申命記18:13は、この箇所全体を貫く一つの挑戦を投げかけます。「あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。」17章と18章、いけにえ、王、偶像、祭司、預言者について語るこの二つの章は、すべて一つの問いをめぐって展開されます。あなたの心は、神の前でひとつにまとまっているでしょうか、それとも分裂しているでしょうか。
神が憎まれるもの:分裂した心
この箇所は申命記17:1から始まります。「あなたの神、主に、傷や欠陥のある牛や羊をいけにえとしてささげてはならない。それはあなたの神、主にとって忌み嫌うべきものだからである。」神は、何の代価も伴わないもの、どうせ捨てるはずだったものを、ご自分にささげられることを拒まれます。欠陥のある動物をささげることは、ささげることではなく、余りものを処分することにすぎません。神は行為だけを見るのではなく、その行為を支える心を見ておられます。人はうわべを見るが、主は心を見る、とあるとおりです。
これは、黙示録3:15-16でイエスがラオデキヤの教会に語られる叱責とまったく同じです。「あなたは冷たくもなく熱くもない。だから、あなたが生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」全き心の反対は、不完全な心ではありません。生ぬるい心、中途半端に献身し、決断できないでいる心です。
1. ほかの神々のもとへ「行く」こと
申命記17:2-5は続いて、神が憎まれるものを描きます。ほかの神々に仕えること、太陽や月や天の万象にひれ伏すことです。被造物は美しいものです。しかし、私たちが礼拝すべきなのは、被造物ではなく、それを造られた創造主です。この箇所は、ほかの神々のもとへ「行く」者は、意図的にそこへ向かっているのだと強調しています。それは事故ではなく、選択なのです。
今日の私たちにとって、それは異教の神殿という形を取るわけではありません。イエスはマタイ6:33でこう言われました。「まず神の国と神の義を求めなさい。」私たちの人生における偶像とは、神の代わりに一番の座を占めるもののことです。スマートフォンのアプリ、ドラマ、仕事、趣味。これらのどれも、それ自体が悪いわけではありません。しかし、あなたが神よりも先に、時間もエネルギーも注意も、それらに与えてしまうなら、それは偶像になります。一日が過ぎ去り、守ろうと思っていた祈りの時間は結局訪れません。それを奪ったのは、あなたの偶像です。
2. 恵みの前での二心
申命記17:5-7は、ほかの神々に仕えに行った者への石打ちの刑を定めています。厳しい律法です。もしこの律法の下にいたなら、あなたは何度石打ちにされなければならなかったでしょうか。私も同じです。イエス・キリストにあって、私たちの罪は赦されています。しかし、この赦しは安っぽいものではありません。神のもとに立ち返るたびに、実際に何から赦されているのかを、心に留め直す必要があります。そうでなければ、恵みはありふれたものになり、「ごめんなさい、またやってしまいました」という三秒で済ませる決まり文句になってしまいます。
神のもとへの立ち返りは、そのたびごとに、その重みにふさわしいものでなければなりません。罪の深刻さを認め、意識して赦しを受け取り、私たちの心を分裂させているものを、御霊に取り除いていただくのです。
3. 王と秩序
申命記17:14-20は、イスラエルが王を求める日が来ることを見越しています。神はそれを禁じてはおられませんが、将来の王に三つの禁止事項を課しておられます。馬を増やさないこと(そのためにエジプトへ戻ってはならない)、妻を増やさないこと、金銀を増やさないことです。王はまた、自らの手で律法の写しを書き記し、生涯それを読み続けなければなりませんでした。
ソロモンは、まさにその正反対のことを行いました。列王記第一10:26-28には、戦車1400両、騎兵12000人、エジプトから輸入された馬が記されています。列王記第一11:1-3には、王女七百人と側女三百人が記されています。列王記第一10:16-21には、金の盾、純金で覆われた王座、金の食器が記されています。人が受けたことのある中で最も広大な知恵をもってしても、それでは足りませんでした。この箇所ははっきりとこう述べています。「彼の心は、父ダビデの心のようには、彼の神、主に対して全きものではなかった」(列王記第一11:4)。
ダビデも大きく倒れました。しかし彼は、神への信頼を決して手放しませんでした。彼は全き人と呼ばれています。一方、ソロモンは自分の心が分裂するままにしてしまいました。ここでの問題は、実績の良し悪しではなく、心の向かう方向なのです。
4. レビ人と真の分け前
申命記18:1-2。レビ人はイスラエルの中に相続地を持ちません。「主が彼らの相続地である」からです。彼らは民がささげる供え物によって生活します。この形をそのまま今日の牧師たちに当てはめることはできませんが、その原則は変わりません。詩篇16:5。「主は私へのゆずりの地所、また私の杯です。」詩篇73:25-26。「天において、私にはあなたのほかにだれもいません。地にあっても、私はあなたのほかに何も望みません。」哀歌3:24、エルサレムの廃墟の中で。「主は私の受ける分です。」ペテロの手紙第一1:4。天に蓄えられた資産です。
あなたの真の分け前とは、イエス・キリストにあって差し出された、神との関係です。この関係を第一に置くとき、他のすべてはそこに加えられていきます。
5. 心霊術:別のところに答えを求める心
申命記18:9-14は、自分の息子や娘を火の中を通らせること、占い、まじない、魔術、死者への口寄せを禁じています。これらすべての実践に共通するものは何でしょうか。神以外のところに、助言や方向性や答えを求めることです。全き心は、神から出ていない霊に相談したりはしません。神を待ち望むのです。
「全き」とは何を意味するのか
申命記18:13。「あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。」ヘブル語の原語はタミムです。これは「一切の欠点がない」という意味ではありません。「混じりけがなく、一つにまとまっている、統一されている」という意味です。分裂していない、二重でない心のことです。
聖書は、完璧ではなかった人々を「全き者」と呼んでいます。
- ノア(創世記6:9):全き人と呼ばれていますが、洪水の後、酔って裸になっている姿が記されています。
- アブラハム(創世記17:1):神は彼に「全き者であれ」と言われました。彼はサラを妹だと偽り、ハガルを妻にしました。その過ちは深刻です。しかし、神への信頼が崩れることはありませんでした。
- ダビデ(詩篇18:23):彼は、後にバテ・シェバの件があったにもかかわらず、神の前で自らを「全き者」と言い表しています。それは、彼が神のもとへ立ち返ることを決してやめなかったからです。
- ヨブ(ヨブ記1:1):「誠実な者」。同じヘブル語、タムが使われています。
ヤコブの手紙4:8はこう告げます。「二心の者たちよ、心を清くしなさい。」文字どおりには、二重の心という意味です。これはまさに、タミムの正反対です。
モーセのような預言者
申命記18:15。「あなたの神、主は、あなたの同胞のうちから、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。」この預言者とは誰でしょうか。新約聖書はそれに明確に答えています。使徒の働き3:22で、ペテロはこの御言葉を引用し、それをイエスに適用しています。使徒の働き7:37でも、ステパノが同じことを行っています。ヘブル人への手紙1:1-2。「神は、むかしは預言者たちによって、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」
今日、父に代わって語られるのは、御子です。私たちが聞くべきなのは、キリストです。申命記18:20-22は、見分けるための基準も示しています。ある預言者が告げたことが実現しないなら、その預言者は神から語ったのではありません。
どうすれば全き者になれるのか
私たちは、自分の力だけで全き者になることはできません。神を知るための二つの手段があります。御言葉と、神とともに生きる経験です。御言葉なしには、あなたは神を正しく知ることができません。神に拠り頼む経験なしには、あなたは理屈の上でしか神を知らず、いざパニックになったとき、あなたはまず自分の知恵や人脈、あるいはインターネットの検索に頼り、それから初めて神に向き直ることになってしまいます。
試金石はシンプルです。何かがあなたに降りかかるとき、あなたはまず誰のもとへ行こうとしますか。それが神でないなら、あなたの心の一部は、まだどこか別のところにあるということです。
覚えておきたいポイント
- 全きとは、完璧ということではありません。ヘブル語のタミムは、欠点のない心ではなく、一つにまとまった心を指しています。
- ソロモンの罪は、分裂した心でした。彼は誰よりも広大な知恵を持っていましたが、千人もの妻たちに心をそらされるままにしてしまいました。
- ダビデは倒れても、全き者であり続けました。彼が決して神のもとへ立ち返ることをやめなかったからです。
- あなたの偶像とは、神の場所を奪うものです。それは毎日、あなたの祈りや御言葉の時間を妨げているものです。
- あなたの分け前は、神ご自身です。レビ人と同じように、まず神があり、他のすべてはそこに加えられます。
個人的な適用
- 昨日、あなたの一日の中で、神が占めるべき場所を奪ったものは何でしたか。
- 困難が起こるとき、あなたが真っ先に向かおうとするのは、誰、あるいは何ですか。
- あなたの赦しは自動的なものになっていませんか。それとも、キリストが自分を何から救い出してくださったのかを、今も心に留めていますか。
- 神に相談する前に、ほかのところ(占い、他人の意見、SNS)に答えを探している領域はありませんか。
- 申命記18:13を前にして、あなたの心が二重であることをやめるために、今週具体的に踏み出せる一歩は何でしょうか。
引用聖句
- 申命記17-18章(新改訳)
- 黙示録3:15-16(新改訳)
- マタイ6:33(新改訳)
- 列王記第一10-11章(新改訳)
- 詩篇16:5(新改訳)
- 詩篇73:25-26(新改訳)
- 哀歌3:24(新改訳)
- ペテロの手紙第一1:4(新改訳)
- 創世記6:9(新改訳)
- 創世記17:1(新改訳)
- 詩篇18:23(新改訳)
- ヨブ記1:1(新改訳)
- ヤコブの手紙4:8(新改訳)
- 使徒の働き3:22(新改訳)
- 使徒の働き7:37(新改訳)
- ヘブル人への手紙1:1-2(新改訳)
よくある質問
申命記18:13の「全き者」とはどういう意味ですか。
ヘブル語の原語はタミムです。これは「罪がない」「完璧」という意味ではなく、「一つにまとまっていて、混じりけがなく、分裂していない」という意味です。全き心とは、神と他の何かの間で、忠誠を分け合わない心のことです。
倒れても、全き者であり続けることはできますか。
できます。ノア、アブラハム、ダビデ、ヨブは、倒れたことがありながらも「全き者」と呼ばれています。大切なのは、神のもとへ立ち返ることであり、心が長く神から離れたままにならないことです。反対に、ソロモンは立ち返ることなく、自分の心が分裂したままにしてしまいました。
自分の人生の中の偶像を、どうすれば見分けられますか。
一日の終わりに、本来神にささげようと思っていた時間と注意を奪ったものが何かを見てみてください。それ自体は悪いものではないかもしれません(仕事、家族、趣味、画面など)。しかし、それが常に神より先に置かれているなら、それは本来神のものである場所を占めているのです。
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