はじめに
イエスがあなたの一日に近づいてくるとき、心の中でこうつぶやいたことはないでしょうか。「今ちょっと忙しいので」。直しかけの網、点けっぱなしの画面、長引く約束。たいしたことではありません。ただ、生活がすべてを埋め尽くしているだけです。
ルカ5:1〜11で、ペテロはまさにこの状態にいます。一晩中漁をして何も獲れずに帰ってきて、網を洗っています。彼が望んでいるのはただ一つ、早く終えて家に帰り、眠ることでした。そして、まさにそのときに、イエスは彼の舟に乗り込まれます。神戸キリスト栄光教会の北山牧師は「ファンか、弟子か」と題するシリーズを開きます。この第一回で牧師は、弟子の歩みが熱心な大きな「はい」から始まることはめったにないと語ります。それはむしろ、ごく小さな一言、「しかし」から始まるのです。
「先生、私たちは夜通し労苦しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉どおり、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)。この「しかし」は、あなたの疲れを消し去るものではありません。あなたの失敗を否定するものでもありません。それはただ、イエスの言葉があなた自身の判断より先に来られるように、一つの隙間を開くのです。
記事の構成
1.「今ちょっと忙しいので」:急かされる弟子の落とし穴
ルカ5:1〜2の場面を見てみましょう。一方には群衆がいます。彼らは神の言葉を聞こうとイエスに押し寄せています。熱心で、にぎやかで、燃えるようです。その群衆を見て、あなたはこう思うかもしれません。「なんと素晴らしい信仰を持つ人たちだろう。」
もう一方、数メートル離れたところには漁師たちがいます。彼らは舟から降り、網を洗っています。それは単なる「仕事」ではありません。一日の終わりの段階であり、頭の中にはただ一つ、家に帰りたいという思いしかない時間です。彼らは疲れ果て、夜は何の収穫もなく、ただ眠りたいだけなのです。
北山牧師は、ここで微妙な点を強調します。イエスは彼らにとって見知らぬ人ではありません。少し前のルカ4:38〜39で、イエスはシモンの姑をひどい熱から癒やされました。シモンはイエスが誰であるかを知っています。彼は自分の家でイエスの力を目の当たりにしたのです。それでも、群衆が御言葉を聞こうと押し寄せているそのとき、シモンは道具の片づけに追われています。
注意してください。牧師ははっきりと言います、イエスは仕事を否定してはいません。聖書は信仰と仕事を対立させてはいないのです。ティモシー・ケラー牧師も著書Every Good Endeavor(邦題『仕事と創造』)の中でこう述べています。仕事は神からの良い賜物であり、創世記3章の堕落によって傷つけられましたが、キリストによって贖われ、礼拝と祈りと奉仕の場として新たに定義し直されたのだと。「仕事を辞めて教会に仕えよ」といった単純化した図式は、ここでは正しくありません。それはセクト的な読み方になってしまいます。
本当の問いは別のところにあります。あなたの舟のすぐそばにイエスが来られたとき、あなたはまだ「今はちょっと」と言えるでしょうか。あなたは知らず知らずのうちに、イエスに出会っていながらも、毎日「今ちょっと忙しいので」とつぶやく人になってしまってはいないでしょうか。
2. 歩みを起こす「しかし」
教えを終えられたイエスは、シモンの方を向いてこう言われます。「深みに漕ぎ出して、網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ5:4)。人間的に見れば、これは理屈に合いません。イエスは大工の出身です。シモンはプロの漁師です。湖のことも、時間帯も、漁場も知り尽くしています。夜が良い時間帯であり、昼間の深いところでは魚は獲れません。シモンには丁重に断る理由が山ほどあったはずです。
しかし彼の答えは、キリスト者の人生全体にとってのひな型となります。「先生、私たちは夜通し労苦しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉どおり、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)。
この「しかし」は小さくもあり、同時に計り知れないほど大きなものでもあります。それは二つのことを同時に成り立たせています。
- 失敗も、疲れも、経験も、正直に認めていること。シモンは現実を否定していません。夜は何の収穫もなかったのです。
- それでもなお、自分の専門知識よりもイエスの言葉を優先することを選んでいること。「お言葉どおり」というわけです。
北山牧師は、弟子の歩みは「自分は強いと感じる」ことから始まるのではないと強調します。それは「自分自身を信じるよりも、あなたを信じます」というところから始まるのです。そしてその結果は、あらゆる予想を超えるものでした。網は破れそうになり、二そうの舟は沈みそうになるほど魚でいっぱいになったのです(6〜7節)。
この奇跡を前にして、ペテロは喜び騒ぐことをしません。彼はイエスの足もとにひざまずいて言います。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」(ルカ5:8)。祝福は彼を高慢にするのではなく、むしろ自分が本当は何者であるかに目を開かせるのです。そしてまさにそこで、イエスは召しの言葉を告げられます。「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのです」(10節)。
弟子とは、イエスに従う前に人生をきちんと整えていた人のことではありません。むしろ、空っぽの舟の中で「しかし」と言い、もう一度網を降ろす人のことなのです。
3. すべてを捨てて立ち上がる:弟子の応答
本文は、簡潔かつ徹底的にこう続きます。「そこで彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ5:11)。同じ動きは、この先のルカ5:27〜28にも見られます。取税人の机に座っていたレビ(私たちがマタイとして知る人物)をイエスが召される場面です。「わたしについて来なさい。すると彼は、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。」
北山牧師は、ここで三つのことに注目させます。
イエスのまなざしが先に来ます。レビがイエスを選んだのではなく、イエスの方が先に、ローマの手先、職業的な盗人とさげすまれていた仕事の中にいる彼を見つめられたのです。ヨハネ15:16はこう語ります。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを立てたのです。」レビを見つけたその同じまなざしは、あなたが自分の人生を何一つ変える前から、あなた自身の夜の中で、あなたを見つけておられたのです。
「立ち上がる」というのは些細なことではありません。福音書では、この動詞はしばしば復活と結びつけられます。すなわち新しい始まりです。しかしこの新しい始まりは、輝かしいだけのものではなく、代償を伴うものでもあります。レビは「すべてを捨てます」。それは単なる仕事だけでなく、収入も、地位も、人脈も、アイデンティティも含めてです。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(コリント第二5:17)。
救われた弟子は、自分の家を開き始めます。レビは自宅でイエスのために盛大な宴会を催します(ルカ5:29)。ギリシャ語の原文は文字どおり、彼が「自分の家を主のために用いた」と語っています。彼は自分が持っているもの(持っていないものではなく)を取り、それを用いて、友人たち、同僚たち、そして立派な宗教家たちが避けていた人々に、イエスを紹介するのです。
北山牧師は、ここから教会にとって非常に具体的な適用を引き出します。人にはそれぞれ異なる役割があります。料理をする人、招待する人、祈る人、迎え入れる人。誰もがすべてをするわけではありません。しかし全員が同じ目的を持っています。それは、イエスを知らせることです。教会のバザー、伝道チームの来訪、学生のための月一回のカフェ、開かれた食事会のように。あなたは料理が上手である必要はありません。祈ることができます。あいさつをすることができます。自分のテーブルを差し出すことができます。あなたが持っているもの、それこそすでに神が用いようとしておられるものなのです。
最後に、目立たないけれども力強い指摘があります。福音書の中で、レビはほとんど言及されることがありません。有名な言葉も、記憶に残る質問もありません。しかし神は、彼が取税人として身につけていた習慣、すなわち記録し、書き留め、帳簿をつけるという性質を用いて、彼にマタイの福音書という一つの福音書全体を書かせられたのです。あなたが自分のために使っていた賜物を、神はご自身の栄光のために用いることがおできになります。「あなたが今日していることは、無駄になりません。時が来て、あなたが御霊に満たされるままにするなら、主はそれをお用いになります。」
心に留めておきたいこと
- 弟子の歩みは「しかし」から始まります。英雄的な勢いからではなく、自分自身の状況判断よりもイエスの言葉を優先するという決断から始まるのです。
- イエスは、あなたが変わる前からあなたを見ておられます。取税人の机に座っていたレビのように、何も獲れなかった夜の中にいたペテロのように、あなたはありのままの姿で見つめられていました。恵みは、あなたが立派になるのを待ってはくれません。
- イエスに従うことには代価が伴います。ペテロもレビもすべてを捨てました。あなたの古いアイデンティティ、支えとしてきたもの、自分自身を定義していたやり方、それらこそが立ち上がって手放されるべきものなのです。
- 救われた弟子は自分の家を分かち合います。イエスに触れられた人生のしるしとは、あふれ出る喜びが、自分の持っているもので他の人々をその食卓に招くことなのです。
- あなたが持っているものは、何一つ無駄になりません。賜物も、経験も、能力も、神はずっと後になってからでも、それらをご自分の奉仕のために取り上げることがおできになります。
個人への適用
- 今、あなたはどこでイエスに「今はちょっと忙しいので」と言いたい誘惑を感じていますか。その具体的な状況を挙げてみましょう。
- あなたの経験と矛盾するからといって退けているイエスの「言葉」(はっきりとした聖書の命令や、祈りの中で与えられた確信)はありませんか。「しかし、お言葉どおり」と付け加える備えはできていますか。
- あなたの古い人生のどの部分(地位、安全、評判)を、神はより自由に立ち上がって従うために「捨てる」よう求めておられますか。
- レビが自分の家を用いたように、あなたが今週「主のために用いる」ことができるもの(家、能力、仕事、時間)は何ですか。
- 今、あなたにとって「神には役に立たない」と思える賜物は何ですか。マタイになさったように、それをキリストに委ね、ご自分の栄光のために用いてくださるよう願い求めましょう。
引用聖句
- ルカ5:1〜11(LSG) · 奇跡の漁とシモンの召命。
- ルカ5:27〜32(LSG) · レビの召命と彼の家での食事。
- ルカ4:38〜39(LSG) · イエスがシモンの姑を癒やされる。
- ヨハネ15:16(LSG) ・「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしが選んだのです。」
- コリント第二5:17(LSG) · すべてが新しくなった。
- 創世記2〜3章(LSG) · 賜物としての労働、堕落による損傷。
- ネヘミヤ記4章(LSG) · 神の御業に伴う反対。
- マタイ13章(LSG) · 種蒔きのたとえ:敵が種を奪い去る。
よくある質問
このメッセージは、イエスに従うために仕事を辞めるべきだと言っているのですか。
いいえ。北山牧師はこのようなセクト的な読み方をはっきりと退けています。この箇所は信仰と仕事を対立させてはいません。焦点は内面の姿勢にあります。イエスの臨在があなたの日常に訪れるとき、あなたはそれに応じられる状態にあるでしょうか、それとも相変わらず「忙しい」ままでしょうか。仕事そのものは神からの賜物であり、キリストにあって新しくささげ直されるべきものです。
ペテロの「しかし」とは、正確には何を意味しているのですか。
「しかし、お言葉どおり、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)は、二つのことを同時に成り立たせています。ペテロは自分の経験(「夜通し労苦しましたが、何もとれませんでした」)を否定していません。それでもなお、自分の専門的な判断よりもイエスの言葉を優先することを選んでいるのです。これこそ、弟子としてのあらゆる従順の出発点です。
ルカ5:1〜11についてのメッセージの中で、なぜレビの召命(ルカ5:27〜32)が取り上げられるのですか。
二つの場面が同じ力学を示しているからです。イエスが先にまなざしを向け、まだ整っていない人生の中で呼びかけ、その人が「すべてを捨てて立ち上がる」のです。ペテロとレビは共に、弟子の歩みとは何かを照らし出します。すなわち、キリストのまなざしに気づくこと、一歩を踏み出して応えること、そして他の人々がイエスを知るために自分の人生を開くことです。
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