聖書 — 口語訳 (1955)

詩篇 24

概要

詩篇24篇は、全地が主のものであると宣言するダビデの賛歌です。続いて、主の山に登れるのは誰かと問い、きよい手と純粋な心を持つ人だと答えます。詩は行列の叫びで終わります。永遠の門よ開け、栄光の王が入られる、という呼びかけです。クリスチャンの多くは、ここに勝利者キリストの預言を見ています。

表題は、この詩篇をダビデの作としています。創造主であり王である神への賛歌で、聖所に入るための礼拝の式文のように組み立てられています。問いと答えが交わされ、おそらくエルサレムの聖所へ向かう行列の中で、別々の組が歌い交わしたのでしょう。詩篇15篇にも、よく似た問いがあります。表題は状況を何も記していません。ダビデが契約の箱をエルサレムに運び上げた日(サムエル記下6章)を思い浮かべる人は多くいますが、本文はそう述べていません。ユダヤの伝承を集めたミシュナーによれば、レビ人は週の第一日に神殿でこの詩篇を歌いました。最初の数世紀から、クリスチャンの中には、終わりの数節をイエスの昇天を告げる言葉と読む人々がいました。今日の信仰者は、礼拝の前に心を整えるため、誠実に神の前に立つため、人生の門を栄光の王に開くために、この詩篇を祈ります。

この章の3つの区分

  1. 1-2節地とそこに満ちるものは主のもの
  2. 3-6節主の山に登れるのは誰か:きよい手と純粋な心
  3. 7-10節永遠の門よ、開け:栄光の王が入られる

1地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。

2主はその基を大海のうえにすえ、大川のうえに定められた。

3主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。

4手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である。

5このような人は主から祝福をうけ、その救の神から義をうける。

6これこそ主を慕う者のやから、ヤコブの神の、み顔を求める者のやからである。

7門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。

8栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。

9門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。

10この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。

詩篇24篇を節ごとに読む

1-2節全地とそこに住む者は主のもの

詩篇は宣言で始まります。「地と、それに満ちるもの」は主のものです。山も海も町も富も、そして「世界と、そのなかに住む者」、つまり信じる人もそうでない人も、すべての人が神のものです。2節はその理由を語ります。神が地を大海のうえにすえ、大川のうえに定められたからです。古代の人々にとって、水は混沌と脅威の象徴でした。詩篇は、神がその混沌を治め、安定した世界を据えられたと告げます。創世記1章9節から10節で、神が乾いた所を現されたときのとおりです。使徒パウロはこの節を引き、すべての食物は神から来るのだから感謝して受けてよいと教えました(コリント人への第一の手紙10章26節)。持ち物の見方も変わります。あなたは所有者ではなく管理者です。出会う人もみな、神のものです。

3-4節手が清く、心のいさぎよい者が主の山に登る

次に問いが来ます。「主の山に登るべき者はだれか」。この山は、神がご自分の臨在を現すために選ばれた、エルサレムのシオンの丘です。神がこれほど偉大なら、誰が近づけるのでしょうか。答えは四つの特徴にまとまります。手が清いとは、行いのことで、人を傷つけないことです。心のいさぎよさは、誰にも見えない動機にかかわります。魂がむなしい事に望みをかけないとは、むなしいもの、ときには偶像に心を預けないことです。偽って誓わないとは、約束を守ることです。神は内も外も見ておられます。イエスも、心のきよい者は神を見ると言われました(マタイによる福音書5章8節)。この条件を完全に満たすのはイエスだけです。このイエスによって、あなたは確信をもって神の御前に進めます(ヘブル人への手紙10章19節から22節)。恵みは誠実への招きを消さず、それを可能にします。

5-6節神のみ顔を求める人への祝福

このように近づく人は、手ぶらでは帰りません。主から祝福をうけ、その救の神から義をうける、と5節は言います。「義」と訳された言葉は、神ご自身がその人を正しい者と宣言してくださることを表します。この賜物は「その救の神」から来ます。神に近づく道は、働いて得た報酬ではなく、救ってくださる神の贈り物です。6節は視野を広げます。語られるのは数人の霊的な英雄ではなく、ひとつの世代、主を慕い、み顔を求める人々です。み顔を求めるとは、贈り物よりも神の臨在を慕うことです。ヘブライ語では、詩が神に直接語りかけ、あなたの御顔、と言います。節の終わりはごく短く、主を求める人々こそ真のヤコブ、神の民だとも読めます。古いギリシア語訳は、ヤコブの神のみ顔と読み、口語訳もその読みに沿っています。セラは、しばし立ち止まる印です。

7-8節栄光の王のために門が開かれる

調子が変わります。行列が町か聖所の門に着いたかのようです。ひとつの声が叫びます。「門よ、こうべをあげよ」。ヘブライ語では、門に頭をもたげよという呼びかけで、これほどの王には門が低すぎるかのようです。「とこしえの戸」は、遠い昔からある古い戸です。内側から問いが返ります。「栄光の王とはだれか」。ヘブライ語で栄光とは重みであり、本当に重んじられる方の威厳を表します。答えは勢いよく返ります。「強く勇ましい主、戦いに勇ましい主」。イスラエルは、自分たちのために戦われた神を覚えていました。紅海を渡ったあと、モーセが勇士として歌った神です(出エジプト記15章3節)。神の臨在のしるしである契約の箱の入場に伴う歌なら、場面はいっそう際立ちます。クリスチャンにとって決定的な戦いは十字架で行われ、イエスは悪の力に勝利し(コロサイ人への手紙2章15節)、復活して死にも勝たれました。

9-10節万軍の主こそ栄光の王

呼びかけは、ほとんど同じ言葉でもう一度響きます。歌の中で宣言を強める繰り返しです。問いはいっそう迫ります。「この栄光の王とはだれか」。今度の答えは、完全な名を告げます。「万軍の主」。天の軍勢を率い、見える力も見えない力も治める神の称号です。契約の箱にも結びついた名で、民のただ中にある神の王座のしるしでした(サムエル記上4章4節)。最初の数世紀から、クリスチャンの中には、これらの節を、勝利ののち栄光に入られたイエスの昇天と読む人々がいました。パウロもイエスを栄光の主と呼びます(コリント人への第一の手紙2章8節)。エルサレム入城や再臨を思う人もおり、これらの読み方は互いを補い合います。あなたにとって、問いは個人的になります。人生のどの門が閉じたままでしょうか。イエスは、ご自分を外に締め出した教会の戸口に立ち、叩いておられます(ヨハネの黙示録3章20節)。開けてください。この方が王です。

詩篇24篇の祈り方

この詩篇を祈るとき

  • 日曜日の朝、礼拝の前に、神に出会う心を整えるとき。
  • うそをついたり、ごまかしたり、約束を破ったりして、神に近づく勇気が出ないとき。
  • お金、住まい、仕事のことが心配で、すべては神のものだと思い出す必要があるとき。
  • 新しい住まいに移る前や新しい仕事を始める前に、その門を神に開くとき。
  • 自分の生活でも世の中でも悪が勝っているように見え、戦いに強い神を仰ぐ必要があるとき。
  • 復活祭や昇天日に、栄光に入られた勝利者キリストを祝うとき。

詩篇24篇に基づく祈り

主よ、地とそれに満ちるものは、あなたのものです。世界とそこに住む者も、そして私も、あなたのものです。家も、お金も、時間も、からだも、あなたから来たものです。それらを、あなたが委ねてくださったものとして管理することを教えてください。あなたの山に登り、聖所に立ちたいと願いますが、あなたは私の手と心をご存じです。どこでうそをつき、どこでごまかし、どこで心をむなしいものに預けたかを、あなたは知っておられます。私は自分の功績では、あなたの前に出られません。感謝します。手が清く、心のいさぎよい唯一のお方、イエスがいてくださるからです。イエスは私に、あなたへの道を開いてくださいました。私の救いの神よ、私をきよめてください。あなたの恵みだけでなく、あなたのみ顔を求める者になりたいのです。今日、私の人生と家族と教会の門を開きます。栄光の王が入ってくださいますように。戦いに強く勇ましい主よ、私が恐れているところ、悪が勝っているように見えるところを治めてください。あなたは万軍の主、私の王です。アーメン。

鍵となる聖句

1節
地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。

ダビデは、存在するすべてのものに対する神の主権を宣言します。あなたのものは何一つ自分のものではなく、神から委ねられたものの管理者です。

3-4節
主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。 手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である。

神に近づけるのは誰かという問いに、心と行いにかかわる答えが与えられます。誠実さ、内面のきよさ、言葉における真実です。

7-8節
門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。 栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。

詩は行列になります。門が人のように呼びかけられ、王が紹介されます。戦いに強く力ある主です。

10節
この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。

最後の答えは、栄光の王の称号を示します。万軍の主です。多くのクリスチャンは、ここにキリストの勝利の入城を見ています。

説教が語っていること

詩篇24篇についてよくある質問

詩篇24篇はどんな意味ですか

詩篇24篇は、神が全地を所有しておられると告げ、続いて誰が神に近づけるのかを問うダビデの賛歌です。答えは、心と手の誠実さです。最後は、開かれるべき門を通って栄光の王が入られる場面で終わります。おそらくエルサレムへ向かう行列で歌われ、多くのクリスチャンは勝利者イエス・キリストをそこに見ています。

詩篇24篇の栄光の王とは誰ですか

詩篇自身が答えています。戦いに強く力ある主、万軍の主です。古代イスラエルでは、神がご自分の聖所に入られることを指し、おそらく契約の箱の移動のときのことでした。クリスチャンはそこに、死に勝利して父のもとへ昇られたキリストをも見ます。このため、教会の伝統によって読み方に違いがあります。

詩篇24篇はどのように祈り、黙想すればよいですか

三つの段階でゆっくり読みましょう。まず、あなたの持ち物も含めてすべてが神のものであることを認めます。次に、手と心をきよめてくださるよう願います。最後に、あなたの人生、家庭、教会の門を開き、栄光の王が治めてくださるよう祈ります。賛美の歌のように声に出して読むのもよいでしょう。

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