墓の中の三日間、キリストは決して眠っていなかった

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はじめに

このイースターの日曜日、ヒュグが語ったメッセージは、聖なる土曜日についての「静かすぎるイメージ」を揺さぶるものでした。墓の中のキリストは、眠っている、打ち負かされている、あるいは何もしていないキリストではありません。それは、ご自分が予告されたことを成し遂げる、活動的で勝利したキリストです。この説教は、賛美歌『イエスだけを』のある一節(「墓の中で彼は眠っていた、闇に打ち負かされた光」)への率直な違和感から始まり、聖書を中心に据え直します。十字架と復活の間に、本当は何が起きていたのでしょうか。

メッセージは三つの箇所(マタイ12章40節、マタイ28章、そして礼拝中に読まれたローマ8章)と、スイスのラブリ(避難所)でフランシス・シェーファーからかつて教わったたとえを結び合わせます。それは、キリスト教信仰を二階建ての家として描くたとえです。一階には歴史的な事実があり、二階には聖書がそこから引き出す結論や解釈があります。一階がなければ、二階は何も支えることができません。

メッセージの構成

1. まず事実、そして解釈

1985年に亡くなったスイスの牧師フランシス・シェーファーは、キリスト教信仰を一つの家にたとえて説明しました。一階にあるのは事実です。イエスの生涯、死、そして復活です。二階にあるのは、聖書がその事実から引き出す結論です。罪の赦し、神の子とされること、永遠のいのちです。一階でイエスが実際に死ななければ、二階に罪の赦しはありません。

この区別は、聖書の読み方を変えます。神様があなたを招いているのは、ただの考え方を信じることではなく、実際に起こった出来事を信じることだと、改めて気づかせてくれます。そして、その出来事が本当に起こったからこそ、あなたはその結果を、自分のいのちのために受け取ることができるのです。

2. 三日三晩:マタイ12章40節を真剣に受け止める

「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいることになります」(マタイ12:40)。もしキリストが金曜日に死んで日曜日に復活したのなら、少なくとも一晩と一日が足りません。ヒュグはここで別の読み方を提案します。キリストが十字架にかけられたのは木曜日であり、マタイ28章が語る「安息日」は、ギリシャ語では複数形になっているというのです。

ユダヤの暦には、毎週の土曜日の安息日だけではありません。祭りに結びついた聖なる安息日もあります。種入れぬパンの祭り、初穂の祭り、五旬節、ラッパの祭り、贖罪の日、仮庵の祭りです。この週には、二つの安息日が続けて訪れました。祭りの安息日(金曜日)と、毎週の安息日(土曜日)です。キリストは確かに三日三晩を墓の中で過ごし、初穂の祭りの日に復活されました。これは、キリストが復活する人々の「初穂」であることのしるしです(コリント人への第一の手紙15:20)。

3. 問題のある一節:「闇に打ち負かされた光」

数週間前、教会は『イエスだけを』を歌いました。その一節には「墓の中で彼は眠っていた、闇に打ち負かされた光」とあります。曲そのものは美しく、他の節も良いものです。ですが、この一節は「神学的に正しくない」とヒュグは言います。闇が本当にキリストを覆ったのはいつだったでしょうか。それは十字架の上です。神の怒り、いや地獄そのものが、そのときキリストの上に下ったのです。まさにそこで、キリストは叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。

しかし、十字架の上での六番目の言葉で、キリストはこう告げます。「すべてが成し遂げられた」(ヨハネ19:30)。これは敗北のため息ではなく、勝利の叫びです。ご自分の民のすべての負債(過去も現在も未来も)が消し去られたのです。もう何も付け加える必要はありません。続いて七番目の言葉が語られます。「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)。キリストは闇に打ち負かされたのではありません。闇を通り抜けて、勝利されたのです。

4. 三日間、キリストは何をしていたのか

キリストが死なれたとき、その魂は体から離れました。体は墓に納められます。しかし魂は、すでに完全に栄光を受けていました。それは、山の上での変貌の場面で垣間見られたのと同じ光です。そして、この栄光の魂は眠ってはいませんでした。それは死者の国へと下って行きました。そこには二つのグループがいました。アブラハムのそばで待っていた義人たち(金持ちとラザロのたとえ話を思い出してください、ルカ16:19-31)、そして悪霊たちと共にいる、裁かれた者たちです。

キリストは、その光の中に来られました。アブラハムのそばで待っていた人々は喜びに満ちていました。自分たちの救い主がそこにいたのです。一方でサタンと悪霊たちは、隠れる場所を探しました。キリストは「捕虜を引き連れて」(エペソ人への手紙4:8)、彼らを父のもとへと導き入れられました。詩篇24篇はこの場面を歌っています。「門よ、頭を上げよ。とこしえの戸よ、上がれ。栄光の王が、入って来られる」。キリストが天に栄光のうちに入られたのは二度あります。この時が一度目で、二度目は昇天の日、復活のからだをもってです。

5. 復活し、活動的で、すべてを成し遂げるキリスト

三日後、キリストの魂は再びその体に戻ります。体はすでに変えられ、栄光を受けたものになっていました。キリストは女性たちに、弟子たちに、そして数百人の証人たちに現れました。地上に四十日間とどまり(この40という数字は、聖書の中では試練を表すものです)、それから栄光のからだのまま天に昇られました。五旬節の日、キリストはご自分の御霊を送られます。それは、あなたのうちに働くキリストのみわざの初穂、成し遂げられたことの最初の実です。

結論はシンプルです。キリストは決して何もしていなかったのではありません。闇に打ち負かされたのでもありません。墓の中で眠っていたのでもありません。あの時も活動しておられましたし、今日も、父の右で活動しておられます。そこであなたのために執り成しをしておられるのです。キリストは働くことをやめたことがありません。十字架の上で成し遂げられたことは、あなたにとって十分です。あなたが付け加えるものは何もありません。あなたはただ、すべてを受け取るだけです。

覚えておきたいポイント

  • キリスト教信仰は、まず歴史的な事実の上に成り立っています。イエスの死と復活です。赦し、神の子とされること、永遠のいのちといった結果は、この事実から生まれるのであって、事実に取って代わるものではありません。
  • マタイ12章40節は三日三晩を語っています。マタイ28章にある複数形の「安息日」から、キリストが木曜日に死に、初穂の祭りの日である週の初めの日に復活されたと理解できます。
  • 闇がキリストを覆ったのは十字架の上であって、墓の中ではありません。「すべてが成し遂げられた」という言葉は勝利の叫びであり、敗北のため息ではありません。
  • 三日間、栄光を受けたキリストの魂は死者の国へと下り、信仰をもって待っていた人々を父のもとへと連れ帰りました。
  • キリストは決して何もしない方ではありません。昨日も今日も働き、父の右であなたのために執り成しておられます。あなたはそのみわざに何も付け加える必要はありません。すべてはすでに成し遂げられているのです。

あなたへの適用

  1. あなたの信仰は本当に事実の上に立っていますか、それとも漠然とした霊性の上に立っていますか。今週少し時間を取ってマタイ28章を読み直し、復活の現実が再びあなたの中に根を下ろすようにしてください。
  2. あなたが歌っている賛美歌や口にしている言葉、考え方の中に、それが聖書に忠実かどうか確かめたことのないものはありませんか。ヒュグが『イエスだけを』のあの一節に対してしたように、問いかけ、比べ、調べてみる勇気を持ってください。
  3. 墓の中のキリストを思うとき、あなたにはどんなイメージが浮かびますか。ただ待っている敗者でしょうか、それとも動いている勝利者でしょうか。聖書が示す正しいイメージを、御霊に求めてください。
  4. 「すべてが成し遂げられた」という言葉について、あなたは今どこに立っていますか。まだ自分の努力や功績、犠牲を付け加えようとしていませんか。今日、キリストがすでに成し遂げてくださったことのために感謝をささげ、すでに完全なものを完成させようとするのをやめましょう。
  5. キリストは今この瞬間も、あなたのために執り成しをしておられます。あなたの兄であるキリストが、絶えることなく父に語りかけてくださっていると知って、あなたの祈り方はどのように変わるでしょうか。

引用された聖句

よくある質問

なぜキリストは金曜日ではなく木曜日に十字架にかけられたと言われるのですか。

マタイ12章40節は、墓の中での「三日三晩」を告げています。もしキリストが金曜日に死んで日曜日に復活したのなら、少なくとも一晩が足りません。マタイ28章1節は、ギリシャ語で複数形の「安息日」について語っており、祭りの安息日(種入れぬパンの祭りという聖なる安息日)と、毎週の安息日が続けて起こったことを示しています。木曜日の夜に埋葬されたと考えると、イエスの言葉が文字どおり成就することになります。これは伝統的な読み方ではありませんが、マタイ12章40節を真剣に受け止めた結果です。

使徒信条にある「キリストは陰府にくだり」とはどういう意味ですか。

ここでの「陰府」は、裁きとしての地獄ではなく「死者の国」を訳したものです。聖書は、死者の魂が待っている場所について語っています。義人たちはアブラハムのそばに、裁かれた者たちは大きな淵によって隔てられた場所にいました(ルカ16:19-31)。キリストは死なれた後、栄光を受けた魂としてそこに下られました。そして、信仰をもって待っていた人々をそこから連れ出し、父のもとへと導き入れられました(エペソ4:8、詩篇24篇)。三日間、キリストは決して何もしていなかったのではなく、すでに働いておられたのです。

賛美歌が「神学的に間違っている」ということがあり得るのですか。

賛美歌は人間によって書かれたものです。音楽としては美しくても、聖書の真理をうまく言い表せていないことがあります。ヒュグは、『イエスだけを』の三番目の一節(「闇に打ち負かされた光」)を例に挙げています。しかし、キリストは十字架の上でも墓の中でも打ち負かされてはいません。キリストは勝利されたのです。原則はシンプルです。歌う言葉は、聖書が語っていることと一致していなければなりません。もし賛美歌がそこから外れているなら、兄弟が兄弟をより良く見えるように助けるように、敬意をもってそれを指摘すべきです。

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