生きるとはキリスト:とどまることは愛の選択

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はじめに

あなたにも、こんな瞬間があったのではないでしょうか。二つの良い選択肢が同時にあなたを引っ張り、どちらを優先すべきなのか分からなくなる瞬間です。善と悪との間の選択ではなく、それぞれに重みのある二つのものの間での難しい選択。まさにそこへ、ジュネーブ聖書学院で神学を学ぶレミ・ルバンさんが、2025年10月12日、王のチャペルでのメッセージの冒頭で私たちを導いてくれました。

取り上げられた箇所はピリピ人への手紙1章12〜26節です。この箇所の中心にあるのは、獄中にいるパウロが、愛する教会に宛てて記したあの叫びです。「私にとって生きることはキリストであり、死ぬこともまた益である」(21節)。続く節でパウロは、「板挟みになっている」と告白します。主のもとに行きたいという願いと、兄弟姉妹たちの成長と信仰の喜びのためにこの地にとどまりたいという願いとの間で、心が引き裂かれているのです。

レミさんがあなたに提案しているのは、クリスチャンの死についての神学講座ではありません。むしろ、今あなたの心を動かしているものは何かを見つめ直す招きです。あなたにとって、本当にとどまる価値があるもの、働く価値があるもの、時間を捧げる価値があるものは何でしょうか。あなたの誇りや喜び、成長は何の上に置かれているでしょうか。パウロがピリピ人への手紙1章で経験しているのは、使徒だけの特別な葛藤ではありません。キリストを本気で愛し始めたすべての弟子が経験する、心の中の戦いなのです。

記事の構成

  1. 難しい選択:パウロがさらけ出す緊張
  2. なぜパウロはとどまることを選んだのか:自分より他者を優先する
  3. 成長と喜び:パウロが求める二つの実
  4. キリスト、あなたの最大の誇り:すべてを問い直す一つの問い

1. 難しい選択:パウロがさらけ出す緊張

レミさんはまず、とてもシンプルな例え話から始めます。彼は週に数時間、高齢者の付き添いの仕事をしているそうです。今、彼には二つの選択肢があります。97歳のご婦人のもとに通い続けること。彼女は彼の存在を必要としていますが、自宅から30分の距離にあります。もう一つは、もっと近くて給料も良い仕事ですが、ただの掃除の仕事です。この二つの選択肢は同等ではありません。一方は犠牲を伴い、もう一方は快適です。一方は本当の助けになり、もう一方は単なる楽さです。

さらにレミさんは、もっと胸が痛む例えを付け加えます。獣医から、あなたの飼っているペットの余命があと半年で、苦しんでいると告げられたら、あなたはどうしますか。しかも、あなたはその子を心から愛しているとしたら。決断を下しますか、それとも待ちますか。レミさんは、これらの例え話から道徳的な教訓を引き出そうとしているのではありません。ただ、聖書を開く前に、あなた自身にこの緊張感を感じてほしいのです。なぜなら、これはまさにパウロが、はるかに高い次元で経験していることだからです。

22節と23節を見てみましょう。「もし肉体において生き続けることが、私の働きのために実り多いのであれば、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。私はこの二つのものの間に板挟みになっています。この世を去ってキリストとともにいたいという望みを持っています。実はその方がはるかに勝っているのです。」一方には、キリストと永遠に共にいるという、罪も隔たりもない完全な交わりがあります。もう一方には、肉体をもってこの地にとどまり、あらゆる困難に向き合い続ける生活があります。ある翻訳では「引き裂かれる」という表現が使われています。レミさんはアーチェリーの弓の例えを使います。弦を引き絞るとき、あなたは張り詰めた圧力を感じ、そして手を離すとき、それが放たれるのを感じます。パウロの心はまさに、その絶え間ない緊張状態の中にあるのです。

驚かされるのは、パウロがこの緊張を、優柔不断だから、あるいは弱いから経験しているのではないという点です。彼がこの緊張を経験しているのは、二つのものを同時に愛しているからです。彼の救い主と、彼の教会です。そして、この二重の愛こそが、この選択を重いものにしているのです。

2. なぜパウロはとどまることを選んだのか:自分より他者を優先する

それでもパウロは24節で決断を下します。「けれども、私が肉体にとどまることは、あなたがたのためにもっと必要です。」レミさんはこの「必要」という言葉を強調します。パウロは、とどまることが自分にとってより良いとは言っていません。むしろ、キリストとともにいる方がより良いと言っているのです。それでも彼は、ピリピの人々にとって最も必要なことを選ぶのです。

なぜでしょうか。それは、パウロがキリストの教会、イエスがそのために死なれた教会を、深く愛しているからです。彼がイエスをあまり愛していないからではありません。むしろ逆で、イエスをあまりにも愛しているからこそ、イエスが愛しておられる人々のもとにとどまることを選ぶのです。レミさんはこう表現します。パウロが人々を愛するのは、イエスを愛しているからだ、と。この順序こそが大切なのです。

レミさんはこの決断をヨハネ 15:13と結びつけます。「人がその友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」実際、パウロはこのイエスの戒めを実践しているにすぎないのです。彼は、天国に行きたいという自分自身の正当な願いよりも、兄弟姉妹を優先しています。自分の利益より、彼らの利益を先に見ているのです。

この考え方は、私たちがしばしば選択を考える際の枠組みをひっくり返します。「これは自分に何をもたらしてくれるか」ではなく、パウロは「神が私に託してくださった人々にとって、何が最も益になるか」と自問しています。これは諦めではありません。個人的な好みを乗り越えた愛なのです。そして、この同じ愛を、聖霊はあなたの心の中にも、あなたなりの形で、あなたの家族や教会、住んでいる地域の中で生み出そうとしておられます。

3. 成長と喜び:パウロが求める二つの実

パウロは、なぜとどまりたいのか、その理由を具体的に述べています。「あなたがたの信仰の進歩と喜びのために」(25節)。二つの言葉、パウロが追い求める二つの実です。

進歩とは、障害があっても前に進み続け、弟子としての歩みを続けていくという考え方です。レミさんは、この進歩を「絶え間ない抵抗に立ち向かうこと」と定義し、福音に従って生きることだとするある牧師の言葉を引用します。具体的には、神と隣人を愛することを学び、イエスの教えを実践し、昨日よりも少し先まで従うことです。

信仰の喜びは、この進歩と密接に結びついています。レミさんが引用する別の著者はこうまとめています。「信仰における本物の進歩は、信仰における本物の喜びとして現れます。喜びのない進歩は見せかけであり、進歩のない喜びは偽物です。」つまり、クリスチャン生活で成長していると言いながら、そこに喜びが全くないのなら、何かがおかしいのです。逆に、キリストにある大きな喜びがあると言いながら、従順の中で全く成長していないのなら、その喜びは、はかない何かの上に置かれた単なる感情にすぎないかもしれません。

レミさんは分かりやすい例えを提示します。あなたが愛する人を家に迎え入れる場面を想像してみてください。その人を受け入れることはできても、もし不機嫌な顔をして、その人が来たことを喜んでいないかのように涙を流していたら、それは愛を示していることにはなりません。喜びは、本物の愛の自然な表現です。キリストとの関係においても同じです。喜びは、私たちが本当にキリストを愛していることの外面的なしるしなのです。

だからこそ、ピリピ人への手紙は時に「喜びの書簡」と呼ばれます。パウロは二度、こう繰り返しています。「主にあって喜びなさい」(ピリピ 3:1ピリピ 4:4)。これは単なる感情的なスローガンではありません。イエスを知ることにおける本物の進歩の実なのです。

4. キリスト、あなたの最大の誇り:すべてを問い直す一つの問い

この喜びがなぜこれほど中心的なのかを理解する助けとして、レミさんはジョン・パイパーのよく知られた言葉を引用します。「神は、私たちが神の中に最も満足しているとき、私たちの中で最も栄光を受けられる。」神の栄光が最も完全に現れるのは、私たちのあらゆる喜び、あらゆる満足が神に向けられているときです。それは、神が私たちにとってどれほど大切な存在であるかを示すからです。

パイパーは何も新しいことを言っているわけではありません。レミさんは詩篇 5:12を引用して指摘します。「あなたに身を避けるすべての者を喜ばせ、彼らにとこしえの喜びの歌を歌わせてください。あなたは彼らをかばい、あなたの御名を愛する者たちが、あなたによって喜び踊りますように。」神を愛する者たちは、神にあって喜ぶのです。彼はまたルカ 24:50〜53も引用します。イエスが天に上げられるのを見た弟子たちは、「大きな喜びをもってエルサレムに帰り、いつも宮にいて、神をほめたたえていた」とあります。礼拝と喜びは、共に結びついているのです。

ここでレミさんは、あなたに率直な問いを投げかけます。ぼかさずに、はっきりと。今日、あなたが本当に誇りとしているものは何でしょうか。時々ではなく、日々の生活の根底にあるものとして。それはあなたのキャリアでしょうか、休暇でしょうか、子どもたちでしょうか、あなたの成果、趣味、快適さでしょうか。これらすべてを否定しようというのではありません。仕事は良いものですし、家族は神からの贈り物です。問いはもっと深いところにあります。あなたの最大の誇りは何でしょうか。

レミさんはキャリアを例に挙げます。もしあなたの誇りのすべてがそこにあるなら、あなたはそのことを絶えず考え、そのために時間を費やし、周りの人にそれを語り、それを誇りに思うでしょう。時には家族を犠牲にし、キリストを犠牲にしてまでです。そしてそれは、実はキリストが、あなたの最大の誇りではないことを示してしまいます。一方で、もしあなたの最大の栄光がキリストご自身であるなら、あなたはキリストのことを考え、キリストのためにスケジュールを調整し、キリストについて語り、キリストにあって他者の喜びに貢献しようとするでしょう。これは仕事を放棄することではありません。仕事を正しい位置に戻すことなのです。

メッセージの最後に、レミさんはある告白を分かち合います。実は自分も、パウロのように、直接キリストとともに天にいる方が素晴らしいのではないかと考えることがある、と。しかし彼は、キリストの大使として、自分自身の喜びのためだけでなく、他者の喜びのために果たすべき役割があることを知っています。そして、私たちの弱さや欠点にもかかわらず、神はパウロを用いられたように、私たちをも用いてくださるのです。

まとめのポイント

  • パウロは、キリストとともにいたいという願いと、教会のためにとどまりたいという願いとの間で、本物の板挟みを経験しています。これは弱さの緊張ではなく、愛の緊張です。
  • パウロがとどまることを選んだのは、自分にとってより良いからではなく、ピリピの人々にとってより必要だからです。
  • 彼が彼らのために求めるのは、切り離すことのできない二つの実、すなわち信仰における進歩と信仰における喜びです。
  • 進歩のないクリスチャンの喜びは偽物であり、喜びのないクリスチャンの進歩は見せかけです。
  • 中心にある問いは「あなたは信者ですか」ではなく、「あなたの最大の誇りは何ですか」です。

個人への適用

  1. 今あなたが直面している「難しい」選択は何でしょうか。その決断の中で、まず誰のことを考えていますか。自分自身でしょうか、それとも神があなたに託してくださった人々でしょうか。
  2. ここ数か月、あなたの信仰はどのように進歩していますか。実際に成長している具体的な領域を一つ挙げられますか。
  3. あなたのクリスチャン生活には、キリストにある本物の喜びが伴っていますか、それとも他の何かの上に置かれた喜びでしょうか。
  4. 先週のあなたのスケジュールと使ったお金を振り返ってみてください。それらは、あなたの最大の誇りが何であるかを、どのように物語っていますか。
  5. あなたの周りに、もしあなたがパウロのように「とどまる」ことを選び、仕えるならば、キリストにあってより進歩し、より喜ぶことができる人はいませんか。

引用された聖句

  • ピリピ人への手紙 1:12〜26 · メッセージの中心となる箇所
  • ピリピ人への手紙 1:21 · 「私にとって生きることはキリストであり、死ぬこともまた益である」
  • ピリピ人への手紙 3:1 · 「主にあって喜びなさい」
  • ピリピ人への手紙 4:4 · 「主にあっていつも喜びなさい」
  • ヨハネ 15:13 · 「人がその友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」
  • 詩篇 5:12 · 神の御名を愛する者たちの喜び
  • ルカ 24:50〜53 · 昇天の後の弟子たちの大きな喜び
  • 詩篇 103:1〜2 · 礼拝の冒頭で朗読された箇所
  • よくある質問

    パウロは本当に死にたいと思っていたのですか。

    いいえ、鬱的な意味での死への願望ではありません。パウロが望んでいたのは、死そのものではなく、死の先にあるもの、すなわちキリストとともにいることです。この願いは現実からの逃避ではなく、イエスを深く愛する心の自然な表れでした。レミさんが指摘するように、この願いはパウロの中で、ピリピの人々への本物の愛と共存していました。だからこそ、この選択はまさに苦しいものだったのです。

    自分の喜びが本物か偽物かを、どう見分ければよいのでしょうか。

    本物のクリスチャンの喜びには、信仰における本物の進歩が伴います。より深い従順、より深い隣人愛、より深く神を求める思いです。もし置かれた状況が変わっても喜びが安定しているなら、そして、その喜びが消費するよりも仕えることへとあなたを促すなら、それは良いしるしです。逆に、快適さや楽しみを失った途端にその喜びが消えてしまうなら、それはおそらくキリスト以外の何かの上に置かれているのでしょう。

    自分の仕事や家族を誇りに思うことは悪いことなのでしょうか。

    いいえ、レミさんはそう言っているのではありません。彼はこれらを否定するように求めているのではなく、それらを正しい位置に戻すことを求めているのです。問うべきは「自分は仕事を愛しているか」ではなく、「自分の思考、スケジュール、会話の中で、仕事がキリストより先に来ていないか」ということです。キリストが第一の場所を占めるべきであり、他のものはそこから、それぞれふさわしい位置を見出していくのです。

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