聖書 — 口語訳 (1955)
詩篇 103
概要
詩篇103篇は、ダビデによる賛美の詩です。ダビデは自分自身に呼びかけて、主をほめたたえ、その恵みを一つも忘れないようにと語り始めます。続いて、神が何をしてくださるのかが挙げられます。罪を赦し、いのちをあがない、いつくしみの冠をかぶらせ、しいたげられる者のために正義を行われます。この詩に描かれる神は、怒るのに遅く、私たちがちりにすぎないことを知っておられる方です。人は草のようにはかなくても、主の変わらない愛は永遠から永遠にまで続きます。最後に、御使いたち、天の軍勢、そして造られたすべてのものに向かって、主をほめたたえよという呼びかけで結ばれます。
表題はこの詩篇をダビデの作としていますが、状況は記していません。これは賛美と感謝の歌で、詩篇の中でも最も愛されているものの一つです。「わがたましいよ、主をほめよ。」という同じ言葉で始まり、同じ言葉で終わって、その中のすべてを包んでいます。個人の賛美から始まり、イスラエルの歴史と民全体に与えられた赦しへと進み、さらに御使いたちと造られたすべてのものへと広がります。中心にあるのは神の赦しで、8節は、神がシナイ山でモーセにご自身を示された言葉を受けています。同じ言葉で始まる詩篇104篇は、続いて創造主をたたえ、二つはしばしば続けて読まれます。今日、多くの人が神に感謝するためにこの詩篇を祈り、古くから今に至るまで多くの賛美歌がこの詩篇に基づいています。
この章の4つの区分
1わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。
2わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。
3主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、
4あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、
5あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。
6主はすべてしえたげられる者のために 正義と公正とを行われる。
7主はおのれの道をモーセに知らせ、おのれのしわざをイスラエルの人々に知らせられた。
8主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。
9主は常に責めることをせず、また、とこしえに怒りをいだかれない。
10主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない。
11天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜わるいつくしみは大きい、
12東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。
13父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。
14主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを 覚えていられるからである。
15人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。
16風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。
17しかし主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にあり、その義は子らの子に及び、
18その契約を守り、その命令を心にとめて行う者にまで及ぶ。
19主はその玉座を天に堅くすえられ、そのまつりごとはすべての物を統べ治める。
20主の使たちよ、そのみ言葉の声を聞いて、これを行う勇士たちよ、主をほめまつれ。
21そのすべての万軍よ、そのみこころを行うしもべたちよ、主をほめよ。
22主が造られたすべての物よ、そのまつりごとの下にあるすべての所で、主をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。
詩篇103篇を節ごとに読む
1-2節わがたましいよ、主をほめよ:忘れないために自分に語りかける
詩篇は異例の始まり方をします。ダビデは神にも民にも語らず、自分自身に語りかけます。「わがたましいよ、主をほめよ。」聖書で、たましいは人全体、その命、願い、感情を指します。ダビデは「わがうちなるすべてのもの」に、聖なるみ名をほめるよう呼びかけます。唇だけでなく、知性も心も記憶もです。2節は危険を名指しします。忘れることです。人は足りないものはすぐ思い出し、受けたものはすぐ忘れるので、「そのすべてのめぐみを心にとめよ」と命じられます。主をほめるとは、主についてよいことを語り、してくださったことを認めて感謝することです。賛美したい気持ちになれない日もあるでしょう。この詩篇は、自分のたましいに語りかけて奮い立たせ、神のみわざの記憶を呼び覚ますことを教えます。
3-5節赦し、いやし、あがない:神の恵みの数々
ダビデは忘れたくない恵みを数え上げ、最初に来るのは赦しです。「主はあなたのすべての不義をゆるし」とあります。どんな賜物よりも先に、神は神との関係を回復されます。続くのは、病のいやし、墓からのあがない(墓は死、あるいは死の危険の象徴です)、いつくしみとあわれみの冠、良き物で満ち足りる人生です。若返ってわしのように新たになるとは、イザヤが主に信頼する人に約束した新しい力を思わせます。これらの節は、すべての病が消えるとは約束しません。信仰者も病や老いを知っています。すべてのいやしも、あがないも、良きものも神から来て、神の配慮が人の全体に及ぶことを語っています。クリスチャンにとっては、罪を赦し、病人をいやし、からだの復活を約束されるイエスにおいて、その意味が満ちます。
6-7節しいたげられる者に正義を行い、ご自分の道を示される神
詩篇はダビデ個人の歩みから、民全体の歴史へ移ります。「主はすべてしえたげられる者のために正義と公正とを行われる。」イスラエルはエジプトでそれを経験しました。不当な権力に押しつぶされた奴隷の民を、神が解放されたのです。7節はその決定的な時を思い出させます。主はおのれの道をモーセに、おのれのしわざをイスラエルの人々に知らせられました。民は割れた海、マナ、岩からの水という主のしわざを見、モーセは主の道、つまり神の行動の仕方と性格を知った、という違いがよく指摘されます。この節は、目に見える恵みにとどまらず、神ご自身を知ろうとするよう促します。また、神がしえたげられる者の側に立たれる以上、従う者も身の回りの不正に無関心ではいられません。
8-10節怒ること遅く、いつくしみ豊かな方:神の姿
8節は、金の子牛の罪の直後に、神がシナイ山でモーセにご自身を示された言葉をほぼそのまま受けています。「主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。」この自己紹介は、忠実な民にではなく、たった今罪に陥った民に与えられました。9節と10節はその結論を引き出します。神は絶えず責めず、とこしえに怒りをいだかれず、私たちの罪にしたがってあしらわれません。「われら」という言葉に注目してください。ダビデは自分を、報いを受けるはずの者たちの中に含めています。悪への神の怒りは現実ですが、それが最後の言葉ではありません。クリスチャンにとってこれは十字架で頂点に達し、イエスは罪を負って赦しを差し出されました。神が一つ一つの罪を数えていると感じるなら、これらの節は反対のことを語ります。
11-14節東が西から遠いように:量りきれない赦し
ダビデは神の善に見合うイメージを探します。最初は縦の広がりです。天が地よりも高いように、主を恐れる者に賜わるいつくしみは大きい。二つ目は横の広がりです。「東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。」東と西は決して出会いません。赦されたとがは、あとで取り出すために脇に置かれたのではありません。三つ目は家族の姿です。父がその子供をあわれむように。この詩篇で神を恐れるとは、神におびえることではなく、神を敬い、神に信頼することです。14節はとても優しい言葉です。神は私たちの造られたさまを知り、私たちがちりであることを覚えておられます。神はあなたの弱さに驚かず、あなたよりもよくご存じで、そのあわれみは弱さを考慮に入れています。
15-18節人は草のように過ぎ去り、主のいつくしみはとこしえに続く
ちりのあとで、詩篇は人生の短さを語ります。「人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。」風が過ぎると、あとかたもなくなります。聖書の地では、砂漠からの熱風が牧草地を短時間で枯らすことがありました。この見方は冷静ですが、絶望的ではありません。17節が決定的な「しかし」で始まるからです。主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にあり、その義は子らの子に及びます。あなたの人生は短くても、神の愛は短くありません。それは世代を越えて、契約を守り、その命令を心にとめて行う者にまで及びます。そのため、これらの節は葬儀でよく読まれます。死を否定せず、死を越える真実で死を包むからです。
19-22節造られたすべてのものが、天の王をほめたたえる
詩篇はさらに広がります。19節は、主がその玉座を天に堅くすえられ、そのまつりごとがすべての物を統べ治めると告げます。神のいつくしみは、力のない神のものではなく、宇宙の王のものです。ダビデは、み言葉の声を聞いてこれを行う力ある御使いたちを、そのすべての万軍を、主が造られたすべての物を、賛美へと招きます。一人の人の心で始まった賛美が、天と全被造物の賛美に合流します。そして詩篇は出発点に戻ります。「わがたましいよ、主をほめよ。」この大合唱の中でも、あなたの声は大切です。賛美するために、力が湧くのを待つ必要はありません。すでに響いている賛美に加わるのであり、あなた自身の感謝にも、そこにふさわしい場所があります。
詩篇103篇の祈り方
この詩篇を祈るとき
- 一日の始まりに、心配事を考える前に、神の恵みを思い起こしたいとき。
- すでに告白した過ちの罪悪感が、再びあなたを苦しめるとき。
- 病気や試練を通り抜けたあと、支えてくださった神に感謝したいとき。
- 弱さや疲れ、年月による衰えを感じるとき。
- 愛する人を見送り、人生の短さを神にゆだねるとき。
- 賛美したい気持ちになれず、自分のたましいを奮い立たせる必要があるとき。
詩篇103篇に基づく祈り
わがたましいよ、主をほめよ。主よ、心が重いときでも、私のうちなるすべてをもってあなたをほめたたえたいのです。あなたの恵みをすぐ忘れ、足りないものばかり覚えて、与えられたものを覚えていなかったことを赦してください。私のすべての過ちを赦してくださり、感謝します。ひとつひとつのいやし、ひとつひとつのあがない、いつくしみの冠をかぶせてくださった日々を感謝します。あなたはあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かな方です。私の罪にしたがってあしらわず、イエスにあって、東が西から遠いように私のとがを遠ざけてくださいました。罪悪感が戻るとき、この赦しを思い出させてください。あなたは私の造られたさまを知り、私がちりであることを覚えておられます。私の日々は草のようですが、あなたのいつくしみはとこしえに続きます。愛する人々を、その子らの子までも、あなたにゆだねます。あなたはすべてを統べ治めておられます。御使いたちと造られたすべてのものとともに、あなたをほめたたえます。わがたましいよ、主をほめよ。アーメン。
鍵となる聖句
わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。
ダビデは自分自身に語りかけています。賛美は、忘れてしまう心との戦いでもあります。神がしてくださったことを思い起こすとき、感謝と信頼が育ちます。
主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、 あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、
赦し、いやし、墓からのあがない。ダビデは神の恵みを一つずつ数えます。いやしについては、からだ、心、たましいなどさまざまに理解されてきましたが、すべての状況での保証として読むものではありません。
東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。
東が西から遠いという表現は、距離の果てしなさを示します。神が赦してくださるとき、とがは測れないほど遠ざけられ、二度と近づけられることはありません。
父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。 主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを 覚えていられるからである。
神は、ご自分を恐れる者を、父が子をあわれむようにあわれんでくださいます。私たちが何でできているかをご存じで、私たちの弱さに驚かれることはありません。
このテーマで祈る
説教が語っていること
詩篇103篇についてよくある質問
詩篇103篇はどういう意味ですか
ダビデの賛美の詩です。神の恵みを思い起こしながら、主をほめたたえるよう招いています。神は赦し、救い出し、養ってくださる方です。あわれみ深く、怒るのに遅く、私たちの弱さをご存じです。詩篇は、その愛が主を恐れる者に変わらず注がれることを語り、造られたすべてのものに主をほめるよう呼びかけて終わります。
詩篇103篇はどのように祈ればよいですか
まず2節を声に出して読み、この一週間に受けた恵みを三つ、神の前で挙げます。次に3節から5節をゆっくり読み、赦し、あがない、いつくしみの一つひとつに感謝します。最後に22節で、自分の言葉で主をほめたたえて終えましょう。毎朝くり返してもよい祈りです。
3節の、すべての病をいやしてくださるとはどういう意味ですか
この節では、いやしが罪の赦しと並べて語られています。からだだけでなく、心やたましいのいやしも含むと受け取る人が多くいます。神はいやすことができる方で、私たちも健康のために祈りますが、この詩はすべての人に自動的ないやしを約束しているわけではありません。人生全体を気遣ってくださる神をたたえる詩です。
詩篇 103を引用している記事
口語訳(1955年)— パブリックドメイン。