箴言29章25節:人を恐れることはわなである

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はじめに

「人を恐れると、わなに陥る。しかし主に信頼する者は安全である。」Mike Wyattは、オーストラリアのアデレードにあるSouth West Baptist Churchの夕礼拝で、箴言29章25節のこのみことばから語ります。しかも、会衆に声をそろえてこの聖句を繰り返させます。

「わな」と訳されている言葉は、落とし穴を指します。説教者によれば、人を恐れる心は、信者が、いえ、すべての人間が向き合わなければならない最も大きな恐れの一つです。けれども、信者にはそれに打ち勝つ力があります。

メッセージは単純な道筋をたどります。このわなが私たちの人生で何をするのか、そこに陥った人々の聖書の実例五つ、そしてそれに打ち勝った人々の実例二つです。

メッセージの構成

1. 人を大きくし、神を小さくするわな

  • 人を恐れる心はまず、周囲からの圧力という姿をとります。私たちを間違った道へ引きずり込む圧力です。
  • それはまた、他人にどう思われるかを病的に気にすることでもあります。すべてをご存じで決して間違うことのない神からではなく、誤りやすくもろい人間から、自分の価値や承認を得ようとすることです。
  • そして最後に、不安な気持ちです。厄介な状況に置かれると、主に信頼する代わりに、すぐに操作や欺き、嘘でそこを切り抜けようとします。
  • 根っこにあるのは高慢です。Mike Wyattは会衆を笑わせます。英語では、pride(高慢)の真ん中の文字は「I」、つまり「私」だというのです。イザヤ書14章は、高慢が天使の中で最も高い地位にあったルシファーをサタンにしたことを示しています。
  • 「高慢と人への恐れは、人を大きく、神を小さく見せます。」
  • この恐れは私たちの唇を封じます。私たちには驚くべき良い知らせがあります。完全で罪のない神の御子イエス・キリストが、十字架で私たちの罪の代価を払ってくださったのです。それなのに、それを伝える場面になると、私たちはしばしば屈してしまいます。「有罪です。私は有罪です。以前にもやりました。」
  • それはまた、誘惑への扉を開き、私たちが主のために語るべきときに語らないとき、神のみわざを麻痺させてしまいます。

2. アブラム:欺き

  • 創世記12章11~20節で、アブラムはエジプトに着くと、エジプト人が妻を奪うために自分を殺すのを恐れて、サライに自分の妹だと言うよう頼みます。サライはパロの家に召し入れられます。
  • 主はパロに大きな災害を下し、信仰の父を叱るのは未信者です。「あなたはわたしになんということをしたのですか。なぜ彼女があなたの妻だと、わたしに告げなかったのですか。」
  • 半分の真実は嘘と同じです。創世記26章では、その子イサクが同じ恐れに屈し、リベカについて嘘をつきます。欺きの網が家族の中に張られていきます。
  • もしアブラムとイサクが真実を語っていたら、神は彼らを救い出されたでしょうか。「もちろんです。」けれども神はそれでも彼らを守られました。それが神の恵みです。私たちは時に失敗しますが、神はそれでも祝福してくださいます。
  • 神は、アブラムが神のことばと約束を信じたのをご覧になり、それを義と認められました。「これこそ福音です。」私たちがキリストに信頼するとき、神は私たちに完全で百パーセントの義を認めてくださり、「これは会計用語です」、私たちの罪は十字架でイエスに負わされます。交換が行われるのです。

3. ニコデモ:臆病

  • パリサイ人でありユダヤ人の指導者であったニコデモは、夜イエスのもとに来ます(ヨハネ3章1~3節)。彼は尊敬されており、少なくとも頭では神を信じていましたが、新しく生まれてはいませんでした。
  • なぜ夜だったのでしょうか。同僚たちにどう思われるかを恐れたからです。彼は自分の地位、影響力、富、権威を愛しており、それらを失う危険を冒したくなかったのです。
  • ヨハネ12章42節がこの選択を説明しています。指導者たちの多くがイエスを信じましたが、パリサイ人のゆえに、会堂から追い出されるのを恐れて、それを告白しませんでした。
  • 「主に信頼しないとき、勇気は死にます。」
  • それでも、十字架の場面で、ニコデモはイエスを十字架から降ろし、葬りに心を配った一人です。彼は暗闇から出て、自分の信仰を表明します。「主とともにあるなら、失敗は最終的なものである必要はありません。」

4. アロンとサウル:妥協と不従順

  • 出エジプト記32章で、モーセは神の指で書かれた律法を受けるために、四十日四十夜山にいます。説教者は、この律法は私たちの良心にも書かれていると指摘します。私たちの心の法廷にいる「独立した裁判官」であるその良心です。罪責感は、私たちに神の赦しが必要だと告げる神ご自身の声なのです。
  • 民は要するにこう言います。「あの人はもう戻ってこない。」圧力を受けて、アロンは目に見える神を造ります。彼はそれが間違いだと知っていましたが、民に従いました。
  • 今日でも、人は自分に合った神を求めます。けれども神は、そのみことばの中でご自身を余すところなく現されます。神は愛であり、同時に聖であり、義であり、全知であり、全能です。「教理は気にせず、ただ愛し合おう」という態度に対して、Mike Wyattはこう答えます。「愛と真理は一緒でなければなりません。」
  • サムエル記上15章で、サウルは部分的にしか従いません。家畜の最良のものとアガグ王を生かしておくのです。24節で彼は告白します。「わたしは罪を犯しました。[…] 民を恐れて」
  • サムエルは答えます。「従うことは、いけにえにまさる」(22~23節)。この不従順によってサウルは王位を失い、ダビデがその後継者として備えられます。
  • 多くの場合、神は私たちが塵にすぎないことを覚えて、もう一度チャンスを与えてくださいます。ここではそうなりませんでした。「完全に裁くのは神のお仕事です。私たちにはそれを裁くことはできません。」

5. ペテロ:否認

  • ペテロは説教者のお気に入りの人物の一人です。「ペテロには、私たちが自分を重ねられる点がたくさんあります。」
  • マタイ26章69~75節では、イエスが連れ去られるとき、ひとりの女中、次にもうひとりの女中、そしてそこにいた人々が彼に気づきます。ガリラヤなまりが彼の正体を明かします。三度、彼はイエスを知らないと否定し、最後は呪いと誓いまで用います。
  • しかし少し前には、主とともに死ぬ覚悟だと言っていたのです。「ペテロの立場に身を置いてみてください。」命の危険に怯えて、彼はイエスの預言を忘れ、屈してしまいます。そして鶏が鳴き、彼は激しく泣きます。
  • 聖書は彼がどんな言葉を使ったかを書いていませんし、Mike Wyattはそれを喜んでいます。クリスチャンが使うべきでない言葉があるからです。私たちはキリストにある新しい創造物です。
  • 「しかしペテロにとっては、神に感謝すべきことに、失敗は最終的なものではありませんでした。」

6. ダニエル:開けたままの窓

  • 最初の前向きな実例は、ダニエル書6章です。ダリヨスのもとで、ダニエルは優れた霊が彼の内にあったため、大臣たちや総督たちの上に引き上げられます。同僚たちはそれに耐えられません。「あれはユダヤ人の捕虜にすぎない。われわれより先に昇進して何をしているのだ。」
  • 彼らは訴える口実を探しますが、何も見つかりません。ダニエルが忠実だからです。そこで彼らは王から勅令を取りつけます。三十日の間、王以外のだれかに祈願をする者はだれでも、ししの穴に投げ込まれる、というものです。
  • ダニエルはそれを知っています。彼は家に帰り、窓をエルサレムに向けて開け放ち、以前と同じように一日に三度祈ります。
  • 「窓を閉めるだけなら、祈ることに変わりはないし、神も同じように聞いてくださる」と考えることもできたはずです。けれども彼は、それでは人を恐れる心に屈することになると知っていました。彼は主に信頼することを選びました。
  • おそらく彼は、神が燃える炉の中で守られたシャデラク、メシャク、アベデネゴのことを覚えていたのでしょう。神は御使いを送ってダニエルを守られますが、「もしダニエルが雨戸を閉めていたら、この物語は存在しなかったでしょう。」
  • 説教者はまた、オーストラリアで現在制定されている法律にも触れます。彼はそれを言論の自由に対する隠れた攻撃だと考え、これについて祈るよう呼びかけます。
  • 詩篇56篇は、ダニエルの姿勢を要約しています。「わたしは恐れる時、あなたに寄り頼みます。[…] わたしは恐れません。肉なる者はわたしに何をなし得ましょう。」

7. 立ち直らされたペテロと、勝利への第一歩

  • 二つ目の前向きな実例は、ヨハネ21章のペテロです。復活の主は彼に三度尋ねます。「わたしを愛するか。」ペテロは悲しみながら答えます。「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています。」イエスは彼に言います。「わたしの羊を養いなさい。」
  • イエスはそれから、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを告げ、「わたしに従ってきなさい」と言われます。ペテロは生涯の終わりまでイエスに従いました。ペンテコステの日、彼は確信をもって福音を告げ、三千人が救われます。
  • Mike Wyattは、ペテロが逆さ十字架にかけられたという伝承と、20世紀にサン・ピエトロ大聖堂の下で行われた発掘についての文章を読み上げます。そこから彼はこう述べます。かつて未信者の考古学者たちは聖書が偽りであることを証明するために掘っていましたが、「今では、どこを掘ればよいかを知るために聖書を読んでいます」。
  • 何が臆病者を勇敢な証人に変えたのでしょうか。「生きておられる、復活したキリストとの出会いです。」それは私たちの魂を救うものでもあります。人間の宗教は自分で這い上がれと言いますが、神は、私たちがまだ罪人であったときに私たちのために死んでくださったキリストにおいて、解決を与えてくださいます。
  • 「私たちはみな失敗しました。おそらくまた失敗するでしょう。でもあきらめないでください。神はなおあなたを用いたいと願っておられます。」
  • 第一歩:神があなたに人を恐れていると気づかせるなら、それを認め、神に正直になることです。「恵みは、へりくだる人のもとへ駆けつけます。」
  • 次に、上を向いてください。人を恐れる心という要塞は、人間の意志の力では崩れません。この方程式を覚えてください。「信仰とは、努力することではなく、信頼することです。」
  • 「人を恐れるのをやめて、神を恐れ始めなさい。」主を恐れることは知恵の初めです。説教者はジョン・ウィザースプーン(John Witherspoon)のことば「神への恐れだけが、人への恐れから私たちを解放できる」と、マタイ10章28節のイエスのことばを引用します。
  • 彼は第二コリント10章3~5節で締めくくります。私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神の力によって要塞をも破壊するほど強力です。人を恐れる心はその要塞の一つであり、主の助けによって打ち倒されなければなりません。

ポイントのまとめ

  • 人を恐れる心はわなです。人を大きく、神を小さく見せ、高慢に根を張っています。
  • それは、アブラムやペテロのような信者にあっても、欺き、臆病、妥協、不従順、否認へと導きます。
  • 聖書では、失敗は必ずしも最終的なものではありません。ニコデモもペテロも立ち直らされました。
  • ダニエルは、主に信頼し、窓を開けたままにすることで、圧力の下でも忠実でいられることを示しています。
  • 勝利は、へりくだりと神への信頼から始まります。人を恐れるのをやめ、神を恐れることです。

私への適用

  1. 最近、神の承認よりも人の承認を求めたのは、どんな場面でしたか。
  2. イエスについて語るとき、人を恐れる心が唇を封じてしまう場面はありませんか。
  3. 不安を感じるとき、あなたはまず状況を操作しようとしますか。それとも主に信頼しますか。
  4. 自分の信仰を人に見られないようにするために、閉めたくなる「窓」はどれですか。
  5. 人を恐れていることを神の前で正直に認め、神に助けを求める用意はありますか。

引用された聖句

よくある質問

「人を恐れるとわなに陥る」とはどういう意味ですか。

Mike Wyattは、「わな」と訳されている言葉は落とし穴を指すと説明します。人を恐れる心とは、周囲からの圧力であり、他人にどう思われるかを病的に気にすることであり、神に信頼する代わりに人を操ったり嘘をついたりさせる不安のことです。それは、人を大きく見せ、神を小さく見せてしまいます。

人を恐れる心に屈した聖書の人物は誰ですか。

説教者は五人を挙げています。サライを妹だと偽ったアブラム(欺き)、夜にイエスのもとを訪れたニコデモ(臆病)、金の子牛を造ったアロン(妥協)、民を恐れたと認めたサウル(不従順)、そして三度イエスを知らないと言ったペテロ(否認)です。

人を恐れる心にどうすれば打ち勝てますか。

Mike Wyattはまず、へりくだって神の前にこの恐れを認め、それから神に向き直ることを勧めます。この要塞は人間の意志の力では崩れません。信仰とは、努力することではなく信頼することだと彼は言います。人を恐れることをやめ、神を恐れ始めることです。窓を開けたままにしたダニエルのように。

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