今日もまだ開かれている恵みの御座に近づこう

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シンプルで直接的な呼びかけ

ジャン=マルク・ボットロン牧師は、ヘブル人への手紙4章14〜16節を土台にメッセージを始め、まずこう語りかけます。私たちには偉大な大祭司、神の子イエスがいて、その方は天を通られ、私たちの弱さに同情してくださる方だということです。そこから、説教全体はひとつの招きに集約されていきます。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。

牧師は強調します。これは机上の理論ではありません。一人ひとりが自分自身で下すべき、個人的な決断なのです。誰かの代わりに信仰を生きることはできませんし、親が牧師だからといって信仰が受け継がれるわけでもありません。神のことばは常に北を指すコンパスであり、その北こそが恵みの御座です。各世代がこのみことばに立ち返らなければ、少しずつ道を外れていきます。三、四世紀を経て、もはや元の姿を失ってしまったプロテスタントの諸潮流のように。

あなたは今、疲れているかもしれません。気が散っているかもしれません。落ち込んでいるかもしれません。この説教はあなたに超人的な努力を求めているのではありません。ただ一歩を踏み出すことを求めているのです。今もなお手を差し伸べておられる方に向かって歩む、その一歩を。

記事の構成

1. 二つの御座:今日は恵み、明日は裁き

神はひとつの御座に座しておられます。そして今日、その御座は恵みの御座です。そこには罪の赦しと、イエス・キリストにある新しいいのちがあります。ステパノはそれを目にしました。石打ちにされながら、神の右に立たれるイエスを見て、永遠のいのちがその先も続くという確信を得たのです。

しかしジャン=マルク・ボットロン牧師は警告します。この恵みの御座は永遠には続きません。ある日、それは黙示録20章11節にある大きな白い御座、すなわち死者がその行いに応じてさばかれる最後の審判の御座になります。その日には、恵みを拒んだ者たちのための恵みはもう残されていません。

明日に先延ばししてはいけない

「今日、恵みの日のうちに」と、ヘブル人への手紙は語ります。明日も自分が生きているかどうか、誰にもわかりません。永遠に踏み込むのに一秒あれば十分であり、一度そこに至れば、もう後戻りはできません。今日、あなたは恵みを見出すことができます。今日、あなたは赦されることができます。まだ開かれているうちに、この御座へと急いでください。

2. 道を切り開かれた偉大な大祭司イエス

牧師は本文に立ち返ります。イエスはアロンではなく、メルキゼデクになぞらえられる、私たちの偉大な大祭司です。古い契約のもとでは、至聖所は誰も入ることのできない場所でした。年に一度、たった一人の人だけがそこに入り、万一そこで死んでも誰も助けに入れないように、足に綱を結びつけられたのです。

ご自身の血を流されることによって、イエスは新しい道を開かれました。垂れ幕は真っ二つに裂けました。十字架を、辱めを、そして最悪の拒絶(神ご自身からの拒絶)を耐え忍ばれたのは、あなたが大胆に父なる神に近づけるようになるためです。この道は、それまで存在しませんでした。イエスがそれを切り開かれたのです。

信仰に満ち満ちて近づく

ヘブル人への手紙の本文は、「信仰に満ち満ちて」近づくようにと私たちを招いています。福音書の中でイエスは、その大きな信仰ゆえに二人の人物を取り上げておられます。百人隊長と、カナンの女です。イエスは信仰を見るのを喜ばれます。そして信仰は祈りの中で成長します。「祈り求めるものはすべて、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(マルコ11:24)。疑いながら祈るとき、あなたは自分自身の祈りの働きにブレーキをかけてしまっているのです。信仰に満ち満ちているとは、自分の目に見えるものよりも、神が語られることをより深く信じることです。

きよめられた心、平安な良心

イエスの血は、心を悪い良心のすべてから清めます。告白されていない罪はひとつひとつ壁となり、あなたから大胆さを奪っていきます。告白は壊れた関係を回復させます。そして神ご自身は、いつも真実であられます。

3. 神は失われた人を探しておられる

私たちが神を探し求める前に、神のほうが先に私たちを探しておられました。ジャン=マルク・ボットロン牧師はルカの福音書19章5〜10節を引用します。木の上にいるザアカイに、イエスは目を上げてこう言われます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日、あなたの家に泊まることにしているから」。人々から蔑まれていたこの男は、自分からは求める勇気さえなかった訪問を受けるのです。そしてイエスはこう締めくくられます。「人の子は、失われた人を探し出して救うために来たのです」。

神のほうから先に一歩を踏み出してくださいます。神はあなたを、今いる場所で探しておられます。出エジプト記3章10節でモーセを召されたように、神はあなたをご自分のみわざに結びつけるために呼びかけておられます。あなたが答える番です。「私はここにおります」と。

4. カレブとヨシュアのように、神の側に立つ

民数記13章で、モーセは十二人の偵察隊を約束の地の偵察に送ります。十人は落胆して戻ってきます。「私たちは、あの巨人たちに比べればいなごのようなものだった」。しかしカレブとヨシュアの二人は、同じ地を、同じ敵を見ながらも、そこに神をも見ていました。そして彼らは言います。「上って行って、あの地を占領しよう。私たちには必ずできる」。

ジャン=マルク・ボットロン牧師はここから、ひとつのシンプルな教訓を引き出します。世の目で状況を読むとき、私たちは自分を小さく見てしまいます。しかし神の側に立つとき、自然の法則を超える信仰の法則が見えてきます。民は多数派に従い、荒野を四十年間さまよいました。二人の信仰だけで、あの地への扉を開くには十分だったのです。今朝、あなたはどちら側に立っていますか。

5. あなたのことばを神のみことばに合わせる

牧師は、私たちが口にすることばの力を強調します。コリント人への手紙第二10章5節は、あらゆる思いを捕らえてキリストに服従させるようにと私たちに求めています。自分のことばを神のみことばに合わせるとは、神が語られることと矛盾するものを、自分の口から出させないということです。

よく口をついて出てくる、二つの空しいことばがあります。

  • 「神は今はもう癒やしをなさらない」という言葉。この一言は信仰を消し、神がなそうとしておられることへの扉を閉ざしてしまいます。イエスは、きのうも今日も、そしてとこしえまでも同じ方です。
  • 「私の家族は決して救われない」という言葉。繰り返し口にするうちに、それは自分の家族に対して語る予言のようになってしまいます。そうする代わりに、約束の上にしっかりと立ってください。

まず神の御教えに耳を傾け、あなたの語彙の中に紛れ込んでいる空しいことばを打ち砕いてください。あなたが口で告白することは、あなたが思っている以上に重みを持っています。

6. ナアマン:へりくだりが奇跡への扉を開く

列王記第二5章に登場するシリアの将軍ナアマンは、強力な力を持ちながらも、らい病にかかっていました。彼は預言者エリシャのもとに癒やしを求めてやって来ますが、エリシャは自ら出向くこともせず、ヨルダン川で七回身を洗うようにと人を遣わして伝えるだけでした。ナアマンは憤慨します。自分にふさわしい儀式を期待していたのです。彼のしもべたちが説得し、彼は従うことにします。川に下り、へりくだり、身を浸し、そして癒やされて出てくるのです。

教訓は明白です。へりくだりがなければ、神がなそうとしておられることを見過ごしてしまいます。ヤコブは率直にこう語ります。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主はあなたがたを高くしてくださいます」。神は高ぶる者に敵対されます。神に低くされるよりも、自分から低くなるほうがよいのです。

7. ページをめくり、主が造られたこの日を生きる

ジャン=マルク・ボットロン牧師は最後に、過去に囚われたままでいないようにと招きます。十字架の上で、イエスは詩篇9篇11節の冒頭の言葉を叫ばれました。それは、御名を知る者に対する主の真実さを語る詩篇です。「主よ。あなたの御名を知る者はあなたに信頼します。あなたを尋ね求める者を、あなたは見捨てられないからです」。見捨てられたかに見えるそのただ中でも、神はあなたを手放されません。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(コリント人への手紙第二5章17節)。神がすでに消し去られたことを、いつまでも蒸し返さないでください。「これは主が設けられた日である。この日を喜び、楽しもう」(詩篇118篇24節)。

ページをめくってください。近づいてください。恵みの御座は、今日もまだ開かれています。

心に留めたいポイント

  • 恵みの御座は今日開かれています。しかしいつか、裁きの御座になります。明日に先延ばししないでください。
  • 私たちの偉大な大祭司であるイエスは、父なる神へと至る新しい道を切り開かれました。大胆に近づいてください。
  • 神のほうから先に一歩を踏み出されます。ザアカイを探されたように、神はあなたを探しておられます。
  • 信仰に満ち満ちているとは、目に見えるものよりも、みことばをより深く信じることです。
  • あなたのことばをみことばに合わせてください。空しいことばは、あなたの祈りの力を消してしまいます。

今日の一歩

  • 先延ばしにするのではなく、今日、神に近づくためにできる具体的な一歩は何でしょうか。
  • あなたの大胆さを奪っている、告白していない罪はありませんか。今朝、それを差し出すのを妨げているものは何でしょうか。
  • 今の状況に対して、あなたはどちらかというと十人の偵察隊の側にいますか。それともカレブとヨシュアの側にいますか。
  • あなたの口からよく出てくる空しいことばは何でしょうか。それをどのように神のみことばに置き換えますか。
  • 主が備えてくださる新しい日を受け取るために、あなたはどんなページをめくる必要がありますか。

引用された聖句

よくある質問

ヘブル人への手紙4章が語る「恵みの御座」とは何ですか。

それは神ご自身の御座であり、信じる者があわれみと助けを見出すことのできる場所として示されています。「恵みの」御座と呼ばれるのは、そこで罪の赦しとイエスにある新しいいのちが与えられるからです。この説教は、それが永遠に開かれたままではなく、いつか裁きの御座になることを思い起こさせます。

自分にはふさわしくないと感じるとき、どうやって神に近づけばよいのですか。

まさにそのためにこそ、イエスは私たちの弱さに同情してくださる大祭司として示されているのです。私たちは、ふさわしいから近づくのではありません。イエスの血が道を開いてくださったから近づくのです。あなたの罪を告白し、良心をきよめていただき、「準備が整うまで」待たずに前へ進んでください。

ジャン=マルク・ボットロン牧師はなぜ、空しいことばについて強調するのですか。

私たちのことばが、私たちの信仰の方向を決めるからです。「神はもう癒やしをなさらない」「私の家族は決して救われない」と繰り返すことは、祈りを消し、神がなそうとしておられることにブレーキをかけてしまいます。自分のことばをみことば(コリント人への手紙第二10章5節)に合わせることは、信仰が息をするための場所を作ることなのです。

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