はじめに
イエス様が十字架で死なれたとき、神殿の幕は上から下まで真っ二つに裂けました。かつては一人の人間が年に一度だけ、至聖所に入って神の前に立つことを許されていました。しかし今では、それがあなたの毎日の特権となっています。今週の日曜日、ジャン・カルヴァン・ナナ牧師は出エジプト記19章1〜6節からみことばを開き、多くのクリスチャンが見過ごしがちな真理を思い起こさせてくれます。それは、神の民の一人ひとりが例外なく、主のための祭司となるように召されているということです。
これは牧師や使徒、教師だけに与えられたものではありません。教師も、労働者も、医師も、エンジニアも、会計士も、商人も、すべての人への個人的な召しです。あなたにも関係のあることです。そして、この召しには応答が求められます。それが「聖別」です。
記事の構成
1. 限られた祭司職から、すべての人の祭司職へ
古い契約の下では、祭司はレビ人でした。神はイスラエルのすべての初子の代わりに彼らを取られました。初子はエジプトで打たれ、その後贖われた者たちです。彼らはもはや自分自身のものではなく、主のものとなり、幕屋への奉仕のために聖別され、礼拝に関わるすべてのことを託されていました。
幕屋の中心には聖所があり、幕によって至聖所と隔てられていました。そこに入ることができたのはただ一人、大祭司だけです。年に一度、しかも長い聖別の準備を経てからでした。
そこにイエス様が来られました。十字架の上で、幕は上から下まで裂けました。至聖所はすべての人に開かれたのです。これは、モーセに与えられたみことばの成就です。「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト記19:6)。そしてペテロは、これを教会に向けて直接語り直します。「あなたがたは、選ばれた民、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」(1ペテロ2:9)。
主の教会は祭司の王国です。すべての人に関係があります。例外はありません。
2. 祭司職には聖別が求められる
祭司としての務めには、切り離すことのできないものがあります。それが聖別です。神が私たちをご自分の家で何のために召しておられるかに応じて、聖別してくださるのは神ご自身です。私たちの側の応答は、ただ切に願うことです。「主よ、私は聖別されたいのです。あなたのために、祭司としての務めに入りたいのです」と告白することです。
かつてレビ人は、罪の贖いのために献げられた雄牛の頭に手を置きました。これは、神の祭司になりたいという願いを表す行為でした。誰も強制されたわけではありません。拒む者はそのまま留まることもできました。しかし応答した者たちは、聖なる務めへと導き入れられたのです。
新しい契約においても同じことが言えます。祭司であるということは、一つの献身です。自分の全存在を神にお委ねし、神のみわざのために取り分けられ、自分のいのちが神のものであるゆえに神のために生きるという献身です。もはや私たち自身の計画ではなく、神が私たちのために持っておられる計画が中心となります。
3. 神に仕えることは義務ではなく、特権
祈ること、目を覚ましていること、断食すること、仕えること。これらは私たちが神にしてさしあげる恩恵ではありません。むしろ、神の御前に入ることを神ご自身が私たちに許してくださっている特権なのです。かつては一人の人間が年に一度しか近づけませんでした。今日では、誰もがそこに行くことができます。これは遠慮なく用いるべき特権です。
4. 教会の中にある二つのグループ
教会には二つのグループの人々がいます。一つ目のグループは聖別された人たちです。彼らはすべてを主の御手に委ねました。この決断を下すことは決して簡単ではありませんが、その決断によって彼らは神の祭司となったのです。
二つ目のグループはまだためらっている人たちです。自分の人生の主導権を握り続けたいと願っています。しかし、みことばははっきりと語っています。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、キリストのためにいのちを失う者はそれを救うのです」(マルコ8:35)。逆説的に聞こえますが、これは真実です。
注意しておきたいのは、祭司にならなくても神の民に含まれることはできるということです。かつては、祭司の集団(レビ人)と一般の民という区別がありました。神はこの状況を変え、今ではすべての人がご自分の家で祭司となることを望んでおられます。しかし油断していると、この聖別に入ることなく、神の民の一員のままでいることもあり得るのです。
5. 聖別を遅らせる、目立たない偶像
イスラエルの民は雲の柱に導かれ、荒野で神とともに歩んでいたにもかかわらず、それでも金の子牛を作ってしまいました。これは彼らを責めるためではなく、私たちも油断してはならないということを思い起こすためです。私たちの偶像は金でできてはいません。もっと目立たない形をしています。
- 信仰の欠如:何も見えない場所へ飛び込み、神の御手の中に落ちていくことを拒む姿勢。
- 「自分」への固執:主導権を握り、支配し、まず自分自身の能力を頼みとしようとすること。
- 依存症:神の家における召しから遠ざけてしまうもの。
- 怠慢と怠け:神に関わることに対する姿勢で、悪魔はこれを用いて献身を先延ばしにさせます。
- この世への愛とその魅力。「世をも、世にあるものをも、愛してはいけません」(1ヨハネ2:15)。
- お金への愛。「だれも、二人の主人に仕えることはできません……あなたがたは、神と富とに仕えることはできません」(マタイ6:24)。
- 悪い交友関係:霊的生活にとって有害なもの。
- 個人主義:自分自身の利益だけを絶えず追い求めること。
- 霊的なことへの優先順位の低さ:悪魔はいつも「とても大切に見えること」を差し出し、神のために本当に必要なことを妨げようとします。
- 識別力の欠如:たとえ喜ばしい出来事であっても、それによって神が私たちのために立てておられる計画からそれてしまうことがあります。
6. 新しい契約の祭司は、刈り入れをする者
かつて祭司には宣教的な役割はありませんでした。イスラエルの民は幼い頃から神のことを教えられており、福音を全世界に広めるという使命はまだ与えられていなかったからです。しかし、この務めは変化しました。新しい契約における祭司は、刈り入れの働き人です。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」(ルカ10:2)。
主の教会は宣教する教会です。イエス様が御座を降り、十字架にかかられたのも、多くのたましいをご自分のもとに連れ戻すためでした。イエス様が最後に語られた言葉は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)でした。人はいのちの終わりに大切なメッセージを伝えようとするとき、最も本質的なことに絞って語るものです。イエス様もまさにそうされました。
7. 宣教する教会の中にある三つのグループ
ローマ人への手紙10章13〜15節は、一つのつながりを描いています。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょうか。また、聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができるでしょうか。遣わされなければ、どうして宣べ伝えることができるでしょうか。」
宣教のために働く三つのグループがあります。
- 送り出す人たち:現場にいる人たちのために祈り、とりなし、神のみわざが前進するように必要を満たします。
- 遣わされる人たち:立ち上がり、遠くへ、あるいはすぐ近くへ出て行き、良い知らせを届けます。
- その両方を行う人たち:立ち上がって出て行き、同時に送り出しもします。
三番目のグループは、私たち一人ひとりに多かれ少なかれ関わりのあるものです。クリスチャンとしての証しは、誰にとっても大切なことだからです。「送り出す人」であっても、私たちは主が置いてくださった場所で証しをします。仕事の場で、子どもの保育の場で、地域の団体で、近所で、同じアパートの隣人に対して、そのように証しをするのです。
覚えておきたいポイント
- 十字架で裂かれた幕は、至聖所をすべての信者に開きました。私たちは今、祭司の王国とされています(1ペテロ2:9)。
- この召しは、職業や役割にかかわらず、教会にいるすべての人に関係しています。
- 聖別は祭司職と切り離すことができません。聖別してくださるのは神ご自身ですが、私たちの側の応答は切に願い、すべてを神の御手に委ねることです。
- 神に仕えることは私たちが神にしてさしあげる恩恵ではなく、神が私たちに与えてくださる特権です。
- 「自分」への固執、お金、この世への愛、依存症、怠け、識別力の欠如といった目立たない偶像は、注意しなければこの聖別を遅らせます。
- 新しい契約の祭司は、刈り入れをする者でもあります。遣わされる人、送り出す人、あるいはその両方として。
自分に当てはめて考えてみよう
- 今の私は、聖別された者だろうか。それとも、まだすべてを主にお委ねすることをためらっているだろうか。
- 「自分」への固執、お金、依存症、この世への愛、怠けなど、どの目立たない偶像が私の聖別を遅らせているだろうか。
- 祈り、奉仕、賛美の時間を、神にしてさしあげる恩恵として生きているだろうか。それとも、神から受け取る特権として生きているだろうか。
- 「主よ、私はあなたのために聖別されたいのです」と、すでに主に告げたことがあるだろうか。
- 教会の宣教の働きにおいて、私は送り出す人だろうか、遣わされる人だろうか、それとも両方だろうか。今週、神が私を置いてくださった場所で、誰に良い知らせを届けることができるだろうか。
引用された聖句
- 出エジプト記 19:1-6 ・ 祭司の王国、聖なる国民
- 1ペテロ 2:9 ・ あなたがたは王である祭司
- マルコ 8:35 ・ 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失う
- 1ヨハネ 2:15 ・ 世を愛してはいけない
- マタイ 6:24 ・ 神と富とに仕えることはできない
- ルカ 10:2 ・ 収穫は多いが働き手が少ない
- マルコ 16:15 ・ 全世界に出て行きなさい
- ローマ人への手紙 10:13-15 ・ 宣教のつながり
よくある質問
教会の中で祭司として召されているのは誰ですか。
教会のすべてのメンバーが、例外なく召されています。これは牧師や使徒、教師だけに限られたものではありません。教師、労働者、医師、エンジニア、会計士、商人など、一人ひとりが自分の人生と神の家の中で祭司としての務めに召されています。
「聖別される」とは、具体的にどういうことですか。
それは、自分の全存在を神にお捧げし、神のみわざのために取り分けられ、自分のいのちが神のものであるゆえに神のために生きることです。まずは、主に対して祭司としての務めに入りたいと心から願うことから始まります。そして、私たちを何のために召しておられるかに応じて、聖別してくださるのは神ご自身です。
祭司にならなくてもクリスチャンでいられますか。
この聖別に完全には入らないまま、神の民の一員でいることは可能です。かつては、一般の民と祭司(レビ人)という区別がありました。神は今、ご自分の家にいるすべての人が祭司となることを望んでおられますが、それには個人的な応答、つまり自分の人生の主導権を握り続けることをやめるという献身が求められます。
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