聖書 — 口語訳 (1955)

詩篇 118

概要

詩篇118篇は、ユダヤの祭りで歌われたハレルの最後を飾る詩です。同じ賛美で始まり、同じ賛美で終わります。主のいつくしみは、とこしえに絶えることがありません。語り手は自分の救いを証しします。苦しみのうちに主を呼ぶと、主は答えて広い所に出してくださいました。人に信頼するよりも、主に身を避けるほうがよいのです。この詩には、新約聖書がイエスに当てはめる、隅のかしら石となった捨てられた石の言葉があり、枝の主日に群衆が叫んだ、主の名によって来る者に祝福あれという言葉も含まれています。

詩篇118篇には表題がなく、作者は分かっていません。これは礼拝のために作られた感謝の歌です。呼びかけと応答があり、神殿の門を開けるよう願う行列があり、祭壇のそばでの祭りの儀式が見られます。語り手は、国々に囲まれたとき神が救い出してくださったことを語ります。王か民の指導者かもしれませんが、本文はそれを述べていません。この詩篇は、ユダヤの大きな祭り、とくに過越の祭りで歌われたハレル(詩篇113篇から118篇)の締めくくりです。イエスは、最後の晩餐の夜、弟子たちとこれを歌われたと思われます。新約聖書は、捨てられた石や枝の主日の歓呼など、この詩篇の多くの節を引いています。今日、多くの教会がイースターにこの詩篇を読み、信仰者は救い出されたことへの感謝として祈ります。

この章の5つの区分

  1. 1-4節主に感謝せよ。そのいつくしみはとこしえに絶えない
  2. 5-14節苦しみのうちに主を呼ぶと、広い所に出してくださった
  3. 15-21節勝利の叫びと、義の門
  4. 22-24節捨てられた石と、主が造られた日
  5. 25-29節主の名によって来る者に祝福あれ

1主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

2イスラエルは言え、「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」と。

3アロンの家は言え、「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」と。

4主をおそれる者は言え、「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」と。

5わたしが悩みのなかから主を呼ぶと、主は答えて、わたしを広い所に置かれた。

6主がわたしに味方されるので、恐れることはない。人はわたしに何をなし得ようか。

7主はわたしに味方し、わたしを助けられるので、わたしを憎む者についての願いを見るであろう。

8主に寄り頼むは人にたよるよりも良い。

9主に寄り頼むはもろもろの君にたよるよりも良い。

10もろもろの国民はわたしを囲んだ。わたしは主のみ名によって彼らを滅ぼす。

11彼らはわたしを囲んだ、わたしを囲んだ。わたしは主のみ名によって彼らを滅ぼす。

12彼らは蜂のようにわたしを囲み、いばらの火のように燃えたった。わたしは主のみ名によって彼らを滅ぼす。

13わたしはひどく押されて倒れようとしたが、主はわたしを助けられた。

14主はわが力、わが歌であって、わが救となられた。

15聞け、勝利の喜ばしい歌が正しい者の天幕にある。「主の右の手は勇ましいはたらきをなし、

16主の右の手は高くあがり、主の右の手は勇ましいはたらきをなす」。

17わたしは死ぬことなく、生きながらえて、主のみわざを物語るであろう。

18主はいたくわたしを懲らされたが、死にはわたされなかった。

19わたしのために義の門を開け、わたしはその内にはいって、主に感謝しよう。

20これは主の門である。正しい者はその内にはいるであろう。

21わたしはあなたに感謝します。あなたがわたしに答えて、わが救となられたことを。

22家造りらの捨てた石は 隅のかしら石となった。

23これは主のなされた事で われらの目には驚くべき事である。

24これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。

25主よ、どうぞわれらをお救いください。主よ、どうぞわれらを栄えさせてください。

26主のみ名によってはいる者はさいわいである。われらは主の家からあなたをたたえます。

27主は神であって、われらを照された。枝を携えて祭の行列を祭壇の角にまで進ませよ。

28あなたはわが神、わたしはあなたに感謝します。あなたはわが神、わたしはあなたをあがめます。

29主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに 絶えることがない。

詩篇118篇を節ごとに読む

1-4節そのいつくしみはとこしえに絶えない:民全体の繰り返しの言葉

詩篇は呼びかけで始まります。「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」続いて三つのグループが、この繰り返しを唱えるよう招かれます。イスラエル、祭司たちであるアロンの家、そして主をおそれるすべての者です。音頭を取る人が呼びかけ、会衆が声をそろえて答える様子が目に浮かびます。「いつくしみ」と訳された言葉は、ヘブル語では神の変わらない愛、契約を結んだ者への真実を表します。私たちの気分や成功には左右されず、とこしえに絶えることがありません。最後の「主をおそれる者」は最も広い呼びかけで、主に向かうすべての人を含むことができます。詩人は苦難を語る前に、まず土台を据えます。神は恵みふかい方です。これがこの先のすべての鍵であり、あなたも日々の合言葉にできます。

5-9節悩みのなかから呼ぶと、神は広い所に置かれた

詩人は自分の物語を一文で語ります。「わたしが悩みのなかから主を呼ぶと、主は答えて、わたしを広い所に置かれた。」「悩み」と訳された言葉は、ヘブル語では狭い場所、締めつけられる窮地を思わせます。神の答えはその逆で、広い所に置き、息ができる空間を返してくださいました。そこに信頼の宣言が続きます。主が味方されるので、恐れることはない。人はわたしに何をなし得ようか。ヘブル人への手紙は、試練の中にある信者を励ますためにこの言葉を引いています。人が何もできないのではなく、人が最後の言葉を持たないということです。8節と9節は教訓を引き出します。「主に寄り頼むは人にたよるよりも良い。」力ある君たちにたよるよりも良いのです。人の助けには価値がありますが、最終的な信頼の重みを担えるのは神だけです。

10-14節四方を囲まれても、主のみ名によって救われる

詩人は極限の危険を描きます。もろもろの国民が、蜂のようにわたしを囲みました。「囲んだ」という言葉は三つの節で重ねられ、答えもそのたびに繰り返されます。「わたしは主のみ名によって彼らを滅ぼす。」彼を救うのは自分の力ではなく、神の名、すなわち神の臨在と権威です。敵はいばらの火のように燃えたちますが、いばらの火は激しく燃えても長くは続きません。13節は、押されて倒れようとした瞬間と、そのとき主が助けてくださったことを語ります。14節は、モーセが紅海を渡ったあとに歌った歌とほぼ同じ言葉です。「主はわが力、わが歌であって、わが救となられた。」あなたの救いも、救いの大きな歴史に連なっています。クリスチャンの戦いは剣なしで行われますが、教えは変わりません。あなたを取り囲むものに対して、力は主の名にあります。

15-18節わたしは死ぬことなく、生きて主のみわざを物語る

勝利は祭りになります。勝利の喜ばしい歌が、正しい者の天幕に響きます。主の右の手が三度歌われます。それは働く主の力のしるしで、すでに紅海のほとりでイスラエルを救ったものです。そして、多くの人が暗い時に心に留めてきた言葉が来ます。「わたしは死ぬことなく、生きながらえて、主のみわざを物語るであろう。」マルティン・ルターは、試練の時期にこの言葉を自室の壁に書きつけたと伝えられます。18節は率直な但し書きを加えます。「主はいたくわたしを懲らされたが、死にはわたされなかった。」試練は現実で、詩人はそこに神の懲らしめも見ていますが、それが最後ではありませんでした。この箇所は、あなたが病を免れると保証せず、あなたの命が神の御手の中にあり、神のみわざを物語るという目的があることを語ります。

19-21節義の門を開け:入って主に感謝する

詩人は神殿の前に着いて願います。「わたしのために義の門を開け、わたしはその内にはいって、主に感謝しよう。」ここには行列の様子があります。皆の前で神をたたえるために入ろうとしているのです。一つの声が答えます。「これは主の門である。正しい者はその内にはいるであろう。」この正しい者は完全な人ではなく、神に救われ、まっすぐな心で神のもとに来る人たちです。21節は賛美の理由を語ります。あなたが答え、わが救となってくださったからです。一人で経験した救いは、公の証しになります。多くのクリスチャンは、ご自分を門と言われたイエスを思いながらこの節を読みます。感謝は口にする必要があり、しばしば会衆の中で、他の人々とともに語られるのだと、これらの節は思い出させます。

22-24節捨てられた石が隅のかしら石となった

22節は新約聖書で最もよく引かれる節の一つです。「家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。」詩篇では、軽んじられたのに神に引き上げられた者、すなわち詩人自身と、彼を通して民を指します。二つの壁の接合部に置かれる隅のかしら石は、建物に向きと強さを与えます。イエスは、ご自分を退けようとしていた宗教指導者たちの前でこの節をご自身に当てはめ、ペテロも復活のあと、人が退けた方を神が土台に据えられたと語りました。「これは主のなされた事でわれらの目には驚くべき事である。」24節がそこから続きます。「これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。」この喜びの日は、まず救いの日です。クリスチャンは復活の日のイースターにこれを歌いますが、あなたの毎日をも照らします。

25-27節ホサナ:主のみ名によってはいる者にさいわいを

25節は嘆願です。「主よ、どうぞわれらをお救いください。」ヘブル語ではホサナ、どうぞ救ってくださいという意味で、枝の主日にエルサレムへ入るイエスに群衆が叫んだ言葉です。26節の「主のみ名によってはいる者はさいわいである。」は、詩篇では神殿に着く人を迎える言葉でしたが、群衆はそれをイエスに当てはめ、待ち望まれた王と認めました。25節の「栄え」は、神が民とともに始められたことの成功で、個人の富の約束ではありません。27節は、主が神であって私たちを照らされたと告げ、祭りの行列を祭壇の角にまで進ませよと命じます(別の訳では、いけにえをひもで祭壇の角までつなぐ、と訳されます)。祭りは、ささげ物の場へ向かいます。歓呼を受けるイエスは、まもなく命をささげられます。助ける方としてだけでなく、救う方としてイエスを迎えるよう、この箇所は招いています。

28-29節あなたはわが神:賛美は出発点に戻る

群衆、行列、祭壇のあと、詩人は自分の名で語ります。「あなたはわが神、わたしはあなたに感謝します。」民全体の信仰が、「わが神」という個人的な関係になります。そして詩篇は、始まったときとまったく同じ言葉で終わります。「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」この二つの繰り返しのあいだには、悩み、取り囲まれたこと、懲らしめ、退けられることがありました。何一つ隠されませんでしたが、すべてが神の変わらない愛に包まれています。こうして詩篇は、あなた自身の歩みを読み直す方法を教えます。試練を消すのではなく、初めにある神の善さと、終わりにある神のいつくしみの間に置き直すのです。

詩篇118篇の祈り方

この詩篇を祈るとき

  • 救い出されたとき、いやされたとき、試練を通り抜けたあとで、神に感謝したいとき。
  • 困難に取り囲まれ、すべてが自分に迫ってくるように感じるとき。
  • 他の人が自分にすること、言うことへの恐れで動けないとき。
  • 拒まれ、脇に追いやられ、周りの人から軽んじられていると感じるとき。
  • 重い病気の間、自分の命を神の御手にゆだねたいとき。
  • 朝、その日を不安ではなく神からの賜物として迎えたいとき。
  • 枝の主日からイースターまでの一週間、イエスに従って復活まで歩むとき。

詩篇118篇に基づく祈り

主よ、あなたは恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがありません。悩みの中からあなたを呼びます。私の周りで狭まっていくもの、心配事、争い、蜂のように私を取り囲む恐れを、あなたはご覧になっています。私を広い所に置き、息をする空間を返してください。あなたは私の味方です。人が私に何をするかを恐れないよう、教えてください。しばしば神ではなく人や力ある者に安全を求めてきたことを赦してください。あなたは私の力、私の歌です。もし私を懲らされても、死にはわたさず、あなたのみわざを物語るために私の命を守ってください。主イエスよ、捨てられた石、隅のかしら石となられたあなたを、私の人生の土台と認めます。ホサナ、主よ、私を救ってください。父のみ名によって来られたあなたをほめたたえます。この日はあなたが設けられた日です。この日を喜ぶことができるようにしてください。あなたはわが神、私はあなたに感謝します。アーメン。

鍵となる聖句

6節
主がわたしに味方されるので、恐れることはない。人はわたしに何をなし得ようか。

ダビデ、あるいはこの詩人は、神がともにおられるので人を恐れる必要はないと語ります。敵がいなくなるのではなく、より強い味方がおられるという確信です。

8-9節
主に寄り頼むは人にたよるよりも良い。 主に寄り頼むはもろもろの君にたよるよりも良い。

主に身を避けることは、たとえ力ある者であっても人に信頼するよりまさっています。詩は人の助けを軽んじるのではなく、それを正しい位置に置いています。

22-23節
家造りらの捨てた石は 隅のかしら石となった。 これは主のなされた事で われらの目には驚くべき事である。

捨てられた石が隅のかしら石となったという言葉を、イエスと使徒たちは、退けられた後に神によって教会の土台とされたキリストに当てはめました。

24節
これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。

喜びのうちによく歌われる一節です。一日一日は神から与えられたものであり、不安のうちにではなく、感謝をもって迎えるよう招かれています。

26節
主のみ名によってはいる者はさいわいである。われらは主の家からあなたをたたえます。

この祝福の言葉は、イエスがエルサレムに入られたとき、群衆が叫んだ言葉です。25節のホサナは、どうぞ救ってくださいという意味です。

このテーマで祈る

説教が語っていること

詩篇118篇についてよくある質問

詩篇118篇22節の、捨てられた石とはどういう意味ですか

建築士たちが捨てた石が隅のかしら石になったという言葉は、退けられた後に、神によって高く上げられることを表しています。イエスはこの節をご自身に当てはめ、ペテロも使徒の働きで引用しました。隅のかしら石は建物全体の向きと強さを決めるものであり、キリストは教会の土台です。

24節の、主が造られた日とはどういう意味ですか

24節は、一日一日を神の賜物として、不安ではなく喜びをもって受け取るよう招いています。この言葉は救いの宣言の後に続いています。神が救ってくださったのですから、喜ぶことができるのです。その日が楽になるという約束ではなく、すべての日を治めておられる方を仰ぐ招きです。

なぜ枝の主日に群衆は詩篇118篇の言葉を叫んだのですか

詩篇118篇はユダヤの祭りで歌われる詩の一つでした。群衆はホサナ、主の名によって来る者に祝福あれと叫び、よく知っていたこの詩を、王の到来を告げるものとしてイエスに当てはめたのです。福音書は、イエスがエルサレムに入られたときの出来事としてこの場面を伝えています。

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